孤児院 1
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バルド王立ワイズ学院はバルド王国内にある教育機関だ。周辺諸国から学びに来る生徒は、ワイズ学院内に建てられた学生寮で生活をしている。
広い敷地には国ごとの学生寮がある。学生寮専属のメイドや執事が常駐しており、一部を除いては学生の身の回りの世話を全てやってくれる。
学生の身分によって、どの部屋に入るかが決まっており、セシルはバスティア聖国の学生寮の最上階の角部屋。特別に広い間取りの部屋である。
アルフレッドとリーズフェルドから孤児院のある教会を紹介する約束をした後、授業が終わり、セシルは一人自室に戻っていた。
飾り気の少ない部屋だった。セシルの私物はほとんどが書物。聖書や女神セレスに関する歴史書や研究資料が大半を占める。他は魔法書や学問書といったところ。他は女神像等、教会で使う物。娯楽に関する物は何一つない。
「…………」
セシルは無言のままベッドの上に乗った。装飾は控えめだが天蓋の付いた豪華なベッドだ。派手さがない分、気品が感じられる。
ボフッ
セシルは黙って枕を殴った。
ボフッ ボフッ ボフッ
続けて枕を殴り続ける。何度も何度も何も言わずに、できる限り音が出ないように。それでも力はどんどん入っていく。
そして、セシルは頭から布団をかぶり、枕に顔を深く埋めてから口を開いた。
「なんなのよ、あの女はーッ!」
万が一にでも声が外に漏れないように、細心の注意を払って声を出した。
「何も知らない癖にッ! 何にも縛られずに生きてきた癖にッ! 好き勝手生きてきた癖にッ!」
ワイズ学院の学生寮は壁が厚く、防音機能も抜群。セシルの声が外に漏れることは絶対にありえない。
セシルがリーズフェルドと出会ったのはワイズ学院に入学してからなので、よく知らない相手ではあったが、立ち振る舞いを見ればすぐに分かったことがある。何物にも縛られない存在。それがリーズフェルド・ベゼルリンクという人間だ。
「私は教皇の娘なの! 女神セレスの教えを順守して生きてきたの! 教会の象徴としての宿命を背負って生きてきたの! 最低限の礼儀も弁えず、最低限の教義すら知らないで、あの女は自由に好きなように振舞って! 私はずっと我慢してきた! 私はずっと期待に応えてきた! 私はずっと頑張ってきた! なのに、なのに、なのに! なんであんな自分勝手な女が私に!」
セシルはたまにこういう行動をすることがあった。生まれた時から教皇の娘としての宿命を背負っているため、何があっても人前では清廉でなければならなかった。故に、溜まりに溜まった鬱憤をどこかで吐き出さないと、自分を保つことができなくなっていた。
「あんたみたいに自由なんてないのよ! 好きなことなんて何一つやったことがないのよ! 私は完璧じゃなきゃいけないの! 私は崇拝されなきゃいけないの! 私は教皇の娘だから! 教会の顔だから!」
声が大きくなっているのを自覚する。それでも声を抑えることができない。
ここまで自分を抑えられなくなったことはない。こんなにも我慢ができなくなったことはない。
セシルがこれほどまでに自制が利かなくなった理由は一つだった。
「仮面みたいな顔になったのは私のせいじゃないのよ! それをあの女は、知ったような口を! 笑ったことなんて一度もないのよ! 上辺だけの笑顔しかできないのよ、こっちは! 最初から、あなたみたいな自由はないから!」
リーズフェルドが去り際に言った言葉、『仮面みたいな顔をするな』。この一言がセシルの逆鱗に触れた。
生まれた時から鎖に縛られてきたセシルが、求められるがままに被った仮面だ。被りたくて被った仮面ではない。
自由も意思も感情も、全て押し殺さなくてはならなかった。心から笑えるものなら笑ってみたい。それが許されないから仮面が笑っているのだ。
唯一セシルにある感情は、抑圧に対する怒りだけだ。その怒りも、誰かに向けることは許されない。誰かに見られることも許されない。どうあがいても鎖を断ち切ることはできない。自分の弱さにしか怒りを向けることができない。
だから、こうして誰にも聞かれることなく、怒りを吐き出して自分を保つ。そうしないと、歩けなくなるから。
「……忌々しい」
普段ならこれで収まるはずなのだが、まだ腹の中に嫌なものが渦巻いている。セシルは無意識に爪を噛んでいた。
2
昨日までの雨が嘘のように晴れた日の休日。リーズフェルドとアルフレッドは、セシルの紹介によって町はずれの教会に来ていた。
どちからかと言えば小さな教会だ。それでも綺麗に手入れされており、花壇には色とりどりの花が植えられている。
教会には隣接している建物がある。レンガ造りの質素な建物で、飾り気はない。それでも、どこか暖かな色をした建物。教会よりもこちらの建物の方が大きかった。
その建物の中からは子供達の声が聞こえてくる。それに交じって女性が大声を上げているのも聞こえてきた。おそらく世話をしているシスターが、言うことを聞かない子供に大きな声を出しているのだろう。
本来、バスティア聖国の教皇の娘が、王族と名門貴族に紹介する教会としては、あり得ない程貧相な教会なのだが、孤児院が併設されている教会という条件が付いているため、この教会しかなかった。
「よう、今日は世話になるぜ」
教会の扉の前。ラフな格好をしたリーズフェルドがセシルに片手を上げて挨拶をした。セシルの横にはこの教会の神父も一緒にいた。
「今日は、僕達の無理を聞いていただきありがとうございます。この機会を与えてくださった女神セレス様に感謝を」
対して礼服でやってきたアルフレッドは恭しく礼をする。
「力を抜いてくださって結構ですよ。女神様の前では皆平等なのですから」
一切の隙がない笑顔をセシルが向けてきた。仮面のようだと言われようが、これがセシルだ。他の顔はできようもない。
「お初にお目にかかります。アルフレッド様、リーズフェルド様。私、この教会で神父をさせていただいておりますヨハンと申します。この度は女神様の導きにお二人に出会えたことを感謝いたします」
ヨハンと名乗った男は、白髪交じの神に髭を蓄えた50歳くらいの男だ。気の弱そうな顔をしているが、とても優しそうな雰囲気をしている。言葉も柔らかく、柔和な人柄だ。
「あ、俺、リーズです。今日は急に無理言って、すみませんでした。世話になります。よろしくお願いします」
リーズフェルドは姿勢を正し、ヨハン神父に対して頭を下げた。
「!?」
それを見たセシルが一瞬だけ表情を変えた。
「い、いえ、そのような、大したことではございませんので、どうぞ頭を下げるような真似は……」
ヨハン神父もリーズフェルドの行動に慌てた。バルド王国でも名門中の名門と言われるベゼルリンク家の令嬢が、しがない町はずれの神父に頭を下げたのだ。一体何が起きたらこういうことになるのか。あり得ない光景を見ているようだった。
「ヨハン神父。リーズのことは気にしなくて大丈夫です。こういう性格だと思ってもらったら結構」
この光景になれているアルフレッドは、ヨハン神父に問題ないことを告げる。それでも、当のヨハン神父は動揺している模様。
「さ、左様でございますか……。そう仰るのであれば……。では、孤児院の見学の前に礼拝でしたな。こちらです。汚い場所で申し訳ございませんが、どうぞお入りください」
ヨハン神父はそう言いながら、教会の扉を開けて中へと招き入れる。
「あざっす」
軽く会釈をしてリーズフェルドが教会の中へと入っていった。
「不思議ですよね」
「え……!?」
急にアルフレッドから声をかけられたセシルが少し驚いた声を出した。
「あ、急に失礼しました。リーズのあの態度です。あの名門ベゼルリンク家の長女が、町はずれの教会の神父に対して頭を下げるのに、教皇のご息女であるセシル様には一度も礼を尽くしたことがない。どういう理屈なのか分かりませんよね」
「意外とはっきり仰いますのですね、アルフレッド様」
セシルが思っていたことを見透かされているのは分かっていたことだが、こうも明言してくるとまでは思っていなかった。
「リーズがいては社交辞令もなにもないですからね。先日は、本当に失礼いたしました。しっかりと謝罪する機会があればと思っていたのですが、今になってしまいました」
「いえ……。私は気にしておりませんので……」
「リーズの価値観というか、基準というか、そういうものはかなり特殊でして。セシル様に敬語を使わないのは、単に“クラスメイト”だからだと思います」
「……ええ、まあ、同じ教室なのですから……。そうなのでしょう……」
もしも、リーズフェルドがセシルに対して敬語を使うのであれば、セシルは『敬語』は必要ないと返す。だが、実際には敬語を使わないわけにはいかない。現にアルフレッドがそうしているように、セシルがアルフレッドに敬語を使っているように。身分的に対等な立場であるからこそ、お互いが尊重し合って敬語で話をしている。仮に相手が格下の貴族なのであれば、言葉使いも変わってくる。
だから、“クラスメイト”という理由で、教皇の娘に対して馴れ馴れしい態度で接してくるなど、貴族社会ではあり得ないことなのだ。
「ですから、相手が上級生であれば、リーズは敬語を使います。相手がどこの国の王族であっても、下級貴族であっても――まあ、相手のことが気に食わなければ、横暴な態度に出るでしょうけどね。ただ、相手の身分なんてものは考えないんですよ」
「リーズフェルド様は、その……相手が年上かどうかということで判断をされているのですか……?」
セシルは自分で言っておきながら、変なことを聞いているなという自覚があった。身分や立場ではなく、年齢で判断するようなことがあるのか。まったく同じ身分であるならそういう判断基準になるだろうが、貴族社会では考えられないことだ。
「概ねその通りですね。僕もリーズの判断基準というのはよく分からないところがありまして、年上でも敬語を使わない相手もいます。それでも、今日のような自分が世話になる立場であった場合は、あのように頭を下げて礼を尽くそうとしますね」
「自分が世話になる立場だから……。でしたら、私も同じ――ではなく、“クラスメイト”という括りになるわけですね」
セシルは、なんとなくだがリーズフェルドの判断基準というものを理解し始めた。不思議なことではあるが、法則というものが見えてきた気がする。
「申し訳ございませんが、リーズの基準ですとそうなります。リーズは自分のメイドには敬語を使いますが、同い年のメイドには敬語を使いません」
「リーズフェルド様のメイドは年上なのですね?」
「ええ、そうです。もう10年ほどリーズの専属メイドをしているようですが、あのリーズを制することができる唯一の人物が、専属メイドのメアリーです。ラガルト様やミリーゼ様の言うことは聞かないのに、不思議な話ですよね」
「自分のメイドに頭が上がらないというのは、何とも……。いえ、そういう方なのですね、リーズフェルド様は。そのメイドはよほど優秀なのですね」
なんとも滑稽と言いそうになって、セシルは慌てて修正した。そのメアリーというメイドはどれほどの女傑なのだろうか。あの傍若無人なリーズフェルドを抑えることができる人間がただのメイドだとは驚きだった。
「僕の目からは普通のメイドに見えるのですが。どういうわけか、リーズはメアリーの言うことだけは、比較的よく聞くんです」
「『比較的』と言うと……」
「はい。他の人よりはまだマシといった程度ですね。メアリーに怒られるのだけは嫌だという思いはあるようですが、それでも、リーズは無茶なことばかりします」
それで、毎回メアリーの説教を食らう。そして、また無茶なことをやらかして怒られる。これの繰り返し。
「そうですか……」
セシルは静かに返事をした。自分とは真逆の人間だった。セシルは子供のころから周りの目ばかりを気にしていた。親に逆らったことなど一度もない。怒られるよなことをしたことも一度もない。あの少女は自分とは全然違う。
(私と同じ柵の中にいるはずなのに……。どうしてそこまで違うの……?)
セシルは暫し黙ってしまった。
「おーい、お前ら! 何してんだ? 早く中に入れよ。礼拝か何か知らねえが、始まるってよ」
数舜の沈黙を破ったのは、話題のリーズフェルドの声だった。
「中に入りましょうか、セシル様」
「え、ああ、ええ。そうですね。礼拝が始まってしまいますね」
どこか腑に落ちないような、蟠りのような、そんな気持ちを抱えながら、セシルは教会の礼拝堂へと足を進めていった。