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誕生日

芳子との通話を終えた翌日、日曜日の朝は最悪の気分で始まった。麗奈はベッドの中で何度も寝返りを打ち、芳子の呪詛のような言葉を振り払おうとしたが、それは粘りつく泥のように意識にへばりついて離れない。


六歳の子供が、自ら母親の虐待を記録し、警察へ突き出した。


その事実が持つ、剥き出しの冷徹さ。麗奈の予想を遥かに上回る壮絶な過去だった。明日になれば、また教室で慎と顔を合わせなければならない。教師として、一人の人間として、どんな顔をして彼と言葉を交わせば良いのか。答えは出ないままだった。


(最後の最後まで最低なことをよくも……! このままこうしていても、彼女の思う壺だわ)


芳子の卑劣な置き土産に、これ以上心を侵食されるのは癪だった。麗奈は気付け薬代わりに熱いシャワーを浴び、身なりを整えて街へと出た。


十一月の空気は既に冷たく、通り過ぎる風が頬を刺す。温かいうどんを食べて店を出ると、冷えた体に適度な熱が宿ったが、心が晴れることはなかった。


「あら?」


ふと、歩道脇の植え込みの前に、所在なげに立っている小さな影が目に入った。四、五歳くらいの女の子だ。派手な泣き方はしていないが、大きな瞳をキョトンとさせて周囲を見渡している。明らかに迷子だった。


「どうしたの? 誰かと一緒じゃないの?」


声をかけるべく、麗奈が腰を落として目線を合わせると、女の子は麗奈を見上げ――その視線が、一点でぴたりと止まった。麗奈の豊かな、94cmのGカップを誇る胸元を、食い入るように凝視している。


「えっ? あの……ちょっと……?」


麗奈は普段から、他人の不躾な視線を浴びるのには慣れている方だった。だが、これほど純粋に、かつ執拗に幼い女の子から一点を見つめられるのは初めての経験だった。


(え、ええと……この子、女の子よね? 視線が凄く熱心なんだけど……)


あまりの熱視線に、麗奈は内心で苦笑いを浮かべながら、少しばかりたじろいでしまう。何か言いたげに口を半開きにしていた女の子だったが、やがて満足したのか、「ふぁ……」と大きなあくびを一つ漏らした。


「……ねむい」


「あ、あの、お名前は?」


「……ねむいのぉ……」


緊張感が欠落したその言葉に、麗奈は毒気を抜かれた。このまま放っておくわけにもいかず、ひとまず地べたに座らせるのも忍びない。麗奈は警察へ「迷子を見つけた」と連絡するべくスマートフォンを取り出したが、まずはその小さな体を抱き上げた。


その瞬間、女の子は麗奈の胸に顔を埋め、驚くほどの速さで眠りに落ちた。


「あら? あらら……」


麗奈の胸元が寝心地の良いクッションになったのか、女の子はすやすやと規則正しい寝息を立て始める。


「あー……どうしよう」


「……先生。そこで何をしているんですか?」


背後からかけられた聞き覚えのある声に、麗奈の心臓が口から飛び出しそうになった。振り返ると、そこにいたのは今もっとも顔を合わせたくなかった相手、久遠慎だった。


(嘘!? なんでよりによって……! まだ気持ちの整理がついてないのに!!)


麗奈は内心で絶叫したが、顔だけは必死に平静を装った。慎は紙袋をいくつか提げ、不思議そうな顔で麗奈と、その腕の中で眠る子供を見ている。


「むにゃ……おっきくて……ふかふか、きもちい……」


「へ……?」


女の子が寝言を漏らし、麗奈の胸にさらに深く顔を押し付けた。その無邪気な一言に、張り詰めていた空気が一気に弛緩する。麗奈は顔が熱くなるのを自覚しながら、誤魔化すように咳払いを一つした。


「この子、迷子みたいで。今警察に連絡しようとしていたところなの」


「ああ、そこにいたのか。……すみません先生、その子は俺の連れです」


「…?連れって……」


慎の話によれば、女の子の名前は「茜」。数年前に両親を亡くし、慎と同じ施設で暮らしているのだという。今日は慎の買い物に付いていくと聞かず、目を離した隙に迷子になったらしい。


「茜、起きろ。……先生に迷惑だ」


「いいわ、起こさないであげて。せっかく気持ちよさそうに寝ているんだし」


慎が手を伸ばして抱きかかえようとしたが、麗奈はそれを制した。


「施設までなら、私が抱いていくわ。起きてぐずり始めても大変でしょう?」


「……すみません。では、お言葉に甘えます」


慎はそれ以上固辞せず、麗奈の隣を歩き始めた。並んで歩きながら、麗奈は慎が持っている紙袋に目を向けた。何気なく尋ねると、慎は少し照れくさそうに視線を逸らした。


「今日は、俺の誕生日なんです。施設のみんなが祝ってくれるというので、そのための買い出しですよ」


「え……今日、お誕生日だったの?」


麗奈は足を止め、慎の横顔をまじまじと見つめた。今日は彼の十六歳の誕生日。芳子が暴き立てた、あの凄絶な過去からちょうど十年という節目。六歳で自ら地獄を脱した少年が、今、こうして年下の子供の面倒を見ながら、ささやかな祝いのために買い物袋を提げている。その光景が、麗奈の胸に迫った。


(この子は……)


誰にも祝われることなく消えていたかもしれない命。それが今、自分の隣で静かに歩いている。麗奈は腕の中の茜をそっと抱き直し、慎に向けて、嘘偽りのない微笑みを浮かべた。


「……おめでとう、久遠くん。素敵な十六歳になるといいわね」


「ありがとうございます、先生」


冷え込む十一月の午後の日差しを浴びながら、奇妙な三人連れは、施設へと続く道をゆっくりと進んでいった。

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