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破滅の足音 6

結局、ソフィアの掃除は一晩かけても終わらなかった。


びしょ濡れの床は何度も雑巾で拭いては絞ってを繰り返し、家具も一通り拭いたことで何とかなったが、問題はベッドだ。大量の水を含んだ毛布やマットは一晩では乾かない。


それともう一つ問題になったのが、割れた窓。学生寮の管理に話をし、業者を手配してもらうことになったが、今日中にどうにかできるわけではない。


ソフィアの部屋の窓を壊して、水浸しにした犯人については、捜索するという話になったが、平民出身者に対して、どこまで親身になってくれるかは疑問が残る。


犯人が貴族だと分かった時点で、うやむやにして終わらされるのがオチだろう。


結果として、ほとんど一睡もできなかった状態で、ソフィアは登校することとなった。


早朝、寝不足で足元が覚束ない感覚があるが、それでも足を前に進める。


(こんな姿をアルフレッド様に見せるわけには……。何とか気を取り直さないと)


アルフレッドに余計な心配をさせたくない。ソフィアはその思いだけで、気力を振り絞って、朝の校庭を進んで行く。


「――……」


そこで、微かだが悲鳴に似たような声が聞こえてきた。


(今の声……!?)


その声にソフィアが思わず振り返る。とても小さな声だが、確かに聞こえてきた。他の誰にも聞こえない、ソフィアだけにしか聞こえない声。直接心に訴えかけてくる悲痛な声。弱弱しく、今にも消えてしまいそうなか細い声。


(校舎裏からッ!)


唐突に嫌な予感がして、ソフィアが走り出した。教室とは反対方向の校舎裏へと向かって。広いワイズ学院の敷地を寝不足の体に鞭打って走る。


息を切らせながらソフィアは校舎裏へと駆け込んできた。


人気のない早朝の校舎裏。半分近く雑木林になっているような場所から、まだ声が聞こえてくる。近くまで来ているのは分かるが、さっきよりも声が小さくなっている。


「リコ! どこ? 返事をして!」


ソフィアの叫び声が木々を超えて広がる。ざわざわと枝葉が揺れる中、ソフィアの声に反応があった。


一目散に反応があった場所へと駆けていくと、落ち葉の上に横たわる小さな体を発見した。


「リコ!?」


すぐさまソフィアがリコと名付けた子猫を抱き上げるが、反応がない。


「酷い……こんなこと……」


リコの状態はボロボロだった。前にもリコが酷い怪我をしたことがあり、それを助けたことがあるが、その時よりも酷い。


血まみれ、泥だらけ、前足が曲がらない方向に曲がっている。


「お願い、リコ……返事をして……」


ソフィアが魔力を集中させて、治癒魔法を発動させた。緑の淡い光が子猫を優しく包む。


だが、リコは微動だにしない。


「お願い……リコ……。お願いだから……」


必死で涙を堪えながらもソフィアが治癒魔法をかけ続ける。それでも、リコは動かない。


「リコぉ……」


それは最初に見た時から分かっていた。既にこと切れている。体は冷たく固まっており、目には一切の光がない。


どれだけ高度の治癒魔法を扱えたとしても、生き返らせることは不可能。治癒魔法の原理は、魔力で生命力を活性化させ、再生能力の高めるというもの。生命力そのものを失った死者を蘇らせることはできない。


ソフィアが聞いたのは、リコの魂の声だった。最後に一目会いたいと願った悲痛の声だった。


「やだぁ、本当にいたわ」


そこに割り込んできたのは、今一番聞きたくない声だった。


ハッとなって、ソフィアが見上げた先には、マチルダとコーデリア、ミラのいつもの三人の姿があった。


「うわぁ、何その汚いの?」


ソフィアが抱いている子猫の死骸を見て、ミラが気持ち悪そうに声を上げた。


「……ッ」


ソフィアが涙目にマチルダ達を睨んだ。怒りに震えるその目は、今にも飛び掛かりそうな気迫があった。


「ちょっと! そんな目で睨まないでくれない? 気持ち悪いんだけど!」


コーデリアが侮蔑を含んで言った。


「……あなた達が……」


「はあ? 私達が何?」


マチルダが苛立ち混じりに言い返した。


「まさか、私達がその猫を殺したとかって言わないでしょうね?」


コーデリアが続いて口を開く。


「……どうして、ここにいるんですか……?」


ソフィアは歯を食いしばりながら、何とか自制をして言葉を吐き出す。怒りで頭がどうにかなりそうだった。


「ここにいる理由なんて私達の勝手でしょ? ああ、そうそう。たまたまよ、たまたま」


ミラが悪びれもせずに適当な理由をつけた。


「……普段はこんな時間に登校しませんよね……? それもたまたまだって言うんですか……ッ?」


ギリギリのところで怒りを殺して言葉を出す。もはや限界だといってもいい。いや、もう限界は超えている。それを強靭な精神力で無理矢理抑え込んでいるに過ぎない。


「そうよ、たまたま。偶然、今日は早く来て、偶然校舎裏に来てみたい気分になっただけ」


マチルダがふざけたような態度で返事をした。まともに理由を説明する気などサラサナないと言いたげだ。


「そんな言い訳が通じるとでもッ!」


ソフィアは思わず声を荒げてしまった。相手が貴族で、自分が平民で、この後どうなるか、そんなこと考えればすぐに分かることなのだが、とうとう声を上げてしまった。


「私達じゃないって言ってるでしょッ! 私達が犯人だって言うなら、証拠を見せなさいよ!」


マチルダが語気を強めて言った。


「……ッ」


ソフィアは答えることができない。物的証拠など何もない。このタイミングで現れたということが唯一の証拠なのだが、それを言っても水掛け論にしかならない。


「ほら、証拠がないじゃないの。これだから孤児院育ちは卑しいわね。ホント、その猫みたい。ねえ、知ってる、東の国の方では、あなたみたいなのを『泥棒猫』って呼ぶらしいわよ」


マチルダが嫌味な顔で続ける。


「……泥棒猫……?」


意味が分からずソフィアが聞き返した。


「そう、泥棒猫。人のモノを横取りしようとする、薄汚い猫みたいな人間のことよ。ねえ、あなたみたいでしょ? 泥棒猫って」


「私は、人の物を横取りしようなんて思っていませんッ」


「うわッ、それ本気で言ってるの? なんて横暴なのかしら」


「だから、私はそんなことしませんッ!」


もう相手が貴族だから、自分が平民だからとかは関係なく、ソフィアは抗議の声を上げる。


「してるのよ! 自覚もないなんて、本物の泥棒猫ね」


「私が何をしたって言うんですかッ!」


「アルフレッド様に近づいてるでしょッ! 本来はね、あなたみたいな平民、ましてや孤児院育ちの人間が近づいていい方じゃないの! アルフレッド様はお優しいから、あなたみたいな薄汚い者にも話をしてくれているだけ!」


「それのどこが泥棒猫だって言うんですかッ! アルフレッド様の優しさを苛めの道具に使わないでッ!」


とうとうソフィアは苛めのことまで言及した。もうどうなっても構わない。アルフレッドのことまで出されては、我慢ができようはずがない。


「まだあなたは自分が苛められてるとか言うの? 被害者面もここまできたら、呆れを通り越してるわね」


「私が加害者だって言うんですかッ!」


「そうよ! だから、あなたはリーズフェルド様に嫌われているの! それを自覚していないから、罰を受けることになってるのよ!」


「私はリーズフェルド様に対して何もしていません!」


「しているのよ! リーズフェルド様はアルフレッド様の婚約者なの! まさかとは思うけど、知らなかったなんて言わないでしょうね?」


もう5年も前にバルド王国の王子が名門貴族のベゼルリンク家の令嬢と婚約した。そんなことはバルド王国内の貴族間では常識のようなことだ。


だが、他国の平民はどうだろうか。ましてや5年前は孤児院で生活をしていた者は。


「ェ……ッ!?」


当然、知るはずがない。子供の頃に有力貴族同士で婚約することは、貴族では常識なのだが、平民からしてみれば、誰と結婚するかなど、大人になってからの話だ。血筋など何も気にすることがない平民が子供の頃に婚約するようなことはない。ましてや孤児院の子供なら尚更だ。


「やだぁ、本当に何も知らなかったのー?」


言葉に詰まるソフィアを見ながらミラが嗤った。他国の貴族の事情を平民が知っているわけがないのは一目瞭然なのだが、大げさに反応をしてみせた。


「…………」


ソフィアは何も答えない。ただ、体温が下がっていくのが分かる。冷たく冷たく冷たく。血から暖かさが消えていく感覚。


「もしかして、アルフレッド様に優しくしてもらえたから、チャンスがあるとでも思ったのかしらぁ?」


コーデリアも声を上げて嗤う。さっきまで反抗的な態度を取っていた平民が可笑しくて仕方ない。


「…………」


だが、ソフィアは何も答えない。どんどん心が沈んでいくのが分かる。底のない沼へと、深く深く深く。


「アルフレッド様とリーズフェルド様は5年前に婚約されたのよ! お二人の仲が良いのは見ていて分かるでしょ? ああ、平民の孤児院育ちはそんなことも分からないのかしら?」


マチルダが追い打ちをかけるようにして、ソフィアを罵倒した。


「…………」


それでも、ソフィアは何も答えない。いや、答えられない。何も言葉が出てこない。頭が真っ白だ。


「ワイズ学院を卒業されたら、正式に結婚されるんじゃないかしら」


「――ッ!?」


その言葉が決定的だった。もはや誰が言った言葉なのかも分からない。


ソフィアは目を見開いて、ただ項垂れる。目の前が真っ暗になっていく。見えている物が何なのか分からなくなってくる。


「これだから孤児院――」「なんて烏滸がましい――」「卑しい身分が――」


誰かが何か言っているような気がした。だが、ソフィアにはもう何を言っているのかも分からない。ただ、ハエが耳元を飛んでいるような不快感があるだけ。


「ふんッ。行きましょう。こんな汚い人間を相手にしていたら、貴族の名前に傷がついてしまいますわ」


マチルダがそう言うと、ミラとコーデリアと共に笑いながらこの場を去っていった。


(アルフレッド様とあの女が……)


ソフィアの苛めの主犯。自ら手を汚すことなく取り巻きを使う汚い女。リコの命を奪った卑劣な人間。


(駄目だ……。ダメだ。ダメダッ!)


ソフィアはリコの遺体を強く抱きしめる。


(ゼッタイニダメダッ!)


ソフィアの心に一つの火が灯った。それはとても小さな火だ。吹けば消えてしまいそうなほどに小さい火。


ソフィアは更に強くリコを抱きしめる。


あの日、瀕死の怪我をしたリコをアルフレッドは優しくハンカチで拭いてやった。王族であり、高い身分にあるにも関わらず、どこの猫とも知らない野良猫に対しても優しかった。


不思議な人だと思った。ソフィアが抱いていた王族や貴族の印象とはまるで違って見えた。だから、気になった。その人のことが知りたいと思った。その人の優しさに触れたいと思った。その人を笑顔にしたいと思った。


(あの女と結婚したら、アルフレッド様が不幸になる!)


その人を守りたいと思った。強く、強く、強く、その人を守りたいと思った。


腕の中で息絶えている猫とアルフレッドの姿が重なる。


(それだけは絶対に駄目だッ!)


心に灯った火が雄たけびを上げる。小さな火が爆ぜるように暴れだす。心に点いた火が一瞬の内に猛火へと姿を変える。


(私が守らなきゃ!)


いつの間にかソフィアは立ち上がっていた。目に力が戻ってくる。体の芯から熱が溢れてくる。


「アフレッド様は何も知らない……。何とかしなきゃ……。方法を考えないと……」


頭が冷静になり、全身に血が通う感覚が戻ってきた。どうすればアルフレッドを守ることができるのか。どうすればアルフレッドが魔の手に墜ちなくて済むのか。とにかく考えないといけない。


どうしても問題となるのが身分の差だ。王族と有力貴族との婚約を平民ごときが何とかできるわけがない。いくら特待生だといっても、そんな力は微塵もないのだから。


(落ち着け……。ワイズ学院を卒業するまでにはまだ時間がある。その間に何とか方法を見つけださないと……)


冷静になった分、現実という壁を実感する。


(すぐにどうこうすることは難しい……)


「よお、ソフィアだったか? 大変そうだな」


そんな時だった、不意にソフィアに声をかけてきた人物がいた。


「……リチャード王子……?」


予想外の自分に声を掛けられ、ソフィアは戸惑い気味に返事をした。


「その猫、お前のなんだろ?」


ソフィアが困惑していることなどお構いなしにリチャードは話を続けた。


「私の……というより、友達ですが……」


「まあ、そんなことはどうでもいい。俺が言いたいのは、なんでその猫が死んだかってことだ」


「……何が言いたいのですか?」


ソフィアが警戒交じりに質問を投げかけた。入学初日のことを考えれば、安易に心を開いていい相手ではない。


「お前、苛められてるんだろ?」


「…………」


「まあ、答えなくてもいい。見てたら分かる」


「……それで、私にご用ですか?」


「ああ、そうだ。協力してほしいことがある」


「協力……?」


ソフィアは訝し気な顔をした。


「ああ、協力だ」


「私にできることがあるとは思えませんが……。それに、どうしてリチャード様がここにいらっしゃるのですか? ここは滅多に人が来るようなところではありませんが?」


「マチルダ達がお前を苛めてることくらい知ってるって言っただろ。あいつらが妙な動きをしたから、お前がいると踏んだまでだ。まあ、助けに入らなかったのは俺を警戒されないためだ、悪く思うなよ」


「それで、協力とは……?」


ソフィアは用心しながらも話の続きを促した。


「リーズフェルドを糾弾する! その協力をしてほしい!」


「リーズフェルド……様を……ッ!?」


ソフィアが目を見開いて聞き返した。


「そうだ、リーズフェルドだ! あいつには恥をかかされたからな。カラザス王家が恥をかかされたまま黙っているわけにはいかないんだよ!」


「私に何ができるのですか?」


ソフィアが思わず前のめりになって聞き返した。


「お前の苛めの主犯格はリーズフェルドだ。それは分かっているな?」


「はい」


「だが、あいつは自分で手を汚すような真似はしない。だから、取り巻きを使って、お前に嫌がらせをしている。そうだな?」


「はい。そうです!」


「だったら、それを利用するんだよ!」


「それを利用……?」


言っていることの意味が分からず、ソフィアが聞き返した。


「リーズフェルドが取り巻きを使ってお前を苛めていることを公にする! そのためにはお前の証言が必要だ! だから、協力しろ!」


「…………」


ソフィアはリチャードの提案に反応を示さなかった。


「おい? どうした? 協力するのかしないのか? どっちだ?」


何も反応しないソフィアに対して苛立ち交じりに言う。


「……分かりました」


ソフィアがリチャードを見上げながら言った。とても静かな声だった。だが、底知れぬ何かがその声の奥には潜んでいた。


「――ッ!?」


ソフィアに見つめられたリチャードが思わず後ろに下がった。背中から嫌な汗が出てくるのが分かった。


「協力します」


ソフィアの瞳がリチャードを見据える。その瞳は闇そのものだった。








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