1日
1
リーズフェルド10歳の朝は早い。というか、とても早い。まだ夜も明けきらない時刻。小鳥すらもまだ寝ている時間に、リーズフェルドは目覚ましもなしに目が覚める。
「うーーッ」
身を起こして大きく伸びをして、脳に酸素を行きわたらせると、勢いよくベッドから飛び降りる。
「よしッ」
まずは歯を磨く。そして、手早く顔を洗い、部屋に用意しておいたバナナとリンゴとオレンジを頬張る。この時は軽めにしか食べない。
次にやることはストレッチだ。足を180度に開いて、上半身を床にべちゃっとつける。次に体を右に捻り、数秒維持。左も同様。
その後は体を横に傾けたり、後ろの反らせたりと、時間をかけて入念なストレッチを行う。そうこうしている内に空が白みだしてくるので、着替えて外に出る。
メアリーに頼んで用意してもらった麻製のシャツとズボン。リーズフェルドとしては普段から、この格好でいたいのだが、両親がそれを許さない。この格好で日中屋敷の中をウロウロしていると、色々と小言を言われてしまうのだ。
「さてと、行くか」
リーズフェルドはそう呟くと軽快に走り始めた。ランニングのコースはいつものとおり、ベゼルリンクの屋敷を出て、街道を走る。距離にして約10km。リーズフェルドは、その距離を30分ほどで走る。かなり驚異的なペースなのだが、当のリーズフェルドからしてみれば準備運動でしかない。
屋敷の敷地に戻ってくると、すぐに格闘の型の練習をする。一通り型をやった後は、架空の敵を想定したシャドー。非常に高度に練り上げられたイメージにより、実戦さながらのシャドーができる。これは、リーズフェルドが前世から長年積み上げてきた鍛錬の賜物でもある。
リーズフェルドは、こうしたトレーニングを毎日続けていた。そう、記憶を取り戻した5年前から毎日だ。
(おかしいな……。全然筋肉が付いてないぞ?)
リーズフェルドが上腕二頭筋を確かめる。細く柔らかい二の腕がそこにはある。
毎日毎日トレーニングに励んでいるのだが、体つきは全く変わらない。腕だけでなく、足も腹筋も肩も背中も10歳の少女の体つきだ。むしろ、女性らしい曲線がでてきており、全体的に細いくらいだ。
(代謝が良すぎるってわけでもないよな……? でも、筋肉がついているようには見えなくても、筋力は確実についてるんだよなあ……)
リーズフェルドにはそこが不思議だった。見た目通りの少女の細腕なら、大き目の石を持ち上げることも不可能だろうが、自重の数倍はあろうかという岩も、軽々と持ち上げることができる。見た目と実際の筋力が大きく乖離していることは確実だった。
(できればゴリゴリのマッチョになりたいところだが……、実際には筋力がついてるみたいだから、見た目のことは仕方ないと諦めるか……)
見た目が可憐な少女であることと、実際の鍛えられた筋力に違和感があるが、それを言ってどうにかなるとも思えない。
それにリーズフェルドには、見た目よりも重要なことがある。
(破滅の運命……。それに対抗できるだけの強さを……)
手で汗を拭いながら、リーズフェルドは心の中で呟いた。
もう日は完全に昇っている。屋敷で働く人たちも起き始めて、1日の仕事を始めている頃だろう。
(破滅の運命……。一番可能性が高いのは戦争だろうな……。家は軍関係の家だから、戦争になれば前線に立つことになるし、負けたら家ごと潰されるだろうな……。たぶん、俺はそれで死ぬ運命にあるんだろう……)
ハニエルから聞かされていた破滅の運命。破滅としか聞かされていないため、リーズフェルドにはそれがどんな運命なのか分からない。
(二番目に可能性があるのは、裏切りとか謀略とか、まあ、そんな裏の事情で暗殺されるってところだな……。元は悪役らしいから、貴族同士の争いで殺されるっていうオチも十分考えられるか……)
転生した先の世界は、中世のヨーロッパくらいの時代によく似ている。地球とは別の世界らしいのだが、よく似ているところが多いため、リーズフェルドは破滅の運命というのを、戦争若しくは他の貴族の裏切りや裏の計画による暗殺ではないかと推測していた。
(どっちにしても、俺がやることは同じだ。鍛えて、強くなって、迎え撃つ!)
どんな破滅が訪れるのかは分からない。だったら、考える必要はない。考えても分からないのだから。それならやることは一つだけ。己を鍛えて、どんな破滅がやってきても返り討ちにする。それだけだった。
2
バルド王国の貴族の子供は基本的に学校に通う者が多い。集団で学問やマナーを学ぶ。それはリーズフェルドが荒神 尊として生きていた世界と同じだ。だが、この世界には決定的に違うところがあった。それが魔法である。
生物が持っているエネルギーの一種である魔力を使い、地水火風の自然現象を顕現したり、魔法による疑似生命体を生み出したり、怪我の治療や解毒など、用途は多岐に渡る。
だが、魔法の扱いは容易ではなく、専門の教育を受けないとまず使用することができない。バルド王国の初等教育では魔法の基礎を教わることになる。
当然、リーズフェルドも魔法の初等教育を受けることになるのだが、10歳のリーズフェルドは現時点で学校には通っていなかった。
理由としてはいくつかある。まず一つ目に、上級貴族であるベゼルリンク家の令嬢がほかの中級、下級貴族の子息と一緒に教育を受けるようなことはせず、専属の家庭教師をつけていること。これは上級貴族では一般的なことである。ただ、すべての上級貴族が専属の家庭教師をつけているわけではなく、他の貴族と同様に学校に通う者も多い。初等教育に関しては、どちらでも構わない。
そして、二つ目の理由。リーズフェルドを貴族社会の目に触れるような場に送り出すわけにはいかないこと。
どちらかといえば、こっちの理由が本音だ。貴族としての振る舞いが何一つできていないリーズフェルドを、このまま学校に通わせでもしたら、絶対に問題を起こす。
王族と婚約しているベゼルリンク家の令嬢の中身が、猛獣であることが発覚してはならないのだ。
そのため、現在、ベゼルリンク家の長女は、深紅の髪と綺麗な瞳を持った、女神の生まれ変わりのような美少女である、という噂だけが先行している状態。
そして、今日は午前から魔法の基礎学習のため、専門の家庭教師がベゼルリンクの屋敷に招かれていた。
「おはようございます。リーズフェルド様、ユリウス様、ミリアリア様」
ベゼルリンク家にある一室。主に学習のために使われる部屋には、30歳くらいの眼鏡の男性と机に座る3人の子供がいた。
子供のうち一人はリーズフェルド。そして残りの二人は、1歳半下の弟ユリウスと3歳年下の妹ミリアリアだ。
「はよっす」
「おはようございます。ビルフォード先生」
適当に挨拶するリーズフェルドと違い、弟のユリウスは礼儀正しく挨拶をした。赤茶色のストレートのオカッパ頭をした可愛らしい顔の少年だ。
「おはようございます。ビルフォード先生」
兄のユリウスに倣って、妹のミリアリアが舌足らずな口調で挨拶をした。姉のリーズフェルドと同じく赤い髪をした少女だ。今はツインテールに髪を結んでいる。愛らしいが澄ました顔をしているため、心情が読みにくいところがあった。
「さて、今日はミリアリア様も魔法の授業を受けるということで、一度基本に立ち戻って、基礎から学習してみましょう」
ビルフォードと呼ばれた魔法教師は、優しい笑顔を向けながら今日の予定を説明する。
「ええー、今更基礎かよ……」
リーズフェルドがあからさまに不平を漏らした。頭の後ろで手を組みながら、椅子を後ろに傾けている。
実のところリーズフェルドは基本的な魔法の使い方をすでに教わっていた。年長者でもあるため、弟や妹よりも先に学んでいたのだ。そのため、今更もう一度基礎をやるというのは面倒に感じてしまう。
「リーズフェルド様、基礎はとても大事ですよ。一度基礎をやったからといって、疎かにしていいものではございません」
姿勢の悪いリーズフェルドに内心イラつきながらも、ビルフォードは宥めるようにして言う。
「姉上、姿勢を正して。姿勢を!」
ビルフォードの口調に、少し棘があるように感じたユリウスが、すかさずリーズフェルドに注意を入れる。
「分かってるよ――まあ、基礎は確かに大事だな。俺も毎日基礎トレはしてるからな。よし、今日は基礎をしっかりやるとするか!」
ユリウスに言われて、ゆっくりと姿勢を戻したリーズフェルド。格闘技に限らずスポーツでも基礎は大事だ。基礎ができていなければ、その先は何もできない。魔法も同じであると考えれば納得がいく。
「おねえさま、私もがんばる!」
隣に座るミリアリアもやる気があるようで、静かながらも熱意が伝ってきた。
「よし、良い意気込みだ、ミリアリア! お前ならすぐに魔法を使えるようになるぞ!」
リーズフェルドはミリアリアの頭を撫でながらニカッと笑う。
「それでは、まずは魔法がどんなものか、実際にお見せしながら説明をしましょうか」
「おっ!? 今日は外でやるのか?」
リーズフェルドが何か期待をしているような目で、ビルフォードを見やる。
「はい、今日は外での授業です。実際に魔法を見ていただくので、外の方がいいですからね。それでは、今から移動をしましょう」
「よっしゃッ!」
部屋での座学より、外での実地学習の方がリーズフェルドにとっては楽しい。外での授業と聞いて、思わずガッツポーズをする。
「姉上、あまりはしゃぎすぎないでくださいよ。今日はミリアリアのために基礎をやるんですからね」
反面、ユリウスにとっては憂鬱だ。室内での座学であれば姉はまだ大人しくしている。だが、野に放ってしまうと、何をしでかすか分かったものではない。
ベゼルリンク家では父と母と弟のユリウスが、猛獣リーズフェルドを繋ぎ止める鎖の役割を担っているのだが、鎖の役割を果たすことができたのは、ほんの数回だけ。これからの授業で何も起こらないことを祈ることしかできないのが、ユリウスにとっては歯がゆいことだった。