破滅の足音 3
1
次の日の授業中。昨日から降っている雨は、しとしとと降り続いている。湿気が教室の中を漂い、どうしても匂いが鼻につく。
雨音というのは時に心を落ち着かせてくれるものなのだが、この時のソフィアにとってはただ憂鬱な音にしか聞こえなかった。
どうしてだろう? 何故なのか? 何をしてしまったのか? 昨日、クラスメイトから言われた、リーズフェルドから嫌われているという情報が気になってしまい、授業に集中することができない。
本当に自分は嫌われているのだろうか? ふとそんなことを思い、ソフィアが斜め後ろのリーズフェルドの席を見る。
一瞬だけ目が合った。その瞬間にリーズフェルドが顔ごと視線を外した。
(ああ……。やっぱり、本当だったんだ……)
露骨に視線を逸らされて、ソフィアは確信した。理由は分からないが、自分は嫌われているということに間違いはない。
(私が平民出身だから……)
ワイズ学院で唯一の平民出身者がソフィアだ。考えられる理由としたら、身分の差が一番大きいだろう。
(平民で孤児院育ちの特待生……。リーズフェルド様には面白くない話だったのかな……)
兎に角、ソフィアの存在がリーズフェルドにとっては気に入らなかったのだろう。それしか考えられない。
(アルフレッド様は身分で私を差別しなかったのに……。どうして、仲の良いはずのリーズフェルド様はアルフレッド様のように考えてはくれないの……?)
平民のソフィアに対しても丁寧に対応してくれたアルフレッド。怪我をした野良猫に対しても優しかった。
そのアルフレッドと一緒にいることが多いリーズフェルド。昔からの知り合いのようだが、こうも違うのだろうかと、ソフィアは疑問を抱く。
(あ、そうか……。アルフレッド様は知らないんだ。だから、リーズフェルド様自身が動くことなく、周りの人間を使って私を……)
おそらく、リーズフェルドは自分の良い面だけをアルフレッドに見せているのだろう。ソフィアが嫌いなことも伏せているに違いない。そして、自らの手を汚すことなく、取り巻きを使ってソフィアを攻撃してきた。なんと狡猾なのだろうか。
(でも……。そうだとしても……私に何ができる? 相手は名門貴族の令嬢。私は教会と繋がりがあるといっても孤児院で育ったというだけ……。駄目だ……、力が違いすぎる……。どうすることもできない……。私ではどうすることも……。せめて、アルフレッド様に迷惑のかからないようにしないと……)
雨はしとしとと降り続いている。肌に纏わりつくような嫌な湿気を不快に思う。払っても湿気は空気を覆っている。この不快感を払う方法はない。ただ、この不快な時期が過ぎるまで、じっと我慢しているしかない。
2
「はぁ……ダメだった……」
リーズフェルドは大きく溜息をついた。雨が降り続く曇天のように、リーズフェルドの表情は浮かない。
昨日、リーズフェルドは思い切ってソフィアに話しかけてみたのだが、完全に空回りして終わった。自分でも何を話しているのか、サッパリ分からないような内容の話しかできなかった。
こんなはずじゃなかった。前世でも話が上手いほうではなかったが、女相手に緊張して話せなくなるなんてことはなかった。
なのに、ソフィアに対しては、この体たらく。自分が情けなくて仕方ない。
だから、リーズフェルドは今日一日こんな様子だった。それは放課後になった今も現在進行中だ。
「僕も見てたけど、あれはないね」
授業が終わって、大半の生徒が退室してる教室で、隣にいるアルフレッドが支度をしながら返事をした。
「やかましい! お前みたいに女に苦労したことがない奴には分からねえんだよ! ああ、ちくしょう……。なんかもっと上手くやれると思ったんだがなあ……」
だらんと椅子に腰かけたまま、リーズフェルドが項垂れる。チラリとソフィアの席を見るが、とっくに教室から出て行っていた。
「女性にはずっと苦労してるんだけどね……。まあ、緊張で話をすることができなかったっていう気持ちはよく分かるよ」
出会ってから5年間。アルフレッドはリーズフェルドのことで苦労しかしてきていない。初めて会った時の緊張も覚えている。
「どっかで話をするチャンスがあればいいんだけどよ……」
「僕が間に入ろうか?」
「ああ、それな……。俺も考えたんだけどよ、それってなんか、俺がヘタレみたいで嫌なんだよ」
リーズフェルドなりの矜持というか、プライドというか、この件でアルフレッドに仲介してもらうという方法はできるだけ使いたくなかった。
「リーズの言う『ヘタレ』? っていうのはよく分からないけど、自分の力でソフィアと話しができるうになりたいってことだよね?」
「ああ、そういうことだ。お前に入ってもらったら、たぶん話はできるんだろうけどさ。その後、お前なしで話ができるのかっていう問題があるだろ。だから、最初から俺だけでも話ができるようにしておきたいんだよ」
「僕が仲介した後も多分問題はないと思うけどね。それでも、リーズがそうしたいって言うなら、僕はそれで応援するよ」
「ああ、それで頼むわ。どうしようもない場合はお前を頼るかもしれないけどな……。できるだけ、そうならないようにする……」
「リーズにしては珍しく弱気だね」
「弱気にもなるわ! あんだけ可愛んだぞ! お前、分かってんのか?」
「ああ、分かってる、分かってるよ」
「本当に分かってんだろうな? まあいい、これは俺の問題だ。俺がなんとかする」
「その意気込みだよ。それじゃあ、僕は用事があるから、先に行くね」
「おう、そうか。どこに行くんだ?」
「先輩からお茶会に誘われていてね。旧校舎なんだけど、よかったらリーズも来るかい?」
「茶会? ああ、行かねえわ」
「だろうね。でも、たまには顔を出してくれると助かるよ」
「興味ねえ」
「分かってるよ。それじゃあ、また明日」
「おう、またな」
こうして、アルフレッドはお茶会の席へと向かって行った。
3
同時刻、旧校舎の廊下。
広いワイズ学院の敷地には、あまり使われなくなった旧校舎が残っている。放課後ともなると、旧校舎へ行く人は用事がなければ、ほとんど行く人はいない。たまに一室をお茶会に使われるくらいだ。
だが、この日は旧校舎の廊下に人影があった。
「ねえ、あんた。今日、リーズフェルド様のこと見てたでしょ!」
怒気を込めてそう口にしたのはマチルダだ。
「いえ……。そんな、別に見ては……」
そして、詰め寄られているのはソフィア。昨日と同じように難癖を付けられている。
「嘘よ! 絶対に見てた! 私見てたもの! あんたが見るから、リーズフェルド様が嫌な思いをなさるのよ! それを分かってるの?」
今度はコーデリアがソフィアを責め立てる。コーデリアから見ても、リーズフェルドが露骨にソフィアから視線を外すのは分かった。
「で、でも、それは不可抗力です……。私は、見ようと思って見たわけでは……」
実際には、嫌われているのか確かめるためにリーズフェルドを見たのだが、それを言ってしまうと何を言われるか分かったものではない。
「不可抗力ですって? 不可抗力でリーズフェルド様を害していいと思ってるの?」
続いてミラが理不尽な文句を言う。もはや理由などどうでもいい。ソフィアを攻撃する名目があればそれでいいのだ。
「私は、リーズフェルド様を害そうなどとは……」
相手は名門貴族の令嬢だ。平民出身者が害することのできる相手ではない。それくらいのことは、ここにいる全員が分かっていること。
「言い訳する気? 平民の分際で、言い訳ができるとでも思ってるの?」
更にマチルダが攻撃をする。もはや理屈でもなんでもない。ただ、貴族が平民を虐めているだけに過ぎない。
「言い訳なんて、そんな……」
「だったら何のよ? 言ってみなさいよ!」
「本当に、私は何もしてません」
「あんたが、何もしてないかどうかなんて聞いてないのよ! あんたがいるだけで不快に思ってる人がいるの!」
とうとうマチルダはソフィアの襟首を掴んで暴言を吐いた。ソフィアは抵抗することもできない。相手はそれなりに名のある貴族なのだから。
「そ、そんな!? でも私は――」
「いちいち言い訳しないでッ!」
マチルダは掴んだソフィアの襟首を思いっきり押した。
「キャッ!?」
勢いあまって、ソフィアが転倒してしまう。思っていた以上に強く転倒してしまったようで、体のあちこちから痛みを感じる。
「いい加減自分の身分っていうものを――」
「おい! 君達! 何をしているんだ!」
そこに男性の声が割り込んできた。声はまだ若いが、気迫を感じる声だ。
その声の方向へと全員が振り向いた。そこにいたのは――
「ア、アルフレッド様ッ!?」
コーデリアが声を上げた。こんな場所にアルフレッド王子が来るなんて思いもしなかったからだ。
「何をしているのかと聞いている!」
アルフレッドは荒くなる口調をなんとか抑えながら詰問した。
「べ、別にただお話をしていただけですわ……」
視線を合わさずにミラが言う。
「身分がどうとかって聞こえてきたけど? それに、話をしていただけで、どうしてソフィアが倒れているんだ?」
アルフレッドが3人を睨みつけながら言った。
「い、いやですわアルフレッド様ったら。身分の話はしおりましたよ。でも、それはお互いを知るためにあえてそういう話題を出してきただけのことです。それに、ソフィアが倒れられているのは、単に躓いただけのことですから。そうですわよね、ソフィア?」
マチルダがかなり苦しい言い訳をする。そして、ソフィアを睨みつける。
「……はい」
ソフィアは静かに頷いた。悔しくて涙が出てきそうだが、ここで抵抗する意味はない。なぜなら黒幕はリーズフェルドなのだから。
「……本当かい?」
絶対に嘘だと分かっているが、それを言うのかどうか判断に迷う。ここにいるマチルダやコーデリア、ミラはバルド王国内では有力な貴族だ。アルフレッドとしても下手なことはできない。
苛めの対象が有力な貴族であったなら、アルフレッドも大きく出ることができるが、苛めの対象と思われるのは平民だ。それで貴族の横暴を裁けるかというと、なかなか難しいところだ。
「……はい。私が転んだだけです……」
ソフィアはボソッと答えた。俯いているため表情は見えないが、暗い顔をしていることが伺える。
「そうか……。もう放課後だ。君たちは帰りたまえ。僕はソフィアに話がある」
「は、はい」
マチルダ達は素直にアルフレッドの指示に従い、そそくさとその場を退散した。
残されたソフィアにアルフレッドが近づいて声をかけた。
「大丈夫かい? 怪我はしていない?」
アルフレッドは屈みこんで、優しくソフィアに訊いた。
「は、はい。大丈夫です。どこも怪我は……」
ソフィアはそう言いながら、自分の手の甲を見た。転んだ時に打ち付けたのだろう、血が出ている。怪我をしていることに今更ながらに気が付いた。
「どこも怪我をしていないわけではなさそうだね。手を出してごらん」
「え? 手をですか?」
怪我をしている方の手のことだとは分かるが、どうするつもりなのか。予想はできるが、相手は王族。そんなことはあるはずないと思いながらもソフィアが怪我をしている方の手を出した。
「応急手当だけど、やらないよりは幾分マシだろう」
アルフレッドは自分のハンカチを出して、慣れた手つきでソフィアの手をハンカチで包んだ。
こういった手当の知識は、リーズフェルドと一緒に山籠もりをさせられた時に覚えたものだ。リーズフェルドに山へと連れていかれると、毎度のように怪我をするので、嫌でも身につく。
「あ、あの……。ハンカチが汚れてしまいます」
血がにじむ白いハンカチを見ながらソフィアが言った。王族が使うハンカチだけあって、手触りのいい高級シルクが使われた一級品だ。
「気にすることはない。怪我の手当ての方がよっぽど重要だ。それより、何があったのか聞かせてもらうことはできるかい?」
アルフレッドはできるだけ穏やかな声で話しかけた。ソフィアが苛めに遭っていたことは間違いない。詳しい話を聞いておく必要があった。
「……先ほど、お話をした通りです……」
「本当にそうなのかい?」
「……はい、本当です」
「身分がどうとか言っていたことは?」
「……それも、話をされた通りです。平民出身の者と話をする機会がなかったそうですので……」
ソフィアは目を見ることなく淡々と話しを続けた。
「…………」
アルフレッドは黙ったままたソフィアを見ている。本当のことを話して欲しい。そう言っている顔だ。
(アルフレッド様に迷惑をかけることはできない……。背後にリーズフェルド様がいるのは間違いない。だけど、それをアルフレッド様に言えば、アルフレッド様に迷惑がかかる……。アルフレッド様は何も知らないのだから……。このまま私が我慢をしていれば、いずれ収まる……。優しいアルフレッド様のことだ、仲の良いリーズフェルド様が裏でこんなことをしていると知れば、苦しむに違いない……)
だが、ソフィアは口を噤んだままだ。アルフレッドに助けを求めれば解決するかもしれない。でも、それはできない。
「そうか。分かった。君がそう言うのなら、今はそれを信じよう」
「はい……」
「だけど、一つだけ覚えていてほしい。僕は君の味方だ。自分ではどうしようもないことがあれば、僕を頼ってくれて構わない。それだけは、間違わないでほしい」
ソフィアはその言葉に思わず顔を向けた。そこにあるのはアルフレッドの綺麗な顔だ。優しい顔だが少し寂しそうな表情をしている。その顔に胸がきゅっと締め付けられるような感じがした。
(この人だけが……。この人だけが私のことを……)
「それじゃあ、僕はこれで。ハンカチのことは気にしなくていいから」
アルフレッドは最後にそれだけ言って、旧校舎の上の階へと向かって行った。
(……やっぱりアルフレッド様は他の方とは違う。でも、私とは身分が違いすぎる……。私のことで王族の手を煩わすことなんてできるはずがない……。私が我慢をすればそれで……)
一人残されたソフィアは、血の付いたハンカチをぎゅっと握り締めた。




