前世の記憶
ここから、過去篇に入ります。
「久遠慎」という名の人間。
その真実の姿は、本来の筋書きでは名も無き犠牲者として歴史の隅で消えるはずの幼い子供に、かつて敵を排除し続けてきた「掃除屋」の魂が宿った存在だった。
――――――
『彼』が生きた前世の記憶は、硝煙と鉄の匂い、そしてそれとは対照的な「温もり」への渇望に満ちていた。
元は某国の特殊部隊に所属するエリート兵士だった。両親からは深い愛情を注がれて育ったが、『彼』が成人した後に二人は相次いで病死。天涯孤独となった『彼』は、その卓越した戦闘能力を見込まれ、ある機関へとスカウトされた。サバイバル能力、精密射撃、近接格闘――。襲いかかってきた猛獣を返り討ちにし、自ら解体して食らうほどの強靱さを持つ『彼』は、いつしか組織の影として、対象を抹殺する「掃除屋」同然の任務をこなすようになっていた。
だが、『彼』は魂まで売り渡してはいなかった。
「あーあ……母さんの作る飯が恋しいなぁ」
血生臭い戦場の片隅で、ふと故郷の穏やかな食卓を思い返すこともあった。根は善人であり、非道な依頼は冷徹に断り、時にはその依頼主の情報を流して間接的に破滅させるなど、自分なりの矜持と一線を持っていた。
いつかは足を洗おうと、『彼』はあらゆる知識を貪欲に学んだ。気がつけば、仲間に振る舞う料理はプロ級の腕前となり、面倒見の良さから彼を慕う戦友も多かった。しかし、そんな彼に最期の時が訪れる。
――――――
『彼』の最後の戦いの標的は、「トロイ」と呼ばれるテロリストだった。他者を人形のように操り、死体の山を築くことを愉しむ、真性の外道だ。
特定したアジトへ踏み込んだ『彼』が目にしたのは、傲岸不遜に椅子に座るトロイと、怯える若い夫婦の姿だった。
「おい、貴様……何のつもりだ。誰だ、その二人は?」
「あ? 俺も知らないよ。たまたま近くで会って連れてきたんだ。退屈だったからね」
トロイは逃げるどころか、偶然居合わせた夫婦を人質にして待ち構えていたのだ。しかも、妻の方は身重だった。歪んだゲームを楽しむトロイは、読んでいた一冊の日本語の小説を床へ放り投げると、薄笑いを浮かべて『彼』を挑発した。
「お前の噂には聞いているよ。腕は確かだが、変なところで甘い奴だってな。……どうだい?」
無関係な、それもこれから親になる夫婦を巻き添えにするほど、『彼』は非情になれなかった。 苦し紛れに悪態を吐く。
「この野郎……。おまけに部屋が汚ねぇんだよ、ちったぁ片付けろ」
アジトには、トロイが趣味で集めた碌でもないバッドエンド小説が散乱しており、その精神の歪さが部屋を「汚して」いた。
「はっ、その程度か。思っていたよりもつまらない相手らしいな!!」
トロイの嘲笑と共に銃撃戦が始まった。『彼』は弾丸をかいくぐり、一気に距離を詰める。だが、勝負が決するかと思われたその瞬間、トロイは銃口を無防備な妊婦へと向けた。
――弾丸が放たれる。 反射的に、『彼』は自らの体を盾にしてその一弾を飲み込んだ。
「ぐあっ!!」
防弾チョッキは役に立たなかった。トロイは最初から、『彼』の「甘さ」を利用して致命傷を与える機会を狙っていたのだ。
「あははは! 傑作だ、本当に甘い奴だったよ」
哄笑するトロイ。だが、『彼』は膝を突きながらも、血の混じった唾を吐き捨てて言った。
「……舐めるな、屑が」
「な…」
最後の執念。限界を超えた速度で引き抜かれたバックアップの銃が火を噴き、弾丸はトロイの眉間を正確に撃ち抜いた。外道の笑みが消え、物言わぬ骸となって転がった。
同時に、『彼』も力尽きて倒れ込んだ。偶然にも、さっきまでトロイが読んでいたあの薄汚い小説を、枕にするような形で。
「だ、大丈夫ですか! しっかりしてください!」
(あー…ここまでか)
助けられた夫婦が、震える声で駆け寄ってくる。朦朧とする意識の中で、『彼』は死期を悟っていた。血が流れ落ち、何も見えなくなっていく。
「いいから……気にするな。……あんたら、親になるんだろ? ちゃんと……その子を育ててやれ……」
それが、『彼』の最期の言葉だった。 見ず知らずの新しい命を救い、一冊のバッドエンド小説の上で、男の魂は肉体から離れた。




