隠し事
静まり返った談話室で、慎は窓の外の夜闇を見つめながら、静かに、そして淡々と「始まりの記憶」を語り始めた。
「実は、六歳以前の記憶が俺には無いんです」
「えっ……?」
意外な独白に、麗奈は息を呑んだ。芳子が語った「六歳の決断」という結果の影に、そんな欠落があったとは?
「一番古い記憶は、埃っぽい安アパートの中で、母親に罵倒され、殴られた光景です。……ただ、それももう朧気ですけど、その時に思ったんです。このままだと自分は『死ぬのを待つだけ』だ、と」
慎の声には、恨みも悲しみも混じっていなかった。まるで他人の物語を読み上げているかのような、無機質な響き。
「そこで、運良く部屋にあった古いビデオカメラを弄って、それを……。隙を見て録画したカメラを持って逃げ出し…◎◎◎警察署へ行きました。そこで篠崎さんに初めて会って……。あの時は無我夢中だったような気がするんですが、もう母親の顔のことも大して覚えてません。……ただ、確かにあの頃から、自分は他の子たちとは違う『何か』になったと思っています」
慎は自分の頭を指先で軽く叩き、自嘲気味に微笑んだ。
「それ以降、妙に頭がクリアなんです。……ここはこうした方が良い、これはこうすれば解決すると、自然に最適解を考えられるようになった。その影響もあってか、過去のことで悩むことはほぼ止めてます。自分の命を守るための行動に後悔はしていませんから。……ただ、先生や施設の方々に、必要以上に気を遣わせてしまうのが申し訳ないとは思っていますが」
「久遠くん……」
麗奈は震える手で、慎の言葉をなぞるように自分の胸元を強く押さえた。六歳の子供が、自らの生存を賭けて「親」という絶対的な庇護者を切り捨てた。その孤独と決断を想像し、麗奈の視界が急速に潤んでいく。
「……あなたが生きるために必死だったことを、誰も責めることなんてできないわ。あなたは、自分自身の手でその命を繋いだのよ。それは……とても立派なことだわ」
「すみません、先生。そう言ってくださると……って、あ、あら?先生、別に泣かなくても……」
慎は麗奈がこれほど激しく感情を揺さぶられるとは思っていなかったのか、珍しく本気で慌てた様子を見せた。麗奈の目から大粒の涙が溢れ、止まらなくなる。
「あ、やだ、私ったら…ごめんなさい、どうもうまく気持ちが…」
あたふたしながら、麗奈がハンカチを取り出そうとしたその時。
「……にーちゃん。ねーちゃん、泣いてる」
「あ……」
「茜?」
談話室の扉の隙間から、目をこすりながら寝ぼけた茜がふらふらと歩いてきた。彼女は慎と麗奈を交互に見上げ、ぷくっと頬を膨らませた。
「にーちゃんが、ねーちゃん泣かせた。……めっ、だよ」
「いや、茜。これはな…」
慎の弁明を聞くよりも早く、茜はトテトテと麗奈に駆け寄り、その膝に顔を埋めた。そして、吸い寄せられるように、再び麗奈の豊かな胸元を枕にして収まった。
「ふかふか……。にーちゃん……だめ……」
「あ……ふふ、あはは……」
「おいおい」
涙を流しながらも、麗奈はあまりに無邪気な茜の行動に思わず吹き出した。その場は、一瞬にして微笑ましく、どこか気の抜けた空気へと塗り替えられていく。麗奈は茜の柔らかな背中を撫でながら、ようやく落ち着きを取り戻した。
――――――
(やれやれ…)
慎はそんな二人の様子を眺めながら、内心で深い溜息を吐いた。
(助かったよ、茜……。このまま先生に泣かれ続けたら、どう対処していいか分からなかった)
慎は穏やかな笑みを崩さなかったが、その思考の底には、麗奈には決して見せない淀みが沈んでいた。
(……嘘は言ってない。……筈だが。やはりこういうのは、インチキをしているようでなんかなぁ……)
「六歳以前の記憶がない」ことも、「生きるために行動した」ことも事実だ。しかし、彼が隠している「真実」の全貌は、簡単に誰かに話せる様な内容では無かった。




