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六歳の時(前編)

慎の意識が完全に前世の『彼』と融合した瞬間、六歳の子供はまさしく変貌を遂げた。


体中を走る激痛、空腹による眩暈。それらを強靭な精神力でねじ伏せ、慎は暗い室内を冷静に偵察した。母親・久遠杏子(くおんきょうこ)は極めて虚栄心の強い女だった。生活費を削ってでもブランド品や最新機器を買い漁る悪癖がある。棚の奥に無造作に置かれていたのは、買ったばかりのハンディカムだった。


(記録媒体はミニDVテープか……。容量は十分。まだスマートフォンは無い……代わりにこいつで……)


それからの数日間、慎は完璧に「無力な子供」を演じながら、隙を見てカメラを回し続けた。杏子がヒステリックに怒鳴り散らす罵声、慎を暗いクローゼットに閉じ込める鈍い音、そして食事も与えず「死ねばいいのに」と吐き捨てる決定的な言動。慎は自身の打撲痕をマクロ撮影で記録し、さらにテレビの時報やカレンダーを執拗に映し込むことで、それが「継続的かつ日常的な虐待」であることを裏付ける十時間分もの映像ログを完成させた。


「この屑!!何をもたもたしてるのよ!?」


「ご、ごめんなさい……」


弱々しい声で杏子に許しを請う慎だが、内心では烈火の如き怒りに燃えていた。


(けっ、自分の子供をサンドバックにする屑が。もうすぐ終わりにしてやる)


――――――


2007年12月、深夜。杏子が酒の力で泥のように眠り込んだのを確認し、慎は音もなく動いた。杏子の財布から数枚の千円札を抜き取り、小型のハンディカムを抱えるようにしてアパートを抜け出した。


「う~…さすがにキツいな…、だがこれくらいは…」


冷たい冬の夜気が肺を刺すが、前世で極寒の戦場を経験した彼にとっては、まだ優しかった。


向かったのは、数キロ先にある◎◎◎警察署。自動ドアをくぐり、暖房の効いた受付に辿り着いた時、当直勤務中だった巡査部長の篠崎が、その小さな影に気づいた。


「おい、どうした坊や? こんな時間に迷子か?」


篠崎の問いに、慎は震えるような、けれど芯の通った声で答えた。


「お母さんが、僕を閉じ込めて殴ります……助けて下さい」


「何…?」


その言葉と、慎の顔に残る痛々しい痣に、篠崎の顔色が変わり、署内の空気が一瞬で凍り付いた。すぐに奥から婦警の安藤留美子(あんどうるみこ)ら他の警察官たちが駆け寄り、慎を応接室へと促した。


「君、お名前は? 家族は?」


「久遠慎です。この中に……」


慎は抱えていたハンディカムを差し出した。警察官たちは困惑の表情で顔を見合わせた。


「まさか、これをお前が撮ったのか?」


「おい、嘘だろ……」


半信半疑のまま、篠崎が外部出力モニターにカメラを繋ぎ、再生ボタンを押した。


そこに映し出されたのは、あまりにも残酷な日常の断片だった。 子供に罵声を浴びせ、冷たい床に突き飛ばし、暗闇の中に放置する母親。その映像を撮影しているのは、明らかにこの小さな少年自身。撮影アングルの冷静さと、証拠能力を意識した記録としての正確さは、大人のそれを遥かに凌駕していた。


「な……!? 何だ、これ……」


「本当に全部この子が……?」


モニターを見つめる篠崎たちの顔から血の気が引いていく。2000年に制定された『児童虐待防止法』に基づき、警察が介入できる法的根拠は明白だが、これほどまで完遂された証拠を、あろうことか被害者である幼い子供が用意した例など、前代未聞だった。


安藤が膝をつき、慎と同じ目線になって、震える声で尋ねた。


「君……いくつなの?」


慎は表情一つ変えず、静かに、けれど明確に告げた。


「六歳です」


安藤は絶句し、署内には沈痛な静寂と、それ以上に激しい義憤の渦が巻いた。大の大人が数人、六歳の少年の瞳に宿る、達観したような深い「知性」に気圧されていた。篠崎が震える手で無線機を掴み、鋭い声で現場への急行を指示し始める。


(よし、これでいい……)


慎は、差し出された温かい茶を啜りながら、内心で呟いた。


――――――


深夜。◎◎◎警察署から緊急配備されたパトカーのサイレンが、静まり返った安アパートの前に鳴り響いた。


踏み込んだ警察官たちが、酒の臭いが充満する部屋で眠りこけていた久遠杏子を叩き起こす。


「な、何よ、一体……!? 何の権利があって人の家に土足で……っ!」


「久遠杏子だな?警察だ、ご同行願おう」


「はぁ!? 冗談言わないでよ、何なのよ!」


抵抗する杏子だったが、そこにいるはずの息子・慎が消えていること、そして彼が自ら警察署へ駆け込んだことを告げられ、顔色を変えた。


「慎が……逃げ出した? あの子が、一人で……?」


取り調べ室へ連行された杏子は、当初、不遜な態度で白を切っていた。


「全部あの子の嘘ですよ! ちょっと叱っただけで大袈裟なんだから。最近の子は本当にずる賢くて困ります」


だが、篠崎が沈痛な面持ちで一台のモニターを彼女に向け、再生ボタンを押した瞬間、室内の空気は一変した。そこに映し出されたのは、自身が慎に浴びせていた罵詈雑言、激しい暴力の数々…。


「う、嘘でしょ……何で……? 慎が……撮ってたの?」


息子の信じがたい、異常とも言える用意周到さに杏子は狼狽し、やがて崩れるように自白を始めた。


「……実家を勘当されて、自暴自棄だったんです。適当な男を引っかけて、養わせようと思ったのに……あいつ、名前も職業も全部出鱈目だった。詐欺に騙されたんです。妊娠が分かった時には、もうどこにもいなくて……。世間体があるから産んで、一緒に暮らして。でも、慎を見るたびに、あの男の事を思い出して、イライラして……っ!」


その身勝手な供述に、立ち会っていた警察官たちの怒りは限界に達した。特に慎と同じ年頃の子供を持つ者達の追及は、峻烈を極めた。


「仮にも腹を痛めて産んだ子供に、何て仕打ちを……! あんた、それが親のすることか!」


「自分の産んだ子供だから何をしてもいいとでも思っているんですか? そんなわけないでしょ!! 命ですよ!? 意思のある、生きた人間なんですよ!?」


「周りには嘘八百を並べて、あんな小さな子を閉じ込めて……あんたの心は、凍りついてるのか!!」


怒声が響く中、杏子は逃げ場を失い、ただ泣き喚くことしかできなかった。


――――――


やがて場所を移動することになり、廊下に出された杏子は、偶然にもトイレから戻ってきた慎と鉢合わせた。


「慎!?あんたよくも…!」


「………」


警察官に守られるように歩く息子を見つけた瞬間、杏子は最後の悪あがきのように叫んだ。


「警察に『嘘を吐いた』って、『僕が悪いんです』って正直に言いなさい!! ほら、早く!!」


「おい、やめろ!!」


だが、そこにいたのは、彼女の知る「慎」ではなかった。前世の記憶と融合し、並の大人以上の冷静さを宿した慎は、母親を見ても眉一つ動かさない。その瞳には、かつての恐怖も、親を求める愛着も、欠片も存在していなかった。


(うるさいんだよ、毒親が。俺にとっての母は前世で、腕によりをかけた料理を毎日作ってくれた「母さん」だけだ……。あんたは……絶対に違う…!!)


慎は杏子を直視することなく、隣の警察官へ静かに告げた。


「早く連れて行って下さい」


「な…!?」


そのまま、感情を排した足取りで部屋へと戻っていく。その余りに冷淡で、完成された拒絶に、杏子は腰を抜かさんばかりに驚愕し、取り乱した。


「お、おい……坊や?」


同行していた警察官たちも、六歳の子供が放った余りに異質な空気に唖然とするしかなかった。


杏子は震えながら、周囲を指差して叫び始めた。


「ち、違う、あれは慎じゃない……! 慎じゃないわ!!」


「はぁ?」


「おい、何言ってるんだ、あんた? 自分の息子だろうが」


「違う! 慎はあんな子じゃない!! ビデオで証拠を集めたり、私に向かってあんなことが言えるような子じゃない!! 私の息子は……慎はどこよ!? どこへやったのよ!?」


「おい、暴れるな!! 連れて行け!」


暴れる杏子を無理やり引きずっていった後、廊下には重苦しい沈黙が残った。安藤が篠崎に、囁くような声で問いかける。


「……どう思います? あの子の、今の言葉」


「……あんな子、初めて見た。虐待のストレスで心が壊れているにしても……な。とにかく、精神が何らかの変調を起こしたと見るべきか」


「可哀想に……あの年齢で…それもたった一人の母親を裁く事になるなんて。これからの長い人生を、あの子はどう生きていくのか……」


一方、戻った部屋の中で、慎は一人、自分と一つになった幼い魂の残滓を感じ取っていた。杏子の、あがきにも似た叫びは、防音の甘い扉を抜けてここまで届いていた。


「ふん、一応は我が子を見分ける目はあったのか、腐っても親……だが、もう手遅れだ」


慎は、閉まったドアを静かに見つめながら、氷のように冷たい声で呟いた。


「自分のした事の報いを受けろ」

明日の更新で、今まで(仮)だった本作のタイトルを解禁します。

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