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慎の視点⑧

学園祭の喧騒が引き、夜の静寂が校舎を包み込む頃。一年A組の教室内で、慎はクラスメイトたちの称賛を適当に受け流しながら、最後の一杯を麗奈の前に置いた。


「先生も、お疲れ様でした」


「……ありがとう、久遠くん」


麗奈が温かいカップを両手で包み込み、安堵の表情を浮かべる。慎はその様子を視界の端で確認しながら、この後の事を考えていた。


(……さて、次は『協力者』の安全確保か)


慎は、教室内で談笑するクラスメイトたちに背を向け、窓の外の闇を見つめた。


その数時間後。夜十時、街灯の冷たい光が落ちる東雲宏美の自宅マンション前。慎は、手元にある厚みのある封筒を、駆け寄ってきた宏美に差し出した。


「これまでのご協力を感謝します、東雲先輩。……約束の物です。ご確認ください」


宏美が震える手で封筒の中身を確かめる。そこには、探偵の山川が集めた東雲正和の不貞の全容――ホテルの密会動画、生々しい音声など、裁判で逃げ場を奪う「弾丸」として揃っていた。 慎は、データで確認した正和の腐りきった性根に、深い嫌悪を感じていた。家族を所有物と見なし、裏切りを「軽い気持ち」で正当化する男。早々に宏美とその母親を解放すべきだという判断は、慎の中で揺るぎない結論だった。


「あの……久遠くん、これで終わりで……本当にいいの? 私、大したことはできなかったわ。あんなスパイの真似事程度で……。この見返りは、あまりに大きすぎるわ」


「気にしないでください。十分ですよ。……これ以上長引けば、あなたのリスクが大きくなる。織田川先輩に不自然な動きを悟られれば、次はあなたが標的になる」


慎の声は淡々としていたが、そこには彼女を危険から遠ざけようとする明確な意志があった。


「あの最低な父親に気づかれる前に。早く」


「……っ、ありがとう」


宏美は力強く頷き、マンションへと戻っていった。


――――――


数週間後。学園祭の熱が完全に冷め、校内に「東雲宏美の転校」という噂が広まり始めた頃。慎は、宏美の転校に心を乱す芳子が自分に向ける「疑念」と「本能的な恐怖」の入り混じった視線を背中に感じていた。


放課後、人通りのない屋上で、慎のスマートフォンが震えた。新天地へと旅立った宏美からの、最後となるかもしれない連絡だった。


「もしもし、東雲先輩。……ああ、無事に終わったようですね」


『ええ、おかげさまでね』


受話器の向こうから聞こえる宏美の声は、かつての暗い色を払拭し、晴れやかなものに変わっていた。彼女は、正和が土下座して醜態を晒しながら許しを請うたこと、それを一蹴して離婚が成立したことを報告してきた。


「織田川先輩がようやく疑い出していますよ。あなたが裏切り者だったんじゃないかってね」


慎がそう伝えると、宏美は「ふふっ」と、してやったりと言わんばかりの短い笑い声を漏らした。


『今更気付いても遅いわ。あんな女、二度と関わりたくないし、せいぜい悔しがればいいのよ』


その語気には、長年溜め込んできた芳子への強い嫌悪が滲んでいた。


「あー……それと、佳山先生には余計な心配をかけたくないんで、俺が動いたことについては黙っておいてください」


一応の釘を刺す慎に対し、宏美は少し間を置いてから、神妙な声で言った。


『……本当に言わなくていいの? 先生、あなたのことをすごく心配していたし、何より私も、後で先生には謝罪の連絡をするつもりだけど……』


「構いません。俺のことは、伏せておいてください」


『……分かったわ。一応、約束は守るように努めるわね』


宏美はそう答えたが、その声にはどこか煮え切らないニュアンスが含まれていた。慎はそれを「恩義を感じている故の迷い」と捉えていた。


(こりゃ後で話すかも?)


『久遠くん』


「はい、何です?」


『……私、正直あなたの真意を疑っていたわ。でも、あなたは本当に……私と母を、あの地獄から救ってくれた。本当に、ありがとう』


宏美の声が涙で潤む。慎は「礼を言われるほどのことじゃない」と短く返した。会話しつつ、(とりあえず、これで『悲劇の運命』を一つ完全に潰せたな)と思っていると…


『……佳山先生と、上手く行くように祈ってるわ』


「は?」


唐突な宏美の言葉に、慎は珍しく素っ頓狂な声を上げた。


『あなた、先生を守るためにあそこまで動いたんでしょう? 私には分かるわ。……先生も、あなたを特別に思っているはずよ。それじゃ、お元気で』


一方的に電話は切れた。宏美は、慎が麗奈に対して「一人の男性」としての感情を抱き、そのために全力を尽くしたのだと解釈しているようだった。


「別に、そういうつもりは無いんだが……。ま、いいか」


慎は苦笑し、空を見上げた。恋愛感情か、と言われれば即答はできない。だが、麗奈に自分がどこか絆されていることは自覚していた。これまでの事を振り返ると、確かに情が入りすぎている。


(ふふ、まずは中間試験を無事に終わらせるか)


慎はスマートフォンをポケットに仕舞い、再び「優秀な一般生徒」の顔を作って、教室へと戻るべく歩き出した。


その日の夜。結局は宏美の独断で、慎の暗躍は麗奈へと語り継がれていったのであった。

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