慎の視点⑩
十一月の冷え込む日曜日の午後。慎は施設での誕生祝いの買い出しを終え、数歩先を歩く茜の小さな背中を視界の端に捉えていた。
「茜、そっちは行き止まりだぞ」
声をかけようとした直後、慎は足を止めた。歩道脇の植え込みの前で立ち往生する茜に、見覚えのある女性が歩み寄ったからだ。
(あれ?……佳山先生?)
麗奈は困惑しながらも茜を抱き上げた。どうやら迷子と勘違いしたらしい。そのまま通報しようとする麗奈の背中に、慎は苦笑を隠して声をかけた。
「……先生。そこで何をしているんですか?」
すると、麗奈は心臓が飛び出しそうなほど驚いて振り返った。
「…?」(何か化け物にでも会ったような反応だな。何があった?)
腕の中で、茜は「おっきくて……ふかふかしてて、きもちい……」と寝言を漏らし、麗奈の豊満な胸元に顔を埋めている。
(……こりゃいかん。本当に寝てしまったか)
慎は、茜がそのまま深い眠りに落ちたのを確認し、やむを得ず麗奈を施設まで案内することにした。道中、今日が自分の十六歳の誕生日であることを告げると、麗奈は立ち止まり、嘘偽りのない柔らかな微笑みを向けた。
「……おめでとう、久遠くん。素敵な十六歳になるといいわね」
「ありがとうございます、先生」
その言葉を、慎は表面上は淡々と受け取った。だが、その裏側では、さっきの彼女の反応が気になっていた。どうやら何かあったらしい、それは自分に関わる事だろう。でなければ、あんなに驚いた表情をする筈が無い。
――――――
施設へ到着すると、案の定、職員や子供たちの間で麗奈の美貌が騒ぎの種となった。慎はそれらを適当にいなしながら、「茜を助けてくれた礼」という建前を持ち出して麗奈を祝いの席に招待した。
そして、主役にも関わらず手際よく彼女の為の料理を仕上げていく。
(少々、やりすぎたか……?)
驚愕する麗奈の表情を見て、慎は内心で苦笑した。だが、彼女が自分の料理を口にし、その完成度に絶句する姿を見るのは、悪くない気分だった。
しかし、パーティーの最中も、慎は麗奈の視線が時折泳ぐことに気づいていた。やはり彼女は何かを抱えている。慎は頃合いを見計らい、二人きりになった談話室で切り出した。
「何かありましたね、先生」
麗奈の口から語られたのは、芳子による犯罪的なプライバシー侵害の全貌だった。金と権力で過去を暴き、その内容を電話でぶちまけたという最後っ屁。
(成る程、そこまでやってたか。……本格的に俺を標的にしたが、世間知らずの令嬢には刺激が強かったか)
芳子が戦慄して逃げ出した理由を、慎は瞬時に理解した。実家の力を使えば、いくらでも事実は歪められただろう。だが、彼女が目にしたのは「六歳の子供が独力で母親を排除した」という、彼女の常識を根底から覆す異質な記録。意地よりも理解不能の相手に対する恐怖が勝り、芳子は「逃亡」を選択したのだ。
慎は最後までくだらない真似をした芳子への怒りよりも先に、その「過去」を麗奈にどう説明すべきかを考えた。彼女は真面目に、自分のことで心を痛めている。
「話すべきなんでしょうね。俺の……六歳の時の話を」
慎は、淡々と「始まりの記憶」を紡ぎ出した。六歳以前の記憶がないこと。生きるために母親の虐待を記録し、自ら警察へ向かったこと。その決断に後悔はないこと。
「……あなたが生きるために必死だったことを、誰も責めることなんてできないわ。あなたは、自分自身の手でその命を繋いだのよ。それは……とても立派なことだわ」
麗奈はそう言い、大粒の涙を零した。慎は動揺した。彼女がこれほどまでに激しく感情を揺さぶられ、自分のために泣くとは思っていなかった。
(いや、泣かなくても……思っていた以上にお人好しで優しい人だな……、しかし、どうするか)
慰めるべきか、黙って見守るべきか。最適解を導き出せずにいた慎の耳に、幼い足音が届いた。
「……にーちゃん。ねーちゃん、ないてる」
扉の隙間から、寝ぼけた茜がふらふらと現れた。彼女は慎を「めっ」と叱りつけると、迷わず麗奈の膝に顔を埋め、再びその豊かな胸を枕にして収まってしまった。余程気に入ったのだろう。
「ふかふか……。にーちゃん……だめ……」
「あ……ふふ、あはは……」
麗奈が涙を流しながらも、茜の無邪気さに吹き出す。その場を包んでいた重苦しい空気が、一瞬で温かなものへと塗り替えられていった。
(助かったよ、茜……。このまま先生に泣かれ続けたら、どう対処していいか分からなかった)
慎は穏やかな笑みを浮かべ、二人の様子を見守った。だが、その思考の底には、麗奈には決して見せない淀みが沈んでいた。
(……嘘は言ってない。……筈だが。やはりこういうのは、インチキをしているようでなんかなぁ……)
「六歳以前の記憶がない」ことも、「生きるために行動した」ことも事実だ。しかし、彼が隠している「真実」の全貌……前世の記憶と、この世界が「小説」であるという確信。それは、どれほど心を許した相手であっても、共有することのできない孤独な秘密だった。
茜の寝顔を眺めつつ…「……よほど先生の胸が気に入ったらしい。さてはこいつ、前世では男だったのか?」と、何となく『前世』を絡めたネタを口にする…本当に茜の前世が男かどうかは知らないが、聞いた麗奈はおかしそうに笑い、慎は安堵した。
そして、麗奈を真田と一緒に家まで送り……
――――――
「あれから…もう十年か。早いもんだ」
『お前が俺と会って、この世界の実態を知ったのは去年だけどな』
「ああ、そうだな」
過去の振り返りは終わり、慎は独り言ち、静かにスマホを耳に当て直した。過去の回想を断ち切り、現在の協力者である健次郎との対話に戻る。
「ふむ……………」
『慎? どうした、急に黙り込んで?』
「…いや、少し感傷に浸ってた。……とにかく、織田川芳子の件はこれで一段落だろう。だが、これから先、何が起きるか分からん…とにかく未知数だ。引き続き、先生の周辺には気を付けることにするよ」
慎の決然とした言葉に、健次郎はニヤニヤとした気配を隠そうともせずに問いかけてきた。
『……へえ。やっぱり、相当「気」があるのか? 小杉の時は「友情」だったが、今回は…「恋愛」か?』
「恋愛かどうかは置いといて、情があるのは……否定はしないさ。絆されたとは、自分でも思っているからな。あんなお人好しを放っておけるほど、俺も白状では無いらしい」
『ははっ、そうかい。まあ、お前がその気なら俺もとことん付き合うぜ。……じゃあな、改めて誕生日おめでとう』
「ああ、ありがとうよ。おやすみ」
通話を終え、慎はベッドに体を沈めた。 天井の木目をぼんやりと見つめながら、今日一日の出来事を反芻する。麗奈の涙、茜の温もり、そして施設のみんなの笑顔。
ポツリと呟く。
「当分は、平和だといいが……」
――――――
翌朝。登校した慎が廊下を歩いていると、向こうから麗奈がやってくるのが見えた。 昨夜の涙を拭い去り、いつもの凛とした、けれどどこか柔らかさを増した表情。彼女は慎の姿を認めると、少し照れくさそうに、けれど真っ直ぐに歩み寄ってきた。
「久遠くん、おはよう。……昨日は、本当にありがとうね。あなたが主役だったのに、あんなに素敵なおもてなしをしてもらっちゃって……」
「おはようございます、先生。気にしないでください。俺も楽しかったですから」
慎は、昨日見せた「掃除屋」の片鱗を微塵も感じさせない、穏やかで清々しい笑顔を向けた。
「またいつでも来てください。茜も喜びますから」
(俺もだけど)と、内心で呟いた。
「ええ……。また、寄らせてもらうわね」
麗奈は嬉しそうに微笑み、足取り軽く職員室へと向かっていった。 その背中を見送りながら、慎は静かに、けれど確かな足取りで自席へと向かう。
「さて、今日も頑張るか」
物語の筋書きは、すでに書き換えられた。 かつての悲劇の予兆は消え、ここにあるのは、先の解らない新しい日常の始まりだった。
ここで過去篇及び1年生を終了します。
閑話を2話投稿した後、慎が2年生になった話を開始する予定です。




