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閑話・芳子退場

芳子が、最後の一刺しとして麗奈に電話を終えた時、彼女の部屋にはただ虚脱感だけが漂っていた。


「これで、少しでも苦しめばいいわ…」


芳子はそう呟いて、燃え尽きたようにベッドへと倒れた。


――――――


当初、芳子は宏美の父親である東雲正和の失脚について、慎が「学生が他人の家庭を壊した」というスキャンダルに仕立て上げるつもりだった。しかし、詳細を探るうちにそれは不可能だと悟る。宏美自身が正式に慎を窓口として依頼し、慎は「私立探偵」という公的な調査機関を介して証拠を掴んだに過ぎない。民法上の不貞行為を暴く手段としては正攻法であり、そこに慎を法的に刺せる隙はどこにもなかったのだ。


焦りに駆られ、財力に物を言わせたのがあの暴挙だった。しかし、その結果手に入れた慎の「過去」が、皮肉にも彼女自身の精神を粉砕してしまった。


「こんな筈じゃ、無かったのに……」


床に慎の過去に関する資料を叩きつけた芳子は、震えることしかできなかった。


――――――


後日、父・織田川武が自室に芳子を呼び出した。


「芳子、お前が裏で勝手に動いて、ある学生の個人データを強引に開示させたことは把握している。織田川の名の特権を私情の嫌がらせに使うとは……一体何を考えているんだ!? 権力というものは一つ間違えれば、自分の身を焼くことにもなるんだぞ!」


武にとって、慎という存在は名前も知らない一介の学生に過ぎない。娘が何らかのトラブルの腹いせに個人情報を洗ったことに対し、親としての体裁で叱責しただけだった。武は、その資料の中に自分の想像を絶する「怪物」の記録が眠っていることなど、知る由もない。


「……申し訳ありませんでした。お父様」


「む……?」


これまでの芳子なら、泣き喚くか反抗的な態度を取っていただろう。しかし、彼女は震える声で素直に謝罪し、深く頭を下げた。


「〇〇〇高校から転校させてください。……今すぐに。一刻も早く、あそこから離れたいのです」


その異様なまでの覇気のなさと、何かに怯えるような様子に武は困惑したが、学校側との関係がこれ以上悪化するのを避けるべきだという政治的な判断により、娘の願いを承諾した。


織田川家の根回しは迅速だった。学校側が事態を詳細に調査し始める前に、手続きはすべて完了した。多額の寄付金に関する契約も調整され、芳子の存在は静かに、そして完全に校内から抹消された。


引っ越しが完了すると、芳子は最後の意地のつもりで麗奈へ慎の過去に関する暴露の電話をかけたのだった。


――――――


転校先の学校での芳子は、かつての傲慢さが嘘のように静まり返っていた。 手駒だと思っていた宏美の離反によって他人を信用することができなくなり、慎のような「剥き出しの意志」を持つ人間を知ったことで、これまでの価値観は粉々に砕け散った。


彼女は、他人の顔色を窺うことすらできなくなった。人を安易に判断しようとすれば、あの資料に記された慎の冷徹な眼差しが脳裏をよぎり、肺が潰されるような圧迫感で呼吸が止まりそうになるからだ。


さらに、彼女を苛んだのは「平穏な光景」への恐怖だった。 街で五歳か六歳の子供を見かけるたび、あの資料にある「六歳にして実母を社会的に抹殺した子供」の記録を思い出し、背筋に凍りつくような悪寒が走る。


(こんな子供の皮を被った「何か」が、私を壊しに来るのではないか……)


そんな強迫観念が、彼女の精神をじわじわと削り取っていった。


――――――


数年後、何とか転校先を卒業した芳子は、家の体裁を保つために海外へ送られ、関連事業を手伝うことになる。だが、その私生活のほとんどは自宅の敷地内から出ることはなかった。


社交の場を避け、かつて自分が嘲笑っていた「弱者」のように、物音に怯えながら過ごす日々。


彼女が守ろうとした「織田川」の権力は、彼女自身を外界から遮断する檻となり、一生、慎という怪物の影から逃げ続けるための盾となった。


……だが、皮肉にもそれは彼女に与えられた罰でもあった。


重度の人間不信と対人恐怖を抱えた芳子が、そのまま二度とあの傲慢な人間性を取り戻すことなく、生涯を独身で通し、歴史の隅でひっそりと寂しく朽ち果てていくことになるのは、また別の話である。

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