裏切り者
学園祭の喧騒が去り、夕闇が校舎を包み込む頃、一年A組の教室では後片付けを終えた生徒たちによる、ささやかな打ち上げパーティーが開かれていた。ジュースや菓子が並ぶ中、その中心にあるのは、やはり慎が淹れる珈琲だった。
「あー……染みる。やっぱりこれ、美味すぎるわ」
「本当。明日から家やコンビニの珈琲が飲めなくなったらどうしてくれるのよ」
クラスメイトたちの冗談交じりの賞賛を、慎は「光栄だ」と短く受け流し、手際よく最後の一杯を麗奈の前に置いた。
「先生も、お疲れ様でした」
「……ありがとう、久遠くん」
麗奈は温かいカップを両手で包み込み、その香りを深く吸い込んだ。芳子からの執拗な脅迫、そして倉庫での一幕。それらが嘘であったかのように、教室内には穏やかな時間が流れている。しかし、麗奈の胸中には、一つの大きな疑問が残っていた。
(やっぱり、わからない……。彼は一体いつから、私が脅されていることに気づいていたのかしら)
あの倉庫の場面、慎はあまりにも完璧なタイミングで現れた。まるで最初から何が起きるのかを知っていたかのように。考えてみれば、芳子の脅迫が始まる前から自分を気にかけてくれていた。自分を助けたのは、すべてを察した上での行動だったのではないかと……。
(私……教師なのに、生徒に助けられちゃったのね)
麗奈は珈琲を口に運び、その自嘲気味な微笑を飲み込んだ。彼という少年の底知れなさに畏怖を感じると同時に、言いようのない頼もしさを覚えていた。
――――――
一方、その頃。織田川芳子は、自室で足元に散らばる高級ブランドの紙袋やクッションを睨みつけていた。学園祭で慎に無様に敗北した屈辱が、彼女を苛んでいる。
「何よ……何なのよ、あいつ!!」
ひとしきり暴れ、喉が枯れるまで毒づいた後、ようやく頭が冷えてきた彼女は、ある決定的な違和感に突き当たった。
「おかしいわ……どう考えても、あそこで久遠が出てくるのは早すぎる。まるで、私が佳山をあそこに呼び出すことを知っていたみたいに……」
慎は、芳子が麗奈を強請り始めたその言動のすべてを録音していた。そのおかげで、彼女が切り札としていた「捏造写真」は、強要罪の証拠という、自分を縛る鎖へと変貌してしまったのである。さらに慎が口にした言葉。警察の解析能力、刑事事件としての立証、そして織田川家が受ける社会的ダメージ。それらはすべて、感情論ではない「現実的な法の論理」に基づいた宣告だった。
(少なくとも、佳山があいつに相談していた様子はなかった。あの女の性格なら、自分の生徒を巻き込もうとするはずがない……)
ならば、慎はどこから情報を得ていたのか。芳子の脳裏に、一つの不快な可能性が浮かび上がる。
「まさか……。身内に、私を裏切った奴がいるの?」
その疑念は、暗い部屋の中で毒霧のように広がり、彼女の心を侵食していった。
――――――
その日の夜十時頃。慎は市街地の外れにある、東雲宏美の自宅マンションの前に立っていた。連絡を受けた宏美が外へ出てきて、慎の元へ歩み寄る。その表情は、芳子の前で見せていた従順な取り巻きのそれとは全く異なり、鋭く、どこか切羽詰まった熱を帯びていた。
「これまでのご協力を感謝します、東雲先輩。……約束の物です。ご確認ください」
慎が差し出した封筒を、宏美は震える手で受け取った。その中身を見た宏美の口元に、一瞬だけ高揚感のある笑みが浮かぶ。しかし、彼女はすぐに自分を律するように表情を引き締め、慎を真っ直ぐに見つめた。
「あの……久遠くん、これで終わりで……本当にいいの? 私、大したことはできなかったわ。あんなスパイの真似事程度で……。この見返りは、あなたの労力と釣り合っていないんじゃ……あまりに大きすぎるわ」
「気にしないでください。十分ですよ」
慎は淡々と、けれど拒絶ではない温度で応じた。
「これ以上長引けば、あなたのリスクが大きくなる。織田川先輩にあなたの不自然な動きを悟られれば、次はあなたが標的になるかもしれない。……彼女を欺いての活動は、もう限界です。あなたはそれを使って、お母さんと今後の幸せを…自由を手に入れてください」
「久遠くん、あなた……」
「あの最低な父親に気づかれる前に。早く」
慎の言葉に、宏美は小さく息を呑み、力強く頷いた。
「……っ、ありがとう」
それだけを言い残し、彼女はマンションへと戻っていった。
――――――
数週間後。学園祭の興奮が完全に収まり、中間試験を控えた平穏な校内に、一つの衝撃的なニュースが駆け巡った。
「宏美が、転校する……?」
「は、はい…私もびっくりしました……」
休み明けの月曜日の教室で、芳子は取り巻きからその知らせを聞き、耳を疑った。何でも宏美の東雲家で、家庭を顧みない父親の看過できない過失が発覚し、離婚調停が成立。宏美は母親と共に、父親の干渉が及ばない遠方の地へと旅立ったのである。
「宏美が?なんで!?あいつ、私に一言も……!」
芳子は机を叩き、苛立ちを露わにした。しかし、彼女がどれだけ騒ごうとも、宏美が戻ってくることはなかった。




