芳子の転校
二学期の喧騒が一段落した頃、芳子は宏美の転校と入れ替わるように学校を欠席し続けていた。傲慢な女王不在の教室は、澱んでいた空気が入れ替わったかのように、平穏な空気に包まれていた。
一方、麗奈は宏美から聞かされた「裏の絡繰り」を消化できずにいた。慎が宏美と裏で取引して探偵を雇い、一家庭を解体に追い込んだという事実。それによって自分や宏美母娘は助けられたとはいえ、あまりに徹底しており、領域を逸脱していた。
麗奈は慎と向き合うべきか迷っていた。感謝を伝えるべきか、あるいは、その危うすぎる行動力を諫めるべきか。教師として何を言うべきか定まらぬまま、数日が過ぎた。
――――――
そんな折、校内に衝撃的な報せが走る。織田川芳子の、急な自主退学と転校。周囲の困惑は大きかったが、当の取り巻きたちの反応は冷やかなものだった。
「これでやっと安心だわ。あの非常識な織田川の顔色を窺わなくていいなんて、天国みたい」
「本当、宏美だけさっさと逃げ出してずるいって思ってたけど、これで私たちも解放されたわね」
彼女たちの言葉には、かつての「女王」に対する忠誠など欠片も残っていなかった。
しかし、学校運営としてはそう簡単にはいかなかった。織田川家は有力な寄付者でもある。学校上層部は、芳子が学校を去るに至った経緯を調査し始めた。特に、以前から芳子と折り合いが悪かった麗奈に対し、トラブルの有無を問う追及の目が向けられた。
「佳山先生、織田川さんと最後に話したのはいつですか? 彼女の不登校のきっかけに、何か心当たりは?」
麗奈は一瞬、あの倉庫での事件を話すべきか迷った。捏造写真、卑猥な水着、そして服を破られた暴行。だが、それを口にすれば慎も無傷ではいられない。麗奈が言い淀んでいると、意外な助け舟が出た。芳子の担任をしていた鈴木教諭だった。
「教頭、佳山先生を責めるのは筋違いですよ。織田川さんは以前から一方的に佳山先生を目の敵にしていました。私自身、彼女の傲慢な態度と指導を無視する振る舞いには、胃に穴が開くほどストレスを感じていましたから」
他の職員たちも次々と頷いた。芳子の素行の悪さは教職員の間で周知の事実だったのだ。
「確かに、特定の生徒の妬みで教師が責任を問われるのはおかしな話だ」
「織田川家への顔色ばかり気にせず、現場を見てください」
結局、周囲の援護もあり、麗奈に責任を求める声は立ち消えとなった。
――――――
会議を終え、重い足取りで職員室を出た麗奈は、渡り廊下で一人、外を眺めていた慎を見つけた。今こそ、訊かなければならない。麗奈は覚悟を決め、彼に近づいた。
「久遠くん、少し話せるかしら」
麗奈は、先日宏美から電話があったことを単刀直入に切り出した。慎は表情を変えず、少しだけ困ったように眉を下げた。
「あ~……隠し通せるか疑問でしたが、やはり先輩は話してしまいましたか」
「宏美さんは、あなたにとても感謝していたわ。私にも、申し訳なかったと謝ってくれて……」
「そうですか、思っていたよりも律儀な人だ」
「ねえ、久遠くん。あなたはどうして、そこまでして……私や宏美さんを助けてくれたの? 純粋な善意? それとも……」
「それとも?」
「織田川さんの底意地の悪さは嫌というほど理解しているけど、まさか、彼女に何か特別な恨みでもあったの?」
麗奈の問いに、慎はふっと微笑んだ。
「いえ……。前に警察の篠崎さんが言っていた、俺に対する評価を覚えてますか?」
「え?『気を許した相手にはとことん優しくなる』……だったかしら?」
「ええ。あれ、別に当たらずも遠からずなんです」
「えっ?」
「解りにくいかもしれませんが、俺はこれでも先生に心を許しています。中学の時もそうでしたが、俺は、自分が気に入った人間を、織田川先輩のような輩に好き勝手にされたくないだけなんです」
慎はまっすぐに麗奈を見つめた。その瞳には、子供特有の無垢さも、大人特有の計算もなかった。ただ、研ぎ澄まされた意志だけが宿っている。
「ここまで結構色々ありましたしね。それに、俺の昔の話を聞いても、先生はしっかりと向き合おうとしてくれましたから。宏美先輩の時は……まぁ、同情心ですよ、家庭では不誠実な父親に、学校では横暴な女王様に振り回されるなんて……あんまりでしたからね。若造の生徒が生意気言ってるとは思いますけど、これが本心ですよ」
「あ……そ、そう……そうなの……」
麗奈の顔が、一気に熱くなった。嘘は言っていないようだ。想像していた答えとは違うが、とても真っ直ぐな意思表示だった。動揺する自分自身が、ひどく子供のように思えて恥ずかしい。
「ただ……」
「『ただ』?」
「ただ、今回の織田川先輩の転校は、俺にとっても想定外です」
「……あなたが何かしたわけじゃないのね?」
「ええ。まぁ確かに、あのまま彼女が馬鹿をやり続ければ、こちらから追い出そうとは思っていましたが」
「ちょっと……」
さらりと恐ろしいことを口にする教え子に、麗奈は顔を引き攣らせた。彼は冗談を言っているのではない。もし芳子が踏み止まらなければ、彼は宏美の父親を失墜させた時よりも、さらに苛烈な手段で彼女を社会的に抹殺し、学校から追放していただろう。麗奈は、その選択肢が彼の頭の中に常に存在していたことを確信し、複雑な心境に陥った。
(やっぱり、その選択もありだと考えていたのね……)
とはいえ、慎が嘘をついているようには見えなかった。では、なぜ芳子は逃げるように去ったのか。宏美に裏切られたショックか?いや、彼女はそんな繊細な人間では無い。それだけで逃げ出したりはしないだろう。
――――――
困惑を抱えたまま、麗奈は帰宅した。荷物をテーブルの椅子にかけて手洗いに行こうとすると、暗いリビングでふと固定電話の着信表示が点滅しているのに気づく。
「あら…誰かしら?」
録音を確認しようと再生ボタンを押した。
『こんばんは……聞こえてるかしら、佳山先生?』
受話器から漏れ出た声に、麗奈の全身の毛穴が逆立った。
「!! 織田川さん……!?」
『あんたに良いことを教えてあげる。……あいつの……久遠のことよ』
「え……?」
『その気があるなら、この番号にかけ直しなさい……』
それは、かつての高慢な響きを失った、地を這うような低い、怨霊のような声だった。




