珈琲
翌日、芳子からの要求は意外なほど静かなものだった。
「校内で私を見かけても一切無視すること」
そんな拍子抜けするような指示だったが、それが麗奈をさらなる憤怒の底に沈めた。
(別に、私だってあなたなんかに声をかけたくてかけていたわけじゃないわよ……!)
廊下ですれ違う際、勝ち誇ったような薄笑いを浮かべて通り過ぎる芳子の背中に、麗奈は内心で激しい毒を吐く。あまりにも普段の態度と素行が目に余るからこそ、教師として、大人として注意をしてきたのだ。それをわざわざ脅迫してまで黙らせるその精神構造が、麗奈には到底理解できなかった。
「どこまでも自分が正しくて、相手が間違っていると思い込んでいるのね。それであんな卑劣な真似をするなんて……どれだけ甘やかされて育ったら、あんなに自分勝手になれるのかしら」
麗奈は腸が煮えくりかえる思いだった。自分の実家の両親は確かに独善的で支配的だが、良くも悪くも厳格に育てられてきた。対して、織田川家は取り返しがつかないレベルで子育てに失敗したに違いない。今は慎を巻き込むわけにいかないという一心で指示に従っているが、怒りと屈辱に震える拳は、爪が食い込むほど強く握られていた。
やがて、校内は学園祭の準備期間へと突入した。麗奈は芳子との一件を心の奥底に押し込み、クラスの活動に集中しようと努める。一年A組の出し物は、手軽に立ち寄れる「カフェ」に決まった。女子はメイド服を着て接客する事になっている。
「佳山先生が看板娘ならぬ看板教師でいてくれれば、客なんていくらでも来るって!」
「そうそう、先生のメイド服姿とか見られたら最高なんだけどな!」
「いけね、想像したら鼻血が……」
「ティッシュ要るか、田中?」
「おいおい…『本物』を現実に見たらお前はどうなっちまうんだよ」
「下品よ、あんた達……」
「本当に男の人って……」
男子生徒たちの不謹慎な盛り上がりに、女子たちは冷ややかな視線を送ってドン引きしていたが、他にこれといった妙案も出なかったため、結局その方向で話がまとまった。
「もう……。メイド服なんて着ないわよ?」
「え~、惜しいなぁ……」
「ちょっと、田中くん。セクハラになるわよ?」
「ふふ…。でも、みんなが頑張るなら、私も精一杯お手伝いさせてもらうわね」
麗奈は苦笑しつつも、生徒たちの自主性を尊重して力添えを約束した。クラスが活気に包める中、最後列の席で一人、久遠慎だけが何かを深く考え込んでいるようだった。
麗奈はその横顔を盗み見ながら、迷いに暮れる。
(久遠くんに打ち明けるべきかしら……?でも、彼の過去の行動力を考えると……私は助かるかもしれないけれど、その代わりに何かとんでもない事態を招いてしまう気がする……)
彼の持つ『力』は、一度発動すれば誰にも止められないかもしれない。その矛先が芳子に向いた時、一体何が起きるのか……。麗奈は芳子の脅迫とは別の大きな不安を抱え始めていた。
準備が進む中、当日に出す珈琲の試作が始まった。しかし、慣れない手つきの生徒たちが淹れた珈琲は、どれも苦すぎたり薄すぎたりと、お世辞にも美味しいとは言えなかった。
駄目出しがしばらく続いたが…
「……先生、これを。飲んでみてください」
「え?これ……久遠くんが……?」
不意に、慎が一杯のカップを麗奈に差し出した。
「なんだか少しお疲れになっている様に見えます。味見のついでに、一息ついてください」
「あ、ありがとう……貰うわね」
戸惑いながらも、麗奈はその珈琲を口にした。その瞬間、深い香りと雑味のない柔らかなコクが口いっぱいに広がり、麗奈の目は驚きに大きく見開かれた。
「えっ……何これ……凄く美味しい……」
他の生徒たちも次々と慎の珈琲を口にする。
「すげぇ、なんだこれ! 全然違うぞ!」
「嘘でしょ、久遠。あんたプロ並みじゃない」
「お前、今日から店長名乗っていいぞ!」
「おう、久遠店長だ! 久遠店長!!」
「はは……止めてくれ、恥ずかしい」
珍しく照れた様子を見せる慎だが、あまりのクオリティに、珈琲担当は満場一致で慎に決まった。
賑わう教室の片隅で、慎は片付けをしながら、隣に立った麗奈にだけ聞こえるような小さな声で告げた。
「先生」
「…?どうしたの久遠くん?」
「……織田川先輩の幼稚な強請りに、いつまでも従う必要はありません。自分一人で抱え込まないでください」
麗奈の心臓が、ドクリと大きく跳ねた。全身の血が引いていくような感覚。
「あ、貴方……何で……!?」
「すみません、戻りますね」
質問には答えず、慎は麗奈から離れた。
(どうして……? 誰にも言っていないのに、いつ、どこで気付かれたの!?)
動揺を隠せず、言葉も出ない麗奈を置き去りにして、慎はいつもの穏やかな表情で他の生徒たちの輪に戻っていった。
「……どうしよう……」
これから起こるであろう嵐を予感し、麗奈はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
――――――
学園祭前夜。自室のベッドに身を沈め、麗奈は暗い天井を見つめたまま動けずにいた。
(守りたかったのに。巻き込みたくなかったのに……)
彼に打ち明けるべきか迷っていたあの時、慎はすでに麗奈の現状を把握していたのだ。一体、いつの間に? 自分よりずっと年下の教え子。しかし、その内側に潜むのは、理不尽を粉砕し、学校組織一つを葬り去った「本物の怪物」だ。芳子のような、財力や親の威光を傘に着ただけの我儘なお嬢様など、彼の手にかかればひとたまりもないだろう。止めようかとも思ったが、そんなことをしたら余計に話が拗れてしまうに違いない。
(きっと私は助かるわ、中学で彼が友人を助けた時のように。でも……)
かつての×××中学のように、凄まじい惨状が広がるのではないか。麗奈の不安はすでに芳子の強請りから、慎の出方へと変わっていた。
「神様……どうか、どうか平和に事が終わりますように……」
祈りの言葉が、虚しく夜の空気に溶けていった。
――――――
そして迎えた学園祭当日。
一年A組のカフェは、朝から異常なほどの盛況を見せていた。メイド服になった女子達の「いらっしゃいませ」の営業スマイルと、担任の麗奈の教師とは思えぬ美貌と気品溢れる立ち振る舞いが客を惹きつけ、何より慎の淹れる珈琲が、飲んだ者の足を止めさせた。
「本当に美味しいわね……」
「一年生が淹れたなんて信じられない」
そんな称賛の声が飛び交い、注文がひっきりなしに続く。A組の生徒たちは、想定外の忙しさに悲鳴を上げながらも、充実した顔で動き回っていた。
そんな喧騒の最中だった。
麗奈のスマートフォンの画面が、短く震えた。差出人は、織田川芳子。
『今すぐ、旧校舎裏の倉庫まで来なさい。逃げたら……分かってるわね?』
麗奈の頬が、一瞬で凍りついたように強張った。行かないという選択肢はない。拒絶すれば、捏造された「密会写真」がネットの荒波に投げ込まれる。その恐怖はまだ強かった。しかし、今一番怖いのは……。
ふと、教卓の横で淡々とカップを洗う慎の背中に目をやった。
(久遠くん……)
慎は振り返らなかった。だが、その背中からは、すべてを承知しているという静かな威圧感が漂っている。麗奈は胃を雑巾のように絞られるような痛みを感じながら、重い足取りで教室を後にした。
平和な学園祭の裏側で、これから何が起きるのか。麗奈の心は、不安と恐怖に支配されていた。
一方、麗奈の気配が教室から完全に消えたのを確認すると、慎は手にしていた布巾を静かに置いた。
「悪い、そろそろ休憩する。少しの間だけど、後は頼めるか田中?」
「え、あ、ああ! 分かった、久遠店長。任せろ!」
クラスメイトの田中の威勢の良い返事を聞き流しながら、慎はエプロンを外した。その瞳には、すでに穏やかな「店長」の面影はなかった。




