慎の視点⑦
二学期が始まった教室の空気は、どこか浮足立っていた。学園祭という非日常への期待が、生徒たちの熱量を煽っている。
慎は廊下の隅、人目を避けた場所で、健次郎に短く連絡を入れた。
「……ああ、芳子が動いた。小説より時期が早まっている」
『そうか……俺や、代わりになるような「悪役の手下」が側にいないせいで、抑制が効かなくなってるのかもな。……慎、お前がいれば大丈夫だと思うけど、気を付けろよ? 下手すれば早々に陵辱劇開始なんて事になるかもしれないからな』
「分かっている。すでに手は打った」
電話を切った慎の元に、協力者である東雲宏美からメッセージが届く。芳子が麗奈に対し「校内での無視」を命じたという。慎は画面を眺め、ふっと冷ややかな失笑を漏らした。
(無視しろ、か。相手が反論できない立場であることを利用した、実に底の浅い嫌がらせだ)
――――――
翌日、慎は教室の片隅で、学園祭の出し物である珈琲の試作をクラスの皆に振る舞いながら、麗奈の様子を観察していた。不慣れな生徒たちの珈琲に困り果てていた麗奈に、慎は一杯のカップを差し出す。彼女がそれを一口飲み、「凄く美味しい……」と驚きに目を見開いた時、慎は内心で微かな満足感を覚えた。前世からの技術が、この穏やかな場所で誰かを癒やすために使われるのは、悪くない気分だった。
だが、彼女の瞳の奥には芳子の脅迫に怯える影が混じっている。慎は彼女の緊張を解すため、そして自分が味方にいることを示すために、隣に立ち、彼女だけに聞こえる小さな声で囁いた。
「先生……織田川先輩の幼稚な強請りに、いつまでも従う必要はありません。自分一人で抱え込まないでください」
敢えて踏み込んだその言葉。麗奈が「あ、貴方……何で……!?」と戦慄し、血の気が引いていくのが分かった。
(……おっと。少々軽率だったか。中学の件を知っている彼女からすれば、俺の動きもある種の不安要素か)
確かに、自分は不倫男の家庭を容赦なく解体しようと暗躍している身だ。中学時代の苛烈な過去を知ってしまった彼女が、教え子である自分に得体の知れない不安を抱くのは当然の反応といえる。慎は内心で微かな苦笑を浮かべ、彼女からの追及を避けて生徒たちの輪に戻った。
――――――
学園祭当日。宏美からの報告は、慎の想像以上に芳子の「壊れ具合」を露呈させていた。
『ミスコンで、ありえない水着を先生に着せようとしてる。捏造写真を使って無理やりステージに立たせるつもりよ。……過激なスリングショットに、マイクロビキニとか用意してて正気じゃないわ』
(学校行事でそんな真似をさせれば、どれだけ金と権力があろうと、周囲が黙っていない。……芳子は、自分の首を絞めることすら理解できないほど、先生への嫌悪に狂っているのか)
教育現場において、教師に卑猥な格好を強要するなど、もはや「生徒のいたずら」で済む話ではない。慎は、その「一線」を記録するプランを最終調整した。
(尤も、未遂で終われば、まだ芳子を学校から完全に排除することはできないかもしれないが……今は先生の安全が最優先だ)
迎えた学園祭本番。満員御礼のA組カフェ。慎は「久遠店長」として淡々と珈琲を淹れ続けていた。だが、麗奈のスマートフォンが震え、彼女が青ざめた顔で教室を出て行くのを、彼は見逃さなかった。
「悪い、そろそろ休憩する。少しの間だけど、後は頼めるか田中?」
「え、あ、ああ! 任せろ、久遠店長!」
慎はエプロンを脱ぎ捨て、一切の気配を消して彼女の後を追った。
――――――
旧校舎の倉庫。埃っぽい空気の中に、麗奈の凛とした叫びが響き渡る。
「……いい加減にして! 馬鹿も休み休み言いなさい!!」
物陰でスマートフォンの録画ボタンを押しながら、慎は僅かに目を見開いた。驚いた。芳子の権力に屈するどころか、彼女の人間性そのものを真っ向から否定し、叱り飛ばす麗奈の姿。
「家の威光を自分の実力だと勘違いして、やりたい放題する……本当に、親の顔が見てみたいわ!!」
(……なるほど。先生、あんなに怒れる人だったのか。俺が背後にいると教えたことが、少しは彼女の支えになったのかもしれないな)
慎は彼女の矜持に、深い感銘を覚えた。だが、その直後。激情に駆られた芳子が「あんたみたいな、ただの教師の分際で!!」と叫び、麗奈の胸元を掴んで引き裂いた。
不快な布の裂ける音。麗奈の悲鳴。
(……チッ。服まで破かれるのは、俺の計算ミスだ。詰めが甘かった)
瞳から温度が消えた慎は、一歩前へ踏み出した。
「――はい、そこまで!!」
その後の展開は、慎にとって事務的な処理に近かった。録画した動画を突きつけ、強要罪と暴行罪の成立要件を淡々と突きつける。
「その画像ですか。調べれば、隣にいた施設長の姿を消した加工跡なんて、すぐに見破れますよ」
慎の冷徹な指摘に、芳子が蛇に睨まれた蛙のように硬直していく。
「……もういい、こんな写真、消せばいいんでしょ……!」
崩れ落ちるように画像を削除する芳子を、慎は冷ややかに見下した。とりあえず、麗奈への直接的な脅迫はこれで断ち切った。これ以上の暴発を狙うなら、次こそは芳子を学校から追い出すつもりだ。
慎は自分の上着を脱ぎ、服を破られて震えている麗奈の肩へと優しく被せた。
「すみません、先生……大丈夫ですか? ……服を破られる前に出るべきでした。そこだけは俺の失敗です」
申し訳なさに目を伏せる慎に、麗奈は震えながらも「ありがとう」と微笑んだ。その、守られたことへの安堵と、彼への全幅の信頼が混じった表情。慎は改めて、この人は守らなければならないという決意を固める。
その後、慎は芳子に代わって服を買いに走った宏美の背中を見送った。そして、クラスに戻った麗奈が、自らの意志で「メイド服」を纏い、拍手喝采を浴びる姿を壁際で眺める。
「似合う、かしら?」
照れくさそうに微笑む彼女の姿に、教室内は狂騒に包まれた。慎はそんな喧騒を余所に、静かに独り言ちた。
(下品な水着などより、よほど素晴らしい。……彼女の心が守られたのなら、今回はそれでいいか)
――――――
祭りの喧騒が終わり、夕闇が校舎を包む頃、慎の思考は次の一手へと向かっていた。
(さてと……今回の事で芳子は自分の周りに裏切り者がいる可能性を疑い出すかもしれない。あんなに俺が都合良く邪魔に出てくれば、馬鹿なあいつだって気付くだろう。……東雲先輩の役目は、ここが潮時か)
これ以上、宏美を芳子の側に置いておけば、彼女自身の身が危うい。慎はポケットの中で、山川から受け取った東雲正和の不貞の証拠が入ったデータチップに触れた。
「……後で連絡するか」




