芳子の悪意
季節は初夏へと移り変わっていた。
佳山麗奈はデスクに広げられた中間試験の結果と、日々の所見メモを見比べていた。特に久遠慎の成績データには、思わず感嘆の息が漏れる。
「……彼、本当に凄いわね」
慎の成績は圧倒的だった。主要五教科はもちろん、実技科目も高水準で安定している。しかし、満点を狙ってひけらかすような傲慢さは微塵もなかった。周囲から「何でそんなにできるの?」と訊かれても、「昔から、勉強をするのが好きなだけです」と控えめに答えるだけだが、その自己管理能力は目を見張るものがあった。
授業中、麗奈が難解な問いを投げかけても、彼は決して自ら挙手して目立とうとはしない。指名されて初めて口を開き、教科書の行間を深く読み解くような、最小限かつ最適解な言葉を返す。その控えめな態度のせいで、一見すると「少し出来の良い地味な生徒」という印象を抱きがちだが、教員たちの評価は一様に高かった。
「いや、あいつは身体能力も底が見えないよ。体育の記録を見ても、なぜ部活をやらないのかもったいない話だ」
しかし、同僚が漏らす賞賛の裏側には、偏見に満ちた淀んだ囁きも付き纏った。
「施設育ちだっけ。親がいない分、必死なんだろうな」
「いくら出来が良くても、あの×××中学の出身じゃな。いつ問題を起こすか分かったもんじゃない」
麗奈はそれらの言葉を耳にするたび、胸が疼くのを感じていた。慎が持つ能力の高さが、むしろ彼の孤立を際立たせているような気がしてならなかった。
――――――
(確かに他の同年代の生徒たちよりずっとしっかりしているとは思うけれど、内面までは解らないし……。一度、きちんと面談をしたほうがいいわよね)
そう思いながら一年A組の教室棟へ差し掛かった時、廊下の窓際で展開されている不穏な光景が目に飛び込んできた。
慎の前に立ちはだかるようにして、二年生の織田川芳子と、その取り巻きたちが彼を包囲していたのだ。麗奈は少し離れた場所から、息を潜めて様子を窺った。
「ねえ、久遠くん。あなた、一年生の中で一番の成績なんですってね?」
芳子の声は、獲物を品定めするような、ねっとりとした甘さを帯びていた。彼女は慎の横顔を覗き込み、自身の美貌を武器にするように距離を詰める。
「何でも、あの騒々しい×××中学のトップだったとか? ふふっ、そんなに優秀なのに、どうしていつも一人でいるの? 寂しいじゃない。……それとも、施設の子には友達の作り方なんて誰も教えてくれないのかしら」
取り巻きの女子生徒が、下卑た笑い声を上げた。
「ねー、かわいそう。親もいないんじゃ、家に帰っても一人ぼっちだもんね」
芳子は慎の肩に手を伸ばそうとしながら、誘いかけるような声で続けた。
「ねえ、久遠くん。私と一緒に来ない? あなたみたいな『切れる駒』が一人で腐っているのはもったいないわ。私の言うことを聞くなら、この学校であなたが不自由しないように取り計らってあげてもいいのよ?」
芳子の狙いは明確だった。慎の能力と過去の境遇を天秤にかけ、自分の権威を補強するための便利な「手駒」として彼を囲い込もうとしているのだ。
しかし、慎は肩に触れようとした芳子の手を、不自然にならない程度の僅かな動きでかわした。彼は窓の外へ向けていた視線を、ゆっくりと芳子へと戻す。その瞳には、侮蔑も怒りも、そして恐怖さえもなかった。
「……なぜ、俺を欲しがるのですか?」
「なっ……」
短く、淡々とした問いかけ。それは、芳子の傲慢な誘いを、道端の小石が跳ねた音と同程度にしか扱っていないという意思表示だった。芳子の表情が引き攣る。慎の態度に、プライドを激しく逆撫でされたらしい。
「……生意気ね。自分の立場、分かって言ってるの?」
芳子の声音から余裕が消え、鋭い敵意が漏れ出した。麗奈は、これ以上事態を静観することはできないと判断し、毅然とした足取りで歩み寄った。
「織田川さん、あなたたち、私のクラスの生徒に何をしているの?」
その声は、教師としての凛とした響きを伴っていた。しかし、芳子は麗奈を見るなり、不快感を隠そうともせずに鼻を鳴らした。
「ああ、佳山先生。別に何もしてませんよ。優秀な後輩にちょっとした『ご挨拶』をしていただけ。先生には関係ないでしょう」
「挨拶? その態度は到底そうは見えないわ。すぐにやめなさい」
すると、それまで静かだった慎が口を開いた。
「……あの。俺、何か悪いことでもしましたかね? 織田川先輩が何を仰りたいのか、さっきからよく解らないのですが」
慎の言葉は、芳子が振りかざす「特権意識」という曖昧な論拠を、根本から問い直すものだった。格下と見なしていた慎から「論理」を突きつけられ、芳子は顔を真っ赤にして激昂した。
「あんた、ふざけてるの!? 私がわざわざ声をかけてあげてるのよ!」
「もし俺の言動に非があるのなら、具体的にご指摘いただけませんか? それと、先生にまでその態度は……あまり賢明ではないと思いますよ」
慎は、芳子の教師に対する無礼な振る舞いが、校内における彼女の評価や品位を損なうリスクがあることを示唆した。しかし、頭に血の昇った芳子はついに、越えてはならない一線を越えた。
「あんた、親もいない施設育ちのくせに! うちの家がこの学校にどれだけ貢献してるか知ってるの!? あんたみたいなヤツ一人くらい、潰そうと思えばいつでも……っ!」
「!? 織田川さん、今のは聞き捨てならないわ! すぐに謝りなさい!!」
麗奈は、生徒の家庭環境を侮辱する卑劣な言動に対し、怒りで肩を震わせた。だが、その麗奈の制止を、背後から発せられた「空気の重圧」が制した。
慎の雰囲気が、一変していた。それまでの丁寧な学生としての仮面が剥がれ落ち、廊下の気温が数度下がったかのような錯覚を覚えるほどの、圧倒的な冷気がその場を支配した。麗奈でさえ、思わず言葉を失うほどの威圧感だった。
「……それなら、尚のこと慎むべきでは?」
慎の視線は、一切の感情を排した深い淵のように、芳子を射抜いた。
「立場のある人間が、俺のような施設育ちの下級生に執拗に絡んだ挙げ句、教師と問題を起こした……。もしその事実が公になれば、今の時代、あなたの『家』の評判にどんな影響が出るか、想像もつきませんか?」
慎が指摘したのは、現代社会におけるレピュテーション・リスク――すなわち、一度広まった悪評が組織や家名に与える、取り返しのつかないダメージだった。
「それに」
慎が静かに一歩、芳子へ歩み寄った。その動きに、芳子は蛇に睨まれた蛙のように硬直する。
「もし良からぬ噂が広まり、その責任が俺にあると責められても、俺には『傷ついた名誉を元に戻す力』なんてものはありません。何しろ、後ろ盾のない身の上ですから。……一度壊れたものは、二度と元には戻りませんよ?」
それは、自らの立場の弱さを逆手に取った、冷酷なまでの現実的な警告だった。自分が壊れる時は、相手の最も大切なものも道連れにする。慎の瞳には、そんな暗い決意に似た凄みが宿っているように思えた。
「……ここは、矛を収めてくれませんか。でないと、お互いに本当に『面倒』な事に……」
「っ!? ……もういいわよ! 行きましょう!」
芳子は、慎の放つ正体不明の迫力に、完全に気圧された。彼女は顔を真っ赤にして叫ぶと、取り巻きを急かすように引き連れ、逃げるように廊下の向こうへと去っていった。




