慎の視点③
慎は高校に入学して数ヶ月。彼は、中学時代に染み付いた「腫れ物」のような評価を塗り替えるべく、あえて能力を隠しすぎることをやめていた。
もちろん、前世の技術をそのまま披露するわけではない。あくまで「極めて優秀な一般生徒」の範疇に留めている。だが、それでも周囲の視線は複雑だ。×××中学での騒動は尾を引いており、慎が直接組織を壊滅させたと知る者はいなくとも、「あの荒れた学校でトップだった異質な学生」というレッテルは、彼を常に教室の輪から遠ざけていた。
(……まあ、目立ちすぎるのも、目立たなすぎるのも問題ありだな。適度な距離感が一番動きやすい)
そんな慎の思索を遮るように、廊下の空気が一変した。
「ねえ、久遠くん。あなた、一年生の中で一番の成績なんですってね?」
声の主は二年生の織田川芳子だ。背後には東雲宏美を含む取り巻きを侍らせている。慎は内心で舌打ちをした。
(健次郎の予想通りか……話に聞いていたよりも時期が早まったらしいな。運命が歪んだ影響か)
「何でも、あの騒々しい×××中学のトップだったとか? ふふっ、そんなに優秀なのに、どうしていつも一人でいるの? 寂しいじゃない。……それとも、施設の子には友達の作り方なんて誰も教えてくれないのかしら」
芳子の言葉は、慎にとってはあまりに稚拙で、それゆえに酷く退屈なものだった。
(それにしても、想像以上に不愉快な奴だな。駒として懐に入り込むのもアリかと思ったが、これは芝居でも関係は早々に破綻しそうだ。付き合うだけ時間の無駄か……)
「ねえ、久遠くん。私と一緒に来ない? あなたみたいな『切れる駒』が一人で腐っているのはもったいないわ。私の言うことを聞くなら、この学校であなたが不自由しないように取り計らってあげてもいいのよ?」
(はぁ……。付き合い切れんぜ)
慎は窓の外へ向けていた視線を、ゆっくりと芳子へと戻した。
「……なぜ、俺を欲しがるのですか?」
短く、淡々とした問いかけ。芳子の顔が屈辱で歪む。
「……生意気ね。自分の立場、分かって言ってるの?」
芳子の敵意が露わになったその時、廊下の向こうから聞き慣れた足音が近づいてきた。佳山麗奈だ。慎は視界の端で彼女を捉え、思考を巡らせる。
(ありゃ?いかん、ややこしくなりそうだ。ここで先生に介入されると、彼女が早々に芳子の標的になりかねないぞ)
「織田川さん、あなたたち、私のクラスの生徒に何をしているの?」
案の定、麗奈が凛とした声を上げた。だが、芳子は麗奈を嘲笑うような態度で応じる。
「ああ、佳山先生。別に何もしてませんよ。優秀な後輩にちょっとした『ご挨拶』をしていただけ。先生には関係ないでしょう」
不毛な言い合いが続き、芳子が慎の家庭環境を「親もいない施設育ち」と嘲り始めた時、麗奈が激昂した。
「!? 織田川さん、今のは聞き捨てならないわ! すぐに謝りなさい!!」
(先生…。怒ってくれるのは嬉しい……が!)
慎は、ここで場を収める必要があると判断した。麗奈を守り、かつ芳子の戦意を喪失させる。そのために、彼は最小限の「圧」を解放した。一瞬にして廊下の温度が下がったかのような静寂。慎の瞳から感情が消え、深い淵のような殺気が芳子一人を射抜いた。
「……それなら、尚のこと慎むべきでは?」
慎の静かな一歩に、芳子は蛇に睨まれた蛙のように硬直した。慎は、彼女の背後にある「家名」や「評判」という、彼女が最も頼りにし、かつ最も失うことを恐れている盾を逆手に取って追い詰めた。
「……ここは、矛を収めてくれませんか。でないと、お互いに本当に『面倒』な事に……」
芳子たちは捨て台詞と共に逃げるように去っていった。その背中を見送り、慎はすぐに「穏やかな生徒」の仮面を被り直した。
(ふん、世間知らずの我儘娘が……。自分の馬鹿さ加減を少しは自覚しろ)
「すみません、先生。嫌なことに巻き込んでしまいました」
慎が振り返ると、麗奈はまだ動揺を隠せない様子で立ち尽くしていた。
「久遠くん……あなたは平気なの? その、織田川さんの言ったこと」
彼女の気遣いは本物だった。慎は、その純粋さに内心で少しだけ苦い思いを抱く。
(本当に人の良い先生だ。小説の中の健次郎が、この人を信じることができなかったのは、とても不幸だったのだろうな)「俺は大丈夫ですよ。何も知らない人間を相手にするのは、慣れてますから……」
思わず口を滑らせた慎は、麗奈の反応を見てすぐに後悔した。
(あ、いけね……。俺としたことが喋りすぎたな、思わせぶりな事を。怪しまれている……)
慎は咄嗟に口元を抑え、少しだけ困ったような、年相応の少年らしい「失敗した」という顔を作って見せた。
「久遠くん、もし何か悩みがあるなら……私に話してくれないかしら」
「あー……すみません、先生。俺も、人には言いたくないことはあるんで」(本当に、すみません…)
深入りを拒絶し、慎は早々にその場を立ち去った。教職員の目が届かない校門付近まで来て、彼はようやく溜めていた息を吐き出した。
人気のない場所を選び、スマートフォンを取り出して健次郎を呼び出す。
「もしもし、俺だ……。ああ、思った通り織田川芳子が接触してきた。それと……佳山れ……いや、佳山先生が、俺に色々と気を遣うようになってな」
『あちゃあ、やっぱり声をかけてきたか。あの女、本当に嗅覚だけは鋭いな。……で? 佳山先生に「気を遣われるようになった」って? 役得じゃないのか、それ』
通話口の健次郎は、他人事のようにからかうような声を出す。
「役得は否定しないが、問題が発生しないかと思ってな。現に芳子と険悪な事になった」
『うーん、俺には芳子を直接見張った方が良いように思えるけど。小説でしか知らないが、プライドを折られたままで終わるとは思えないし…何せ『教師を罠に嵌めて貶める悪役』だからな』
慎は、芳子の隣にいた、あの怯えたような瞳をした少女を思い出す。
「健次郎、芳子の隣にいた東雲宏美のことだが……。彼女はまだ、完全に染まっているわけじゃない」
『ん?もしかして…』
「ああ。どうせなら彼女を今のうちに、こちら側の……」
――――――
一学期の終業式を目前に控えた、湿り気の多い放課後。
慎は校舎の陰、人通りの途絶えた非常階段の踊り場で、一人の少女を待っていた。東雲宏美。織田川芳子の取り巻きの中で、その芳子に最も強い「忌避感」を宿していた少女だ。
階段を降りてきた宏美は、そこに立つ慎の姿を認めると、凍り付いた。その顔には、先日での一件以来、慎に対して抱いている拭い切れない恐怖が張り付いている。
「な…何の用? また織田川さんに何か言うつもりなら、私は知らないわよ」
声を震わせ、虚勢を張る宏美。慎はその様子を、感情を排した瞳で見つめた。彼は無駄な前置きを嫌う。
「東雲先輩。あなたに、取引を提案しに来ました」
「取引……?」
慎は一歩、宏美へと歩み寄った。逃げ場を塞ぐような圧迫感ではないが、彼女の逃避を許さない冷徹な響きがそこにはあった。
「あなたの父親で…大企業のエリート役員、東雲正和。外向きには完璧な家庭を築いているが、内情は彼の独裁だ。あなたは望まないこの学校に押し込められ、家では父の機嫌を伺い、学校では織田川先輩の横暴に耐えている」
「あ、あなた……どうしてそんなこと……!」
宏美の声が裏返った。誰にも言えず、母と共に耐え忍んできた家庭の闇。なぜ、会って数ヶ月の、それも一学年下の少年がそこまで把握しているのか。その底知れなさに宏美は戦慄した。だが、慎は表情一つ変えず、淡々と続けた。
「東雲正和は、部下の女性と不貞を重ねている。あなたはそれを確信しているが、証拠を掴む術を持たず、お母様と共に地獄を耐えている。……違いますか?」
宏美は言葉を失い、階段の手すりを白くなるまで握りしめた。慎の言葉は、彼女が心の檻に閉じ込めてきた絶望そのものだった。
「俺なら、あなたの父親の不貞の証拠を集めることは可能です」
「な、何ですって!?」
「それも、弁護士が首を縦に振る、逃げ場のない決定的なやつを」
「本気なの……?」
「嫌なら断ってくれて構わない。俺はどのみち、織田川先輩の邪魔をするつもりです。彼女はあのまま行くと……いずれ佳山先生に対して超えてはならない一線を超えてしまうと思いますから」
慎の瞳に、僅かな鋭さが宿った。それは佳山麗奈を守るという、揺るぎない「掃除屋」としての意志だった。
「……!」
「ただ、あなたが協力してくれるなら、俺はあなたたち親子の助けにもなれると思っています。証拠と引き換えに、織田川先輩が何を企んでいるのか、逐一俺に報せてほしい。……スパイ、あるいは協力者として」
「あなた…佳山先生の為に?」
「そう思ってくれて構いません」
自分と母を縛り付ける父を排除し、この歪んだ学校生活から抜け出す。慎の提示した条件は、宏美にとって暗闇の中に唯一差し伸べられた救いの手だった。
目の前の、尋常ではない雰囲気を持つ後輩。彼なら、自分でも掴めなかった証拠を、そして奪われた未来を取り戻してくれるのではないか。芳子に対する義理など、最初から一欠片も持ち合わせていない。
「……分かったわ。私が知っていること、あいつがこれからしようとしていること、全部教える。だから……」
「約束します」
慎はそう答えた。




