慎の視点①
2017年4月。朝の通勤・通学ラッシュでごった返す列車内は、人々の吐息と熱気が混じり合い、肌にまとわりつくような熱を帯びていた。
久遠慎は、ドアのすぐ横に陣取り、車内の喧騒から意識を切り離していた。
(……やれやれ。満員電車というやつは、本当にストレスが溜まるな)
そんなことを思ったその時、ポイントを通過した車体が大きく左へ傾いた。慎の斜め後ろにいた女性が、抗えない群衆の圧力に押され、彼の方へと倒れ込んでくる。
「うっ……」
(おっと……)
柔らかな衝撃が慎の身体に伝わった。女性の体が完全に彼の胸元へ飛び込んだ格好だ。
(ん? 随分と柔らかい……いやいや、いかんいかん)
慎は内心で苦笑し、不意の感触を理性で即座に打ち消した。相手の女性は「ご……ごめんなさい!」と、顔を真っ赤にして謝罪し、慎を見上げた。
(おお?)
艶やかな黒髪、理知的でありながらどこか隙を感じさせる端正な容姿。そして、密着しているがゆえに伝わってくる規格外の起伏。慎は相手の端正な美貌に一瞬目を奪われたが、すぐに鉄の自制心を取り戻した。
(……んん? この外見、もしかして……)
女性は焦って身を引こうとしていたが、背後の人波が壁となり、動くことすらままならない。もがくほどに豊かな肢体が慎に押し付けられ、彼女の羞恥は限界に達しているようだった。
「慌てないで。無理に動くと、逆に危ないですから」
慎は低く落ち着いた声で、彼女を諭すように言った。騒がしい車内でも不思議と通るその声に、女性は弾かれたように動きを止め、俯いた。
(ふん……まぁ、役得かもしれないが……)
慎は彼女がこれ以上押し潰されないよう、両腕で周囲の圧力を受け止め、さながら盾のように彼女を庇い続けた。
(好色な男なら誘惑に負けて身体にでも手を伸ばすんだろうが……あいにく、そんな状況じゃない。結構きついな、これは)
やがて無事に駅に到着し、ドアが開く。女性はホームに降り立つなり、何度も頭を下げた。
「本当に、ごめんなさい。助かりました」
「いえ、大丈夫です」
慌てて去っていく彼女の背中を、慎は駅のホームからじっと見送った。その視線の先には、同じ方向を目指す生徒たちの群れと、校舎のシルエット。
「……まさかな」
独り言が漏れる。
(あれが佳山麗奈か?)
確信に近い予感。健次郎から聞いた「設定」そのままの女性が、初日の朝から目の前に現れた。
――――――
入学式は滞りなく進行し、慎は自分のクラスである一年A組へと向かった。 教室に入り、指定された席に座る。ガラガラとドアが開き、教壇に現れたのは今朝の女性だった。周囲の男子生徒たちの囁き声が、不意に大きくなった。
「……おい、見ろよ。めちゃくちゃ美人だぞ」
「俺の推定だけど、身長165、B94のG、W60、H92……だな。間違いない」
聞き覚えのある数字。慎は窓の外を眺めながら、内心で苦笑した。
(……確かにそれで正解だよ。小説というか漫画だな、ありゃ)
「佳山麗奈です。これから三年間、担任を務めます」
凛とした挨拶の最中、彼女の視線が慎とぶつかった。麗奈の瞳が激しく揺れ、動揺が露骨に顔に出る。
(やっぱり、彼女が麗奈だったか……。それにしても、彼女のクラスになるとは、何の悪戯だ)
慎は平静を装い、驚きを見せる麗奈に向かって、小さく、微かに微笑むようにして会釈をした。 その後のホームルーム中も、彼女は時折言葉を噛み、明らかに慎の存在を意識して取り乱していた。しかし、その必死な姿からは、教育者としての義務感と、根底にある人の良さが伝わってくる。
(気にしすぎだよ、先生)
放課後、慎は麗奈に呼び止められた。誰もいなくなった教室で、彼女は「今朝の電車では失礼しました」と、殊勝にも生徒である慎に深々と頭を下げた。
「先生、あまり気にしないでください。あんな状況では不可抗力だし、誰が悪いわけでもないですよ。それに、先生が怪我をされなくて良かったです」
慎の落ち着いた返答に、麗奈はさらに頬を染めた。
「それよりも先生…これから三年間よろしくお願いします」
「ええ……。担任として、精一杯サポートさせてもらうわ」
慎は一礼して教室を出た。廊下に出た瞬間、窓から差し込む夕日を浴びながら、彼は独白した。
(あの先生が奈落へ、か……。本当に悪趣味だ)
――――――
慎は一度校舎を出ようとしたが、ふと思いつき、上級生の教室がある校舎へと足を向けた。 そこで、聞き捨てならない刺々しい声が響いてくる。
「……相変わらず、話が通じない人」
廊下の曲がり角から姿を現したのは、取り巻きを引き連れた一人の少女。華美な着こなしと、周囲を威圧するような尊大な歩き方。
(あれが、織田川芳子か……? なるほど、こちらも情報通りだ)
芳子は先ほど、麗奈に対して露骨な嫌悪を隠そうともせず、不遜な態度で立ち去ったところだった。その後ろを、怯えたように追いかける女子生徒がいる。
「何してるのよ、宏美。あんたもさっさと来なさい」
その声に反応するように、慎は目を細めた。
(宏美……そうか、彼女が……)
東雲宏美。健次郎から聞いた、原作の「被害者の一人」だ。 芳子の背中は、教師の権威を嘲笑う傲慢さに満ちていた。彼女が麗奈に向ける敵意は、単なる反抗を超えた、破滅的な執着を感じさせる。
夕闇が校舎を染めていく中、芳子たちは不機嫌そうに大股で校門へと向かっていく。その後姿を、慎は校舎の影から冷静に見据えていた。
(初日から会いたい奴には全員会えたな……)
必要最低限の目的を果たした慎は鞄を肩にかけ直し、ゆっくりと歩き出した。
(さてと……これからどうなるかな?)




