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織田川芳子

職員会議を終えた麗奈は、久遠慎という少年が背負う背景について思考を巡らせていた。施設育ちという境遇、そして前籍校での凄惨な騒動。その渦中にありながら、彼は揺らぐことなく学業の頂点に立ち続けていた。


(色眼鏡で見てはいけないけれど……少なくとも、他の生徒と同じ基準で測れる相手ではないわね)


麗奈は小さく呟き、彼との適切な距離感を慎重に探ろうとしていた。あの年齢で、一体どれほどの経験を持っているのか。今はまだ、それを推測することしかできなかった。 麗奈は重い疲労感を覚えながらデスクを片付け、帰路につくべく職員室を後にした。


校舎の長い廊下を歩いていると、オレンジ色に染まり始めた窓の外から、まだ下校せずに談笑する生徒たちの声が響いてきた。 曲がり角の先にいたのは、二年生の女子グループだ。その中心で、優れた容姿を誇示するように取り巻きを従え、奔放な笑い声を上げているのは、二年生の織田川芳子(おだがわよしこ)だった。


(また、彼女…)


芳子はこの高校に多額の寄付を行っている名士の娘であり、校内では一種の特権階級のような振る舞いが事実上黙認されている。教師の指導を公然と無視することも珍しくなく、特に麗奈に対しては、昨年の初対面から棘のある態度を隠そうともしない。


(……何も指導しないわけにはいかないわね)


麗奈は教師としての義務感を奮い立たせ、彼女たちに歩み寄った。


「織田川さん、皆さん。下校時刻を過ぎているわよ。寄り道をせずに帰りなさい」


麗奈の声に、周囲の生徒たちは一瞬で口を閉ざした。中心にいた芳子は、ゆっくりと麗奈の方へ振り返る。麗奈の地味なスーツの上からでも隠しきれない、その端正な輪郭と立ち姿。それが芳子には、自分を脅かす忌々しい不純物に映った。


「あら、佳山先生。お疲れ様です」


芳子は唇の端を吊り上げたが、その瞳に温度はない。


「新入生の対応、大変そうですね。先生、あまり無理をなさらない方がよろしいですよ」


「……忠告ありがとう。けれど、今はあなたたちの心配をしているの。早く帰りなさい」


麗奈が真摯に促すと、芳子は露骨に顔を顰め、吐き捨てるように舌打ちを漏らした。


「……相変わらず、話が通じない人」


芳子はそれ以上、麗奈と視線を合わせることさえ拒絶した。彼女は横にいた友人たちの肩を叩き、顎で廊下の先を指し示す。


「行くわよ。真面目すぎる先生のお説教を聞いてると、こっちまで息が詰まりそう。……何してるのよ、宏美。あんたもさっさと来なさい」


一番気の弱そうな女子に向かって鋭い声を飛ばすと、他の女子も「ほら、東雲」と急き立てる。


「え、あ……うん」


東雲宏美(しののめひろみ)と言う名前の少女は、戸惑いながらも芳子の後に続いた。 芳子は麗奈を避けるように、悠然とした足取りで校舎の奥へと去っていった。その背中からは、教師の権威など知った事では無いと言う傲慢さが溢れ出していた。


麗奈はその場に立ち尽くし、遠ざかる足音を聞いていた。新年度の初日から、担任クラスには底の知れない背景を持つ久遠慎がおり、上級生には明確な敵意を持つ織田川芳子がいる。


(……本当に、頭が痛いわ)


麗奈は慎の静かな微笑と、芳子の刺々しい舌打ちという、対極にある二人の姿を思い返し、これから始まる前途多難さに深く溜息をつくのだった。


――――――


「まったく、嫌な女」


夕闇に染まる街を、芳子は苛立ちを隠そうともせず大股で歩いていた。


彼女が抱く麗奈への感情は、単なる反抗心を超えた、純粋で激しい嫌悪だった。無駄に美しく、どこか浮世離れした気品を漂わせるあの女。あんな恵まれた容姿を持っていながら、あえて教師などという堅苦しい職に就いていること自体が、芳子には鼻持ちならなかった。


(あんな顔と体をして……水商売でもしていればいいのよ)


初めて麗奈が赴任してきた時の光景は、今思い出しても腹立たしい。男共は一様に色めき立ち、女たちまでもが、その美貌や立ち居振る舞いへの憧れを口にした。


周囲から常に「特別な存在」として甘やかされ、ひざまずかれることに慣れきった芳子にとって、自分以上に注目を集める「高嶺の花」と言うべき麗奈の存在は許しがたい不純物だった。隙を見つけて、いつか立ち直れないほどの酷い目に遭わせてやりたい――そんな殺意に近い感情を麗奈に抱いていた。


しかし、芳子の周囲には、彼女の望みを叶えてくれそうな骨のある人間はいなかった。


(どいつもこいつも、口先だけ……)


取り巻きの東雲宏美にしてもそうだ。あれは「友人」などではなく、単に芳子の放つ威圧感に逆らえないだけの根性無しに過ぎない。都合の良い手駒として傍に置いているが、頼りになるとは思えない。


周囲に教師を嫌っている生徒は掃いて捨てるほどいる。だが、大した理由も無く自分の将来を賭してまで、一人の教師を陥れようとする度胸のある者など、この学校には存在しない。


「……都合良く、そういう輩がいてくれたら良かったのに」


身勝手な不満を口の中で転がしながら、芳子は苛立ちを発散させる場所を求めた。今は何か、高価なものを手に入れることでしか、この胸のつかえは取れそうにない。彼女は迷うことなく、ブランド店が立ち並ぶ通りへと、吸い込まれるように足を向けた。

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