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宏美の話

電話の向こうで、宏美は震える声を整えながら、積年の澱を吐き出すように語り始めた。


東雲家という檻の中で、宏美はずっと息を潜めて生きてきた。エリート役員である父・正和は、家族を自分の所有物としか見ていなかった。宏美が切望した志望校は、父の意向にそぐわないと一蹴され、無理やり〇〇〇高校へ押し込められた。


〇〇〇高校で始まったのは、出口のない閉塞感に満ちた日々だった。運悪く織田川芳子の目に留まり、その強引な圧力に抗えず取り巻きの一人に加えられたが、そこはさらなる地獄だった。


『佳山先生。私は、あんな屑女の言いなりになる自分が大嫌いでした。先生の魅力を妬んで、理不尽なことばかり言う織田川に合わせる毎日は、本当に苦痛で……』


宏美にとって、芳子の横暴に同調することは、自らの尊厳を削り取る作業に他ならなかった。そんな絶望の中にいた一学期の最終日、芳子を拒絶した慎が、校舎の陰で彼女に接触してきた。


「東雲先輩。あなたに、取引を提案しに来ました」


慎が切り出したのは、宏美がひた隠しにしていた家庭の闇――父・正和の不貞と、宏美が本心では芳子に従っておらず、この学校にも未練がないという事実だった。


「あ、あなた……どうしてそんなこと……!」


慎がなぜそこまで把握しているのか、その底知れなさに宏美は戦慄せんりつした。だが、慎は表情一つ変えず、淡々と続けた。自分なら正和の不貞の証拠を集める事は可能だ、その証拠を渡す代わりに芳子が何を企んでいるのか逐一報せて欲しいと。


「本気なの…?」


「嫌なら断ってくれて構わない。俺はどのみち、織田川先輩の邪魔をするつもりです。彼女はあのまま行くと……いずれ佳山先生に対して超えてはならない一線を超えてしまうと思いますから」


「……!」


「ただ、あなたが協力してくれるなら、俺はあなたたち親子の助けにもなれると思っています」


自分と母を縛り付ける父を排除し、この歪んだ学校生活からも抜け出す。慎の提示した条件は、宏美にとって唯一差し伸べられた救いの手だった。この尋常では無い後輩なら本当にやってくれるのかも?芳子に対する義理など無い宏美は取引に応じた。


「……分かったわ。私が知っていること、あいつがこれからしようとしていること、全部教える。だから……」


「約束します」


そして、慎はその言葉通り、私費を投じてプロの探偵を雇用。正和の不倫現場を確実に押さえるべく、数週間に及ぶ執拗な調査を開始した。


宏美の動きも迅速だった。あの夏の夜、芳子が警察署前で捏造写真を手に入れたことも、即座に慎へと報告した。報告を受けた慎は、「まさか、あそこにいたとはね。それで捏造を企むとは、色々と想定外だ」と、呆れながらも冷静に事態を分析していたという。


そして、芳子が麗奈を明確に強請り、実力行使に出る瞬間を捉えるための準備を進めた。慎の手元には、探偵が収集した正和の不貞証拠――宿泊を伴う不貞行為の現場写真、不倫相手との生々しい音声、密会に利用された経費の流用記録などが、裁判で反論の余地がないほど完璧に揃いつつあった。


学園祭当日。倉庫で芳子が麗奈の服を破るという暴挙に出た時、慎はその一部始終を記録して現れ、決定的な勝利を収めた。しかし、これ以上宏美にスパイを続けさせれば、芳子に裏切りを悟られるリスクが高まると判断。その日の夜、宏美のマンション前で、集まった全ての証拠を手渡して取引を終えた。


その後の展開は、まさに怒涛だった。 突きつけられた完璧な証拠を前に、正和は法的に完全に敗北した。民法上の不貞行為に基づく離婚請求と多額の慰謝料、さらには社内規定に抵触する経費流用の事実が、彼の社会的地位を完膚なきまでに破壊した。追い詰められた正和は、これまでの傲慢な態度が嘘の様に弱々しくなり、「悪かった」、「許してくれ」、「ほんの軽い気持ちだ、本気じゃ無い」などと、真っ青な顔で言い訳しながら土下座する醜態を晒したが、宏美と母の心はすでに決まっていた。


「あなた……それで言い訳しているつもりなの……?」


「この……裏切り者!!もう、あなたなんかを父親だとは思わない……。二度と、私達に顔を見せないで!!!」


二人は怒りのままに正和を突き放し、離婚は成立。彼女は母を連れ、遠い街へと清々した足取りで発ったのである。慎からは「先生に余計な心配をかけないように」と口止めされていたようだが、宏美はどうしても、麗奈への謝罪と共に、慎がどれだけの熱量で動いていたかを伝えたかったのだという。


――――――


『……先生、私からの話はこれで以上です。本当に、今まで申し訳ありませんでした』


「宏美さん……。いいえ、こちらこそありがとう。あなたのこれからが、幸せであることを願っているわ」


『ありがとうございます。どうか、お元気で』


「ええ……それじゃ」


麗奈は震える声で宏美を励まし、通話を終えた。受話器を置いた後も、慎が自分を守るために、別の家庭の運命さえも作り替えていた事実に、麗奈はただ呆然とするしかなかった。


――――――


場面は変わり、遠方の街。荷解きがようやく終わったばかりの自宅で、麗奈への連絡を終えた宏美は大きく一息ついた。


「これで……本当に終わったのね」


窓の外には、見慣れないが、どこか優しい夜景が広がっている。


(……ありがとう、久遠くん。あなたがいなければ、私は今もあの地獄で苦しんでいた)


心の中で改めて、あの底知れない後輩に感謝を捧げる。その時、奥のキッチンから明るい声が響いた。


「宏美、ご飯できたわよー」


「うん、今行くね、お母さん」


宏美は晴れやかな顔で立ち上がり、かつては想像もできなかった、穏やかな食卓へと向かっていった。

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