手加減
菊池五郎は燃えている。
その目は眼前の敵を倒すことしか考えていない。その時、敵は彼の世界のすべてであった。なんて巨大な一人の人間。
敵はアシナガグモのような体躯をゆらりゆらりと揺らし、ヘッドギアに囲まれた褐色の顔に、笑顔という名のを余裕を湛えている。
今日こそ勝つ! コイツに勝つんだ! そう強く己に念じながら、前へ出た。
「これで49連敗か……」
リングの上に背中から倒れ、五郎はソムに聞こえるように、おおきな声を出した。それはあてつけというよりは、強者を讚える歌のように、ジムの広い室内に響いた。
「でも……どんどんよくなってるよ」
ソムが五郎に手を差し出し、その垂れ目を優しく笑わせる。
「才能ある。もっと努力すればきっといいところまで行けるよ」
「やっぱりアレなのかな……。人種ならではの血ってやつかな。黒人にグルーヴ感で敵わないように、タイ人の血を引くおまえに、純血日本人の俺では絶対に敵わないのかな」
「そんなことない。日本人のムエタイ世界チャンピオンなんていっぱいいるだろ。五郎も目指せよ。きっと獲れる」
ソムに手を貸してもらい、立ち上がりながら、五郎の目の中には消えない炎が揺らめいている。
確かに入会したての頃、彼はソムに触れることもできなかった。同期としてジムに入ったのに、初めからその才能の差は歴然としていた。
しかし最近では、互角に打ち合えるようになっているように思えるのだ。
「もうすぐおまえのプロデビューだ。それまでに、おまえに絶対に一度でも勝ってみせる」
ソムは優しく笑った。
「やってみせろよ。おまえならきっとやれる」
壁にポスターが貼ってある。
『ムエタイ世界王座決定戦! 吉高吉成 vs ウォー・ワンチャイ』と大きく書かれた文字と写真の下に、おまけのように『田中恵太郎 vs ソム・オギワラ』と彼のデビュー戦が告知されている。
闘いの日付は一ヶ月後だ。
ジムからの帰り、五郎とソムはよく一緒にラーメン屋に入った。
「もうぼちぼちラーメンは食えなくなるのか?」
「ああ。減量が始まるからな」
カウンター席で、肩を並べてラーメンを啜りながら、五郎は自分より拳ひとつぶん背の高いソムの顔を横目で見上げた。
ソムは日本国籍の日本人だが半分は母親であるタイ人の血を引いている。精悍な褐色の肌の中の穏やかな目はいつも笑っている。
五郎はソムに聞いた。
「プロになっても友達でいてくれるか?」
ソムはラーメンを箸で掬いながら、笑った。
「当たり前だろ。ずっと一緒にラーメン食うぞ。ってか、なんでそんなこと聞くんだよ?」
「おまえが俺なんて置いてけぼりにして、ずっと遠いところに行っちゃう気がしてな」
「行かねーよ。言っとくけど、俺の同期のライバルはずっと永遠におまえだからな」
そう言ってソムが拳を差し出してきた。五郎がそこに拳を重ねる。
お世辞でも嬉しかった。
五郎はずっとムエタイを続けようと思った。
「付き合ってくれてありがとな、ソム」
気さくに礼を述べながら、五郎がヘッドギアを被る。
「これが俺たちの最終戦だ。最後に絶対に、おまえに勝ってみせる」
「おまえならできるよ」
ソムもヘッドギアをつけながら、柔らかく笑った。
「今日は負けるかもな」
そんな言葉を聞きながら、五郎にはわかっている。
ソムは天才だ。自分に追いつけるわけはない。
しかしそんな天才と同門として練習試合をしてきたことは、翻って彼の自信となっていた。ソムには一度も勝ったことはないが、他の者になら勝てる。むしろアマチュアの試合では、五郎は真ん中より上ぐらいの戦績を収めていた。
「じゃあ……行くぞっ!」
五郎の掛け声とともにグローブを嵌めた拳をぶつけ合うと、その非公式試合は始まった。彼らの間では公式試合の50戦目だった。
おかしい……と、すぐに五郎は感じはじめていた。
ソムの動きが、のろい。
足を繰り出す時に、あからさまな隙がある。
手加減されている──そう確信した。
「うわぅっ!」
叫びながら、ソムが足を滑らせ背中からダウンした。
「ハハハ……俺の負けだ。おまえのキックがかすってダウンだ」
白々しいその言葉を、五郎はリング上に立ったまま、愕然として聞き流し、しかしそれは一生彼の頭の中に残ることになった。
「菊池五郎の名を日本中に轟かせろ。俺を倒したおまえならできる」
そう言って笑うソムの優しい顔に、五郎は背を向けた。スマートフォンの電話帳からソムの名前を消し、二度と会うことはなかった。
菊池五郎はムエタイをやめた。