六歳の時(後編)
◎◎◎警察署の会議室は、冬の寒さを忘れさせるほどの熱気と重苦しい沈黙に包まれていた。
「……信じがたいが、これが現実だ。科捜研の報告によれば、提出されたビデオカメラの指紋、および映像の視点、画角。そのすべてが被疑者・久遠杏子と、被害者である久遠慎の二名のものに限定されている。第三者の介入、すなわち『入れ知恵』をした人物の存在は確認できなかった」
上席の警視が資料を机に叩きつけるように置いた。集まった刑事や関係者たちは、手元の資料を食い入るように見つめている。この件はあまりにも異質だった。
「本当に、たった六歳の子供なのか……?」
「映像の内容を見てみろ。単に暴力を撮っているんじゃない。カレンダーや時計を執励に映し込み、虐待の『継続性』を証明しようとしている。プロの鑑識や調査員の様な手口だぞ」
「母親の杏子は、取り調べ中に発狂したようになっているらしい。『あいつは慎じゃない、化け物が息子を食い殺して入れ替わったんだ』と、支離滅裂な叫びを繰り返していると」
「ちっ、それではもう取り調べどころじゃないな。我が子を化け物呼ばわりとは……こんな事になったのも誰の所為だと思っているのか。救いようが無い。六歳の子供に法で断罪される母親など、前代未聞だ」
一人の刑事が舌打ちし、忌々しそうに吐き捨てた。
「問題は、この件の『扱い』だ。六歳の子供が自ら証拠を揃えて親を告発したなどと表沙汰にしてみろ。マスコミが飛びついて、あの子を奇異の目で晒し者にするぞ。人権団体も騒ぐかもしれん」
「ああ、署長も『慎重に運べ』と。……それにしても、酷い話だ。あの年齢で、たった一人の母を切り捨てるしか無かったとは……。その絶望がどれほどのものか、想像もつかん」
会議室には、慎に対する畏怖と、それ以上の同情が渦巻いていた。彼らは知らない。その「六歳の子供」の内側で、かつて異国の戦場を潜り抜けた「掃除屋」の魂が、冷徹に事態を傍観していることを。
――――――
一方、署内の一室で保護されていた慎は、温かいココアを啜りながら内心で溜息を吐いていた。
(皆、ドン引きしてるらしいな……。無理もない。誰だって、こんなガキがいたら戸惑うだろう。何だか、詐欺師にでもなった気分だ。本当の事は言えないし、言っても信じて貰える筈もないしな……精神病院にでも送られるのが関の山だ)
警察官たちは、慎が部屋に入るたびに、壊れ物を扱うような手つきで接し、やたらと優しく声をかけてくる。彼らは慎の「知性」を、極限のストレスによる精神の変容、あるいは防衛本能による異常発達だと結論づけていた。
(まあ、そう思うよな。まさか中身が、死線を何度も越えた大人だなんて、逆立ちしても解るわけが無い。当分は『可哀想な被害児童』を演じるしかないか…)
――――――
2008年初頭、慎は法的な手続きを経て、児童養護施設「□□□園」へと入所することになった。
施設側の職員たちには、警察から「極めて特殊なケース」として詳細が伝えられていた。 「実母の虐待を自ら録画し、深夜に警察へ駆け込んだ、驚異的な知能を持つ少年」 の噂は、職員たちを戦々恐々とさせた。一体どんな子供が来るのかと。
しかし、施設に現れた慎は、彼らの予想を裏切るものだった。
「……久遠慎です。今日からお世話になります。よろしくお願いします」
深々と頭を下げ、静かに挨拶をする慎に、職員たちは拍子抜けした。
「あ、ああ……よろしく、私が施設長の真田だ」
「私は…長田三和よ。これからよろしくね、慎くん」
「えっと…僕は山岡で、こっちは…」
(良かった……いい感じの人達だな。驚かせてすんません、今日からお世話になります)
本来の久遠慎と融合した影響か、前世の尖った殺気が少しずつ角が取れ、穏やかな気質が表に出始めていた。 慎は、前世で培った「周囲に溶け込む技術」を遺憾なく発揮した。殺し屋時代は気配を消すために使っていたそれは、今や「手のかからない良い子」として振る舞うために転用されていた。
「なんて手のかからない子なんだ。掃除も手伝ってくれるし、自分のことは自分でする」
「あんな子を虐待するとは、本当に愚かな母親がいたもんだ」
職員たちの慎に対する評価は、「天才児」から「健気で賢い、境遇の不遇な少年」へと変わっていった。慎自身も、前世での殺伐とした日々とは違う、静かで当たり前の生活を営むことに、かつてない安らぎを感じていた。
(いやぁ……平和だな。少し違うけど前世で過ごしたかった穏やかな日々だ)
彼は自ら進んで年下の子の面倒を見たり、施設の雑務をこなしたりして、着実に周囲の信頼を勝ち取っていった。
春になり、慎は地元の小学校に入学した。彼は完全に「周囲に合わせる」ことに徹した。算数も国語も、あまり知らないふりをして少しずつ理解していく芝居を打つ。目立ちすぎるのはリスクだと知っていたからだ。
だが、平穏な日々に、一つの区切りが訪れる。
――――――
入所から数ヶ月が経ったある日、慎は真田施設長に呼ばれた。
「慎……君のお母さんのことだが、判決が出た。刑期に加え、君に対する親権の完全な喪失、および一切の接近禁止命令が確定したよ」
それは、社会的な死、あるいは「久遠慎の母親」としての存在の消滅を意味していた。杏子は精神の均衡を著しく崩しており、現在は厳重な警備の下、専門の医療刑務所にて隔離処遇を受けているという。支配していると思っていた、自分に縋るはずだった幼い我が子に「捨てられた」という現実。そして、その我が子が放ったあの氷のような瞳。それらが彼女の精神を内部から破壊し尽くしたのだ。
「……そうですか。もう、会うことはないんですね」
慎はただ、短く答えた。真田は慎の肩を抱いた。
「ああ、大丈夫だ。もう誰も君を傷つけない。ここでは君の権利は守られているんだ」
彼は不器用な、しかし確かな保証を口にした。
――――――
部屋に戻った慎は、洗面台の鏡の前に立った。 そこには、以前と違って健康的な肉付きになった自分の顔があった。慎はゆっくりと右手を伸ばし、鏡の中の自分の顔を撫でる。
「これで、本当に一人か?……いや、違うな」
脳裏に、あの暗闇の中で出会った光の粒――幼い「慎」の事を思い出す。
「……俺には、お前がいる。何もかも、これからだ。改めてよろしくな、『久遠慎』」
鏡の中の少年は、前世の男が持っていた冷徹な決断力と、今世の男の子が抱くべき静かな希望をその瞳に宿し、わずかに微笑んだ。
――――――
「パラレルワールド」と解釈したこの世界が、実はバッドエンドを前提とした小説が基になっている事実と、主人公にしてヒロインである女教師・佳山麗奈の存在を知り、彼女と慎が出会う事になるまで、後9年と少し……。
タイトルを解禁しました。
「バッドエンド小説の日本に転生したらしいので、ヒロインの女教師を守護する事にした」
改めて、これからよろしくお願いします。




