スリに狙われて
入学式から最初の一週間、佳山麗奈は教壇に立つたびに、クラスの最後列で静かにペンを走らせる久遠慎の姿を意識せずにはいられなかった。
彼は浮いているわけではない。かといって、無理に周囲へ馴染もうとしている風でもなかった。休み時間になれば男子生徒たちが賑やかに騒ぎ、女子たちはグループを作って談笑しているが、慎はその喧騒の中にありながら、まるでそこだけ隔離された空間にいるかのように、淡々と自習に励んでいる。
(……何か声をかけるべきかしら。でも、独りでいることを苦にしているようには見えないし……)
教師として、孤立している生徒を放っておくわけにはいかない。しかし、未熟な自分が中途半端に声をかけて、彼の貴重な学習時間を削ってしまうのも躊躇われた。結局、目立ったトラブルもないまま日は過ぎ、麗奈は慎と深い会話を交わす機会を掴めずにいた。
――――――
やがて、慌ただしい一週間が過ぎ、待ちわびた初めての週末。麗奈は日用品や仕事用の資料を買い込み、両手に荷物を抱えて帰路についていた。夕刻の車内は、平日の通勤ラッシュに劣らぬ混雑ぶりだった。
(また、この空気……)
朝のあの出来事以来、麗奈は他人と密着することに強い忌避感を覚えるようになっていた。今日の服装は、首元までボタンを留めたブラウスに長めのスカートと、露出を極力抑えてガードを固めていたが、物理的な距離の近さまでは防げない。人々の熱気が、じっとりと肌を刺す。
その時だった。背後に立つ人物から、明らかに不自然な「圧」とは異なる気配を感じた。誰かが自分の背中に、というより、コートのポケット付近に執拗に触れている。
(……えっ?)
最初は痴漢かと思い、恐怖で全身の毛が逆立つ。だが、感触はもっと指先を動かすような、何かを探るような動きだった。――スリだ。麗奈は咄嗟に振り返ろうとしたが、詰め込まれた人波が壁となり、思うように動くことができない。声を出そうにも、恐怖で喉が引き攣り、乾いた喘ぎしか漏れなかった。
(やだ、どうしよう……)
絶望的な閉塞感の中で、不意に耳元で聞き覚えのある声が響いた。
「あれ?先生じゃありませんか。こんなところで奇遇ですね」
低く、けれど通る声。その瞬間、麗奈の背後で蠢いていた不気味な気配が、弾かれたように霧散した。スリが慌てて手を引っ込め、無理やり周囲を押し退けて後方へと逃げていく気配が伝わる。
「……あっ」
麗奈がようやく顔を巡らせると、そこには穏やかな表情を浮かべた慎が立っていた。
「……久遠くん?」
「どうしました?顔色が悪いですよ、先生。少し、こちらへ」
慎はさりげなく、麗奈と周囲の間に自分の体を割り込ませ、小さな隙間を作った。その動きに淀みはなく、まるで最初から彼女を守るためにそこにいたかのような自然さだった。
麗奈は慌てて自分のポケットを確認した。中身は無事だ。危機を脱した安堵感と、教え子に救われたという事実が、胸中で複雑に混ざり合う。しかし、生徒に余計な心配をかけ、これ以上教師としての醜態を晒すわけにはいかない。慎はスリの存在に気づいていない様子だ。
「ご、ごめんなさい……。どうも満員電車って、いつまで経っても慣れなくて。少し、眩暈がしただけなの」
麗奈は無理に笑顔を作り、平静を装って誤魔化した。あくまで「人混みに酔っただけ」という体裁を取り、精一杯の威厳を保とうとする。
「そうですか。あまり無理をされないほうがいいですよ」
慎は麗奈を気遣いながら周囲を確認すると、座席にわずかな隙間を見つけた。彼は隣り合って座っている中年の女性客二人組へ向かって、穏やかに声をかける。
「すみません。この方、少し体調が悪いみたいなんです。間を空けていただくことはできますか?」
「あら、それは大変ね。ほら、こちらへどうぞ」
女性たちは快くそれに応じ、詰めて座り直してくれた。
「あ、ありがとうございます……」
麗奈は生徒にエスコートされる羞恥に頬を染めながら、差し出された席に腰を下ろした。
(でも、嫌な気はしないわね……)
ほどなくして目的地に到着し、慎も彼女を先導するように一緒に電車を降りた。ホームの雑踏を抜け、改札近くで彼は立ち止まる。
「もう大丈夫ですか?」
「ええ、ごめんなさい。また、恥ずかしいところを見せてしまって」
「そんなことはいいですよ。どうか、お気をつけて」
短くそう告げると、慎は深追いをせず、スマートに歩き出した。麗奈はその背中を見送りながら、彼が放つ不思議な落ち着きと、その温かさに救われた心地がした。
麗奈は自分を律しなければと強く思う反面、生徒であるはずの彼に抱く奇妙な信頼感に、戸惑いを隠せずにいた。




