魔窟への入学
空がやや暗くなった頃、慎は健次郎との話し合いを終えて「□□□園」へと戻った。
鉄門をくぐり、玄関の引き戸を開けた瞬間、建物の奥から溢れ出してきたのは、温かな出汁の香りと賑やかな子供たちの笑い声だった。
「ただいま」
慎が靴を脱いで上がると、食堂からバタバタと駆け寄ってくる小さな足音が響く。
「あ! にーちゃん、おかえりなさい!」
そう言って慎の膝にしがみついてきたのは、去年この施設にやってきた幼い少女、茜だった。まだ幼く、親の愛情に飢えていた彼女にとって、物静かでいてどこか絶対的な安心感を与えてくれる慎は、実の兄の様な存在となっていた。
茜は潤んだ瞳で慎を見上げると、短い腕を精一杯伸ばした。
「にーちゃん、だっこ。お祝い、だっこ!」
「……ああ、ただいま、茜」
慎は表情を緩め、ひょいと茜を抱き上げた。前世での重い銃器の感触とは違う、柔らかく、生命の重み。掃除屋としての荒んだ魂が、この小さな温もりに触れるたびに、薄皮を剥ぐように穏やかになっていくのを感じる。
「慎くん、おかえり。主役が最後なんて、待ちくたびれたわよ」
エプロン姿の長田三和が、大皿を抱えて食堂から顔を出した。その背後では、テーブルの上に並べられた豪華な料理が、天井の蛍光灯を反射して輝いている。
今夜は、慎を含めた施設の中学卒業生たちの合同祝賀会だった。
テーブルには、長田たちが腕によりをかけた手作りの筑前煮や唐揚げ、そして慎の好物である刺身の盛り合わせに加え、奮発して注文したであろう近所の精肉店の特製コロッケやオードブルが所狭しと並んでいる。
「これ、全部作ったのか?」
「半分は真田さんのポケットマネーよ。あなたたちが立派に卒業したんだもの、これくらいしないとバチが当たるわ」
奥から真田施設長が、どこか誇らしげな、けれど少しだけ寂しそうな顔をして現れた。
「さあ、慎。茜を下ろして席に着け。今日は無礼講だ。みんな、お前の帰りを待っていたんだぞ」
「……すみません、遅くなりました」
慎は茜を椅子に座らせ、自分も末席に腰を下ろした。年下の子どもたちが「卒業おめでとう!」と口々に叫び、オレンジジュースの入ったコップを掲げる。
喧騒の中で箸を動かしながら、慎はこれまでの九年間を反芻していた。
前世の記憶を覚醒させ、虐待する実母を告発した六歳のあの日。自分を「施設の子」という色眼鏡で見た者たち。そして、親友を守るために学校という組織そのものを敵に回した、あの中学三年の冬。
(……かなり色々あったが、本当の『戦い』はこれからなんだろうな)
慎が春から通うことになったのは、都立の進学校である〇〇〇高校だ。
施設からは自転車で四十五分ほどの距離にある。普段は最寄り駅まで歩き、そこから電車で通う予定だが、体力作りを兼ねて自転車を飛ばすのも悪くないと考えていた。
志望したのは慎一人だけだった。偏差値はそれなりに高く、他の施設の子らはもっと手近な実業高校や私立の推薦を選んでいた。慎がここを選んだ理由は、真田たちには「将来の選択肢を広げるため、それなりの進学校が良いと思ったから」という、至極真っ当で安易な動機として伝えてある。
だが、真の理由は健次郎から聞いた「原作の舞台」であること。そして、佳山麗奈という女性が、そこにいるからだ。
「慎、どうした? 箸が止まっているぞ。もっと食べなさい」
真田が優しく声をかけてくる。彼は慎の皿に、大きなエビフライを乗せた。
「高校へ行ったら、今度こそ平穏に過ごせるといいな。お前はどうも無茶をする生き方をしていかん」
真田の言葉には、心からの慈愛が籠もっていた。彼は、慎が背負っている「異質さ」の正体は知らずとも、この少年がどれほど過酷な精神的重圧に耐えてきたかを察していた。
慎はエビフライを口に運び、飲み込んでから、視線を伏せた。
(……すみません、真田さん。俺も、そうしたいのは山々なんだけどな)
内心で深く詫びる。
できる限り波風を立たず、騒ぎにならないように立ち回るつもりだ。しかし、健次郎が語った呪縛が存在する以上、平穏無事に卒業できる可能性は低いことを慎は自覚していた。
(佳山麗奈…か)
――――――
翌月の2017年4月の春。
「□□□園」の玄関先に、新しい制服に身を包んだ慎の姿があった。仕立てたばかりのブレザーは、彼の引き締まった体躯によく馴染んでいる。
足元では、パジャマ姿の茜が眠たそうに目を擦りながら、慎のズボンの裾を掴んでいた。
「にーちゃん……いっちゃうの?」
「ああ。学校に行ってくる。帰りに、茜の好きなプリンを買ってきてやるから、いい子で待ってろ」
「うん、まってる!」
茜がパッと顔を輝かせ、手を振る。その横では、真田と長田達が並んで立っていた。
「忘れ物はないな? お弁当は持ったか?」
「はい、入ってます」
「慎くん……あまり、無理はしないでね。何かあったら、すぐに言うのよ」
長田の心配性に、慎は少しだけ苦笑した。
「分かってます。……じゃ、行ってきます」
その一言を残し、慎は力強い足取りで門へと向かった。
背後で茜の「いってらっしゃーい!」という高い声が響く。
門を出て、駅へと向かう道すがら、慎は一度だけ足を止めて春の空を仰いだ。
今日から始まるのは、単なる高校生活ではない。
誰かが書いた救いのない「悲劇」を、「ハッピーエンド」或いは「平穏な日常」へと書き換えるための、長い潜入任務のようなものだ。
(……さて。上手くヒロインと会えるかな?)
かくして慎は〇〇〇高校へと向かう電車に乗り込んだ。




