覚醒
(な、何だ? 俺はどうして……)
意識の混濁、そして焼け付くような鈍痛。それが、死んだはずの『彼』が最初に感じた感覚だった。
死んだはずだ。人質の妊婦を庇い、トロイの銃弾をその身に受けて、一冊の小説を枕に絶命した記憶は鮮明にある。しかし、覚醒した彼を待っていたのは見慣れないアパートの一室、そして罵声だった。
「あんたなんか、産まなきゃよかった!!」
ヒステリックな絶叫と共に、小さな体に衝撃が走る。見知らぬ女に罵倒され、容赦なく殴りつけられた。困惑し、視線を落とした『彼』は驚愕する。視界に入る自分の手足は、不自然なほどに小さく、細く、頼りなかった。
「あたしがどれだけ苦労してると……この役立たず!!」
女はそれからも自分勝手な理屈で罵詈雑言を並べ立て、殴打を繰り返した。
(いきなり何だよ、痛ぇな……てか、日本語?ここは日本か?)
前世で培った言語能力が、咄嗟に状況を把握しようとする。
やがて女は怒ることに疲れたのか、泥のように眠りについた。体中が痛むが、意識だけは驚くほどはっきりしている。『彼』は這うようにして台所へ向かい、こっそりと水を一口飲むと、その場に座り込んで状況を分析し始めた。
室内の備品、言葉、文字。やはりここは日本らしい。
「…!」
だが、鏡を覗き込んだ『彼』は言葉を失った。そこには、酷く痩せこけてはいるが、確かに日本人の子供の顔があった。五、六歳ほどだろうか。
(まさか。これは日本の小説や漫画で流行っていた『転生』というやつか? 俺はこの子供に?)
動揺が走るが、戦場を生き抜いた精神はすぐに次の疑問へと向かう。
(しかし、剣と魔法のファンタジー世界じゃ無さそうだな)
卓上のカレンダーに目をやれば、日付は2007年の12月。前世の自分が生きていた時代よりも過去の年号が記されている。
(おいおい、もしかして時間を遡ったのか……?)「うっ…!?」
思考を巡らせようとした瞬間、突然、視界が暗転した。重い闇の底で、透き通った声が聞こえてくる。
「お兄さん、僕の声聞こえる?」
暗闇の中にぽつんと現れたのは、小さな光の塊だった。不気味さよりも不思議な懐かしさを感じさせるその光景に、『彼』は反射的に問いかけた。
「お前……もしかして、この肉体の持ち主か?」
「うん、僕……死んじゃったみたい」
少年の淡々とした言葉に、『彼』は愕然とする。
「何?死んだだと……まさか」
この子供の肉体は、あの母親による暴力によって、一度は命の灯を消していたのだ。
「でも、お兄さんが出てきたから、まだ何とか生きてるみたい。お兄さんは、僕の……前世? なんだって……」
あまりに荒唐無稽な話に、『彼』は眉を潜めた。
「何…?誰かにそう教えてもらったのか?」
「うん、何かよくわからない光るドアを開けたら、誰かがそう言って、戻ってみなさいって……」
「は!?あの世への扉かそれは?ならその声は……いや、この際、何が出てきても受け入れるしかないか」
戸惑う『彼』を前に、光は小さく震えた。
「ご、ごめんなさい」
「いや、お前が謝るなよ。別に何も悪い事してないだろ?」
「あのね、お兄さんと僕が一つになれば、新しく生まれ変われる……みたいな事も言ってた……」
「『一つになる』……だと?」
光はこちらの顔色を窺うようにゆらゆらと揺れている。
「なぁ、そう言えばお前の名前は?知ってる事は全部教えてくれ」
「うん、僕は……久遠慎って言うの……。あのね、ここはお兄さんのいた世界とは違うんだって」
その一言に、『彼』は戦慄した。
「パラレルワールド……並行世界だってのか!?って事は結局は異世界転生かよ…」
「えっと……よく解んないけど……」
「あ、こっちの話だ。いいから続けてくれ」
慎の語る現実は、あまりに凄惨だった。父親の顔は知らない。一ヶ月ほどは家から出してもらえず、暗い部屋で理屈のない暴力と飢えに晒されていた。そして先程、とうとう意識が途切れて死の淵に至った。
「ふざけやがって……典型的なDVとネグレクトか」
「掃除屋」として数多の悪党を葬ってきた『彼』の胸中に、烈火のごとき憤怒が燃え上がる。慎の話を統合すれば、慎が死んだ直後に魂が分裂し、肉体に前世の『彼』の心を持つ魂が覚醒した形になる。魂が一つになるということは、主導権は強固な意志を持つ『彼』が握り、六歳の慎の自我は上書きされ、事実上消滅することを意味していた。
「おい、慎……お前本当にいいのか? 消えるかもしれないんだぞ」
だが、慎の返答は、悲しいほどに決然としていた。
「僕、もう全部忘れたい。お母さん、怖いから……」
「……っ!!」
絶望の果てに、幼い子供が下した究極の放棄。『彼』はその申し出を、血を吐くような重みで受け止めた。
「解った……お前の受けた事は、俺がきっちりと落とし前をつける。ゆっくり休め、これからは一緒だ。よろしくな、慎」
「ありがとう……お兄さんが僕になってくれて……嬉しいなぁ……」
穏やかな、そして満足げな声を最後に、光の粒は『彼』の魂へと吸い込まれていった。
――――――
現実の部屋で、重い瞼が開く。全身の痛みを噛み締め、鏡の中の幼い瞳を鋭く見据えながら、『彼』は受け継いだ新たな名を口にした。
「僕は……俺は……久遠慎」
かくして、この最悪なアパートの一室から、『彼』の『久遠慎』としての第二の人生が始まった。




