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恥知らず

二学期の始まりと共に、校内には真新しい活気と、それとは対照的な湿り気を帯びた不穏な空気が混在していた。


夏休み期間中に発生した「痴漢偽装事件」は、麗奈から学校側へ詳細に報告されていた。成績優秀な一年生の久遠慎が、現行犯の女子高生を制圧し、無実の男性を救ったという事実に、職員室はにわかに騒がしくなった。


「全く、あちらの学校は大変らしいですよ。馬鹿げた『正義のヒロインごっこ』のために、将来ある学生が二人も人生を棒に振ったんですから。教育委員会を通じた通達では、主犯の女子生徒と共犯の男子生徒、両名の退学処分は免れないとのことですが……まぁ、当然ですな」


昼休みの職員室で、学年主任が吐き捨てるように言った。虚偽告訴罪や威力業務妨害罪は大罪であり、決して「若気の至り」で済まされるような軽いものではない。


「とんでもなく馬鹿な学生がいたものだ。我々も気を引き締めないと…」


「ええ、他人事ではありませんよ。事が起きれば、教員の指導不足と叩かれるのはこちらですからね」


年配の教師たちが深刻な顔で頷き合う中、一人の教諭が感心したように慎の名前を出した。


「それにしても久遠くんは大したものだ。成績もさることながら、この冷静な判断力……。指導要録にあった×××中学からの評価は、誇張無しどころか、むしろ控えめだったようですね」


「ええ、冷静沈着で行動力が大人顔負け、おまけに恐ろしく度胸がある」


その称賛の声を、麗奈は複雑な心境で聞いていた。ここにいる教師たちの誰も、慎が中学時代に、その「冷静な判断力」をもって一校を事実上の壊滅に追い込んだ過去を知らない。個人情報保護法や、未成年者の更生に関わる秘匿義務を考えれば、×××中学での事件の詳細が一般の教職員にまで開示されないのは当然の処置であった。


(もし、ここにいる先生方にあの真実を知られたら……一体どんな反応をするのかしら)


麗奈は密かに慎を案じた。彼の動機は被害を受けていた友を救うための立派なものであり、非は間違いなく、凄惨ないじめに加担した生徒達や隠蔽を図った学校側にあった。しかし、彼が振るった「暴力」としての正論は、あまりに凄まじい結果をもたらした。教育者の中には、その「隙のなさ」を恐れ、彼を異分子として排除しようとする者も現れるかもしれない。


だが、麗奈の心配を余所に、当の慎は相変わらずだった。廊下ですれ違えば礼儀正しく会釈をし、教室では静かに学業に励む。そんな泰然自若とした佇まいは、むしろ周囲の浮ついた空気を浄化するかのようでもあった。


「……問題と言えば、二年生の織田川芳子さんですかね?」


ふいに聞こえてきた同僚の声に、麗奈は思考を引き戻された。


「ええ、いくら織田川家の娘とは言え、普段の言動が目に余る。下級生への高圧的な態度も報告されていますし、教師に対しても不遜だ。あの傲慢さがいつか、取り返しのつかない馬鹿なことをしでかさなければいいんですが……」


芳子の名前を聞いて、麗奈の胸の奥には不快な澱が溜まっていく。一学期に、慎に絡んで返り討ちにされた際の彼女の形相を思い出すと、嫌な予感が拭えなかった。


――――――


二学期が始まってから、麗奈と慎が会話をする機会は以前より増えていた。夏休みの事件を共有したことで、ある種の信頼のようなものが芽生え始めていたのだ。


放課後の教室で、提出物を確認していた麗奈の元に、慎がひょいと顔を出した。


「先生、お疲れ様です。少し根を詰めすぎじゃないですか? 肩に力が入っていますよ」


「あら、久遠くん……」


麗奈は微笑んだが、ふと、最近の彼の様子に感じていた疑問を口にしてみた。慎はどこか、以前よりも麗奈の身辺を警戒しているような節があったからだ。


「ねえ、久遠くん。最近、私のことをやけに気にかけてくれるけど、どうしたの? 」


「あ、わかります?」


麗奈が小首を傾げて尋ねると、慎はわざとらしく肩をすくめ、少年らしい軽口を叩いた。


「そりゃ俺も男ですから、先生みたいな綺麗な女性に気に入られたいってだけですよ。下心ってやつです」


「な……! も、もう、先生をからかわないで。あなたはまだ子供でしょう?」


顔を林檎のように赤らめる麗奈を見て、慎は楽しそうに目を細めたが、すぐにその表情から冗談の色を消した。


「あはは……すみません。でも実際、気を付けた方がよいですよ?最近は良くないことが本当に多いですから…」


その言葉には、本気の危惧が籠もっていた。確かに、電車でのスリ未遂や痴漢偽装事件など、麗奈の身近で不穏な出来事が立て続けに起きている。最近物騒なのは否定できないのだが、それでも教師が教え子にこれほど気遣われるのは、どこか過保護に感じられた。


「変ね、彼……距離が近くなったのはいいんだけど、どうしたのかしら?」


慎が教室を去った後、麗奈は一人呟いた。彼は年下の教え子であるはずなのに、会話をしていると、時折、成熟した年上の男性を相手にしているような錯覚に陥る事があるのだ。守られているような、見透かされているような、そんな不思議な安心感。


「本当に、不思議な子……」


…しかし、その穏やかな平穏は長くは続かなかった。


――――――


数日後の放課後。人気のない旧校舎側の渡り廊下で、麗奈は待ち構えていた織田川芳子と、東雲宏美ら数人の取り巻きたちに囲まれた。


「……? 織田川さん、何か用なの? もう下校時刻を過ぎているわよ」


不穏な気配を察し、麗奈は身を硬くして警戒した。


「佳山先生。お忙しいところ申し訳ないけれど、少しお話があるの。先生の『将来』に関わる、とっても大事なお話がね」


芳子の手には、一台のスマートフォンが握られていた。彼女は勝ち誇ったような醜い笑みを浮かべると、その画面を麗奈の目の前に突きつけた。


「こ、これは……!?」


麗奈は絶句した。そこに映し出されていたのは、あの夏の夜、警察署から出てきた自分と慎の姿だった。しかし、その画像は悪意を持って巧妙に加工されており、隣にいたはずの施設長・真田の姿が跡形もなく消されていた。暗がりの街灯の下、夜の街で寄り添うように歩く女教師と男子生徒——初見の人間が見れば、疑いようのない「不適切な密会」の証拠写真のように見えてしまう画像になっている。


「あなた……あの時いたの!?冗談じゃないわ、あそこには施設長の男性もいた筈よ?こんな、捏造写真を…… 恥を知りなさい!!」


麗奈は激昂した。教師としてのプライド、そして何より、自分の生徒である慎をスキャンダルの種として汚そうとする芳子の卑劣な手口が許せなかった。しかし、芳子は麗奈の怒りを軽く流した。


「捏造? 心外だわ。私はただ、見えたまま、感じたままを撮っただけ。これを校長先生や教育委員会が見たら、どう判断されるかしらね?『美人教師が、教え子と夜の密会』。……ゴシップ誌が喜ぶ見出しだわ。それに、もちろんネットに流せば一瞬で世界中に広まるでしょうね」


「あ、あなたって人は……!自分が何をしているのか分かっているの!?」


「別に、あなたの成績の付け方なんて今更どうでもいいのよ。ただ、これから私が指示を出すことに、あなたは一切逆らえなくなる……そういうこと。立場を理解して、私の『犬』になりなさい。そうね……」


芳子は麗奈の体を、下卑た品定めをするように視線で舐め回した。


「近いうちに、裸で校内一周とかもいいかも? 先生のその綺麗な顔と立派な体なら、男どころか同じ女も皆釘付けよ。いい見世物になるわ」


「なっ……!?」


下劣で、あまりに幼稚な脅迫。しかし、その悪辣さに麗奈は声を裏返らせ、反射的に自分の胸を腕で隠すように抱きしめる仕草を見せた。顔は耳まで真っ赤に染まり、羞恥と憤怒で全身が激しく震えている。


その無垢な反応を見て、芳子は馬鹿にする様に嗤った。


「なんてね。さすがに人目がある所でそんな大胆を通り越した滅茶苦茶なことはさせないわよ……と言うか、昔の罰ゲームみたいな冗談で、我ながらダサかったわね。それでそんなに反応するなんて……先生も初心うぶだわ」


芳子は飽きたように背を向け、怯える麗奈を残して、取り巻きを引き連れて悠然と去っていった。


「決まったら改めて連絡するわ、佳山先生。……忠実なワンちゃんになる準備、しておいてね」


残された麗奈は、冷たい手すりに縋り付くようにしてその場にへたり込んだ。目に涙を浮かべ、屈辱と恐怖に唇を噛む。


「どうしたら……それに、このままじゃ、久遠くんまで巻き込まれてしまう……」


自分の身に降りかかる不名誉よりも、彼の未来が奪われることを恐れていた。


――――――


「………」


——この時の去り際、芳子の後ろに従っていた東雲宏美が、麗奈に何やら意味深な一瞥をした事に、誰も気付いていなかった。

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