過去の記録
麗奈が宏美から詳細を聞かされていた時と同じ頃…。
「ふざけんじゃないわよ……あの糞ガキ……!!」
芳子のプライドはすでに、憎悪という名の業火に焼き尽くされていた。慎によって目論見をすべて台無しにされ、逆に、憎んでいる麗奈の前で無様に恥を晒させられた屈辱。そして、従順な手駒だと思っていた宏美の離反と逃亡。すべてが彼女の支配欲を粉々に打ち砕き、残ったのは、憎い相手を地獄へ引きずり下ろしたいという醜悪な執念だけだった。
「法? 倫理?……そんなの、あいつを潰した後でいくらでも買い叩いてあげるわよ。ここまで虚仮にされて引き下がるもんですか……!」
そして、芳子はついに禁忌を犯した。織田川家の財力と、父親の持つ政財界への不透明なパイプを使い、慎の過去を徹底的に洗い出させたのである。それは教育機関の秘匿義務や個人情報保護などを、金という暴力でこじ開ける重大なプライバシー侵害であったが、今の芳子にためらいなど微塵もなかった。
普段の彼女であれば、実父の逆鱗に触れることを恐れて慎重に動いただろう。だが、今の芳子は理性を失っていた。周囲の人間達も、彼女の異常なまでの剣幕に気圧され、誰一人としてその暴走を止める者はいなかった。それどころか、彼女の機嫌を損ねることを恐れた部下たちは、その命令がどれほど危険な一線を越えるものか理解しながらも、ただ無機質な機械のように「仕事」を終わらせてしまったのである。
――――――
やがて数日して、彼女の元に重厚な一束の資料が届けられた。
「これでいいわ。見せてもらうわよ、久遠……!」
芳子は自室の贅沢なソファに深く腰掛け、勝利を確信した下卑た笑みを浮かべてそのページを捲る。
「え……?」
だが……
「な……何よ、何なのよ、これは……!?冗談じゃないわよ……っ!」
読み進めるうちに、彼女の顔からは急速に血の気が引いていった。
そこにあったのは、芳子や周囲の人間が侮蔑を込めて囁いていた「あの荒れた×××中学の出身」などという言葉が、いかに的外れで滑稽なものであったかを示す、戦慄の記録だった。
いじめを隠蔽し、組織の保身を図った学校組織。それをたった一人で証拠を揃え、完膚なきまでに叩き潰した当時中学三年生の少年。芳子が「弱み」になると信じて疑わなかったその事件は、慎にとっては消し去りたい傷跡などではなかった。それは、彼が理不尽な巨悪に対して圧倒的な勝利を収めた「証」そのものだったのだ。
(……宏美の父親を破滅させたのも、やっぱりこいつだったんだわ。それにしても……私、何にも知らないで……)
確信と共に、芳子は自身の滑稽さに吐き気を覚えた。自分は、爆弾を素手で弄ぶような真似をしていたのではないか。これほどまでの相手に対して、捏造写真などという子供騙しの強請りを仕掛けていた自分の浅はかさが、恥辱を通り越して恐ろしかった。だが、資料が示す驚愕の事実は、それで終わりではなかった。
資料のさらに奥、慎の出生と生い立ち、そして施設への入所経緯に触れた記述を目にした瞬間、芳子の思考が完全に停止した。
「……っ!? ……う、嘘よ……本当に、当時六歳だったの?」
そこには、当時まだ六歳の慎が児童養護施設「□□□園」に入園するに至った、戦慄の経緯が記されていた。ページを捲る芳子の指先が、目に見えてガタガタと震え始める。喉はからからに乾き、額からは脂ぎった嫌な汗が滲み出し、絨毯に一滴、また一滴と零れ落ちた。
「こんな……こんなこと……。これが本当に、たった六歳の子供が選ぶことなの!?」
資料に綴られた異常な事実の連続。それは芳子の想像を絶する、ある種、人間離れした精神の発露だった。一体なにをどうしたら、これほどまでの「決断」を、六歳で下せるというのか。一般的に、子供は親の庇護を求め、理不尽にさえ縋り付くものだ。しかし、この記録の中の少年の選択は……。
「……怪物……」
芳子は耐えきれず、資料を床に叩きつけた。散らばった紙面には、慎が歩んできた、血の通わぬ機械のごとき「自己救済」の軌跡が並んでいる。そこには、彼女が唯一の武器としていた「親の威光」や「家の力」などという甘えが通用する余地などまるで無かった。
「わ、私……こんな、こんな筈じゃ………こんな……」
芳子は部屋の中で、ただガタガタと震えながら、床に散らばった忌まわしい「過去の記録」を、まるで呪いの品でも見るような眼差しで見つめ続けていた。




