慎の視点⑨
二学期の喧騒が一段落した頃、慎は校内の空気の変化を敏感に感じ取っていた。傲慢な女王として君臨していた織田川芳子が、学園祭での敗北以降、一度も登校してこないのだ。
(……おかしい。あそこまで執着していた女が、何の反撃もなしに引き下がるか?)
慎は芳子の次の出方を警戒していた。彼女の性格なら、家の権力を笠に着て、さらなる卑劣な手段……教育委員会への圧力や、麗奈の解雇を画策するはずだと踏んでいた。だが、事態は慎の予測を超えた方向へ動き出す。
校内に流れた、織田川芳子の「急な自主退学と転校」という知らせ。周囲の取り巻きたちが解放感に浸る中、慎は渡り廊下で一人、窓の外を眺めながら思考を巡らせていた。
(……想定外だな。こちらが実力行使に出る前に、自ら盤面を降りるとは。一体、何があった?)
そこへ、会議を終えたばかりの麗奈が姿を見せた。その表情は硬く、何か重大な事実に直面した者の困惑が滲んでいる。
「久遠くん、少し話せるかしら」
麗奈は、転校した宏美から電話があったことを単刀直入に切り出した。慎は、宏美が口を割ったことを瞬時に察したが、表情を変えずに応じた。
「あ~……隠し通せるか疑問でしたが、やはり先輩は話してしまいましたか」
麗奈は、慎がなぜそこまでして自分や宏美を助けたのか、その真意を問うてきた。慎は「先生に心を許しているからだ」と本心を告げた。中学の時のように、気に入った人間を織田川のような輩に蹂躙されたくない――その意志は、慎にとって嘘偽りのないものだった。
「ただ、今回の織田川先輩の転校は、俺にとっても想定外です」
「……あなたが何かしたわけじゃないのね?」
「ええ。まぁ確かに、あのまま彼女が馬鹿をやり続ければ、こちらから追い出そうとは思っていましたが」
慎はさらりと、その苛烈な「選択肢」が常に予備動作として存在していたことを口にした。麗奈が顔を引き攣らせるのを見ても、彼の心は揺るがない。彼にとって、悪意を挫くための徹底的な排除は、前世から続く生存戦略に過ぎないからだ。
しかし、芳子が「自発的に」逃げ出した理由だけは、この時の慎にはまだ解けていないパズルだった。
――――――
その日の夜、児童養護施設「□□□園」の自室。慎は窓辺に立ち、夜の闇を見つめながら、スマートフォンの画面を耳に当てていた。通話の相手は、健次郎だ。
「ああ、織田川芳子は転校したよ。……俺の所為? まぁ、そうかもな……こんな展開はお前の『記憶』には無いんだろ?」
受話器の向こうで、健次郎が呆れたような声を出す。
『ある訳無いよ。悪役が物語開始前に退場とか、前代未聞だ。宏美の家庭にまで干渉したんだろ? 俺だってドン引きだ。痛快ではあるけどよ……』
「……俺はただ、先生の平穏を確保しただけだ」
『その「確保」の仕方が、十五歳のガキの領域を遥かに超えてんだよ。……芳子の奴、お前の「本性」を嗅ぎ取って、生存本能で逃げ出したんじゃないか? 蛇に睨まれた蛙、どころの騒ぎじゃない。怪獣に家を壊された市民の心境だろうよ』
「買い被りすぎだ。俺はただの高校生だよ」
『どの口が言ってんだ。まあ、これで「女教師・奈落へ落ちる」のメインプロットは完全に消滅したな。おめでとう、久遠慎。お前はこの世界の運命を、力技で捻じ曲げたんだ』
健次郎との通話を終えた慎は、液晶を消して溜息を吐いた。
(俺の存在が原因、か……)
芳子が実家の権力を使って慎の過去……特に「六歳の決断」という秘匿された最深部にまで触れ、そのあまりの異質さに戦慄して逃げ出したことなど、この時の慎は知る由も無かった。




