遠隔強化
ヴヴヴヴヴ。
森の中に響く低い振動音。
シルティとレヴィンは即座に動きを止め、少し体勢を低くする。
(多分こっちのほ、あ、いた)
音の方角を見ると、ほとんど探すまでもなく発見した。
およそ三十歩ほど先の空中を飛び回る、鮮やかな橙と深い黒の縞模様。間違いなく鷲蜂だ。
でかい。シルティが今まで見た蜂の中では間違いなく一番でかい。ここまで来るともはや小鳥だ。少なくとも雀や鶯よりは明確にでかい。
まあ、さすがに鷲には遠く及ばないが。
(うーん、見つけやすい……)
大きな身体、非常によく目立つ体色、やたらと耳障りな羽音。彼らは自分たちの存在を隠す気が全くないのだろう。見逃さずに済むので、シルティとしてはとても助かる。
数は、見えている範囲で七匹か。標準的な鷲蜂の分隊だ。
レヴィンの頭をぽふぽふと撫でつつ、シルティは左腰の〈紫月〉を抜いた。
「レヴィン、予定通りね?」
レヴィンが小さく肯定の唸り声を上げる。
今回の駆除ではシルティがまず先陣を切り、折を見てレヴィンも参戦する予定だ。参戦するタイミングはレヴィンの判断でいいし、採用する戦法についてもレヴィンに任せる。
完全に囲まれないよう大きく移動しながらの戦いになるだろうから、シルティから離れすぎないよう注意すること。
シルティの〈紫月〉の間合いの内には珀晶を生成しないようにすること。
刺されていいのは二回まで。二回刺されたらすぐに退避し、身を守りながらの妨害に徹すること。
以上の三点を守れば、魔法も爪牙も好きに使っていいことにした。最悪の場合でも周囲を珀晶の壁で分厚く覆ってしまえば、レヴィンは安全だ。今のレヴィンが体積上限いっぱいの珀晶を生成すれば、鷲蜂たちの大顎や毒針にも耐えられるだろう。
「よし。じゃ、斬ってくるよ」
シルティが立ち上がると、レヴィンは身を潜める場所を求めてそろりそろりと移動を始めた。まずは隠れてシルティの立ち回りを観察するつもりらしい。慎重でなによりだ。遠距離から魔法『珀晶生成』で妨害に徹するにせよ、シルティと共に近接格闘に興じるにせよ、鷲蜂の動きや速さはしっかりと目に焼き付けておくべきである。
それを見送ったあと、シルティは右手に握る〈紫月〉を自然に下ろした状態でのんびりと歩みを進めた。今回は強襲する必要はない。鷲蜂は非常に獰猛で好戦的なので、シルティに気付けば向こうから襲ってきてくれるはず。
(さて)
近頃はレヴィンに驚かされてばかりだった。
悔しいので、今日は私の素晴らしさをレヴィンに見せつけてやろう、とシルティは意気込む。
「んふふ……」
シルティは好戦的な笑みを浮かべながら、自らの身体に意識を向けた。
柔らかくも屈強な体幹筋。精密かつ強靭な体肢筋。それらを覆い隠す滑らかな皮膚。
頭の大きさ。頸の細さ。四肢の長さ。胸の重さ。
さらにそれらを覆っている、もう一枚の頼もしい革鎧。
全てを、漏れなく、精密に認識する。
(本当、いい鎧だなぁ……)
なんて素晴らしい鎧なんだろう、と改めて思う。丁寧に鞣された革は柔軟さと硬質さを併せ持つ。身体の動きを妨げない構造も完璧だ。
そしてなによりも、刃物を着ているという事実が嬉しすぎる。
シルティは幸福感をそのまま生命力に乗せ、革鎧に遠慮なく注ぎ込んだ。
緻密な計算に則って加工された魔物の死骸は、流れ込む膨大な生命力によって不完全に蘇り、死んでもなお失わぬ超常を設計通りに発揮する。
革鎧が備える十二枚の鱗のうち、両の胸に配置されていた二枚が音もなく剥がれ落ち、落下途中でふわりと浮き上がった。
鬣鱗猪の誇る魔法、『操鱗聞香』の再現。
精密性を考えなければ十二枚全てを操作することも可能だが、今のシルティが自信を持って操れるのは一度に二枚が限度で、距離もせいぜい〈紫月〉が届く範囲まで。これ以上は、思考と操作感覚が現実に追い付かない。
もちろん、将来的には十二枚を全て自由自在に操ってみせる気概のシルティである。
剥がれ落ちた二枚はシルティの太腿ほどの高さで滞空。さらにシルティの意思に従って、空気を切り裂くようにしゅるしゅると回転を開始した。
徐々に勢いが上がっていき、やがて、五角形の鱗が真円板にしか見えないほどの回転数に達する。
「ふ、ふふふっ……んひひひひ……」
恐ろしい風切り音を発し始めた凶器を伴いながら、シルティはにやにや笑いが止まらなかった。
狩猟者は魔物たちの身体を明確に分離できるような大型の切断系武器を好み、刺突に重きを置いた刀剣や直槍などはあまり使われない。魔物に対し、刺し傷は致命傷になりにくいからだ。
そしてそれとはまた別の理由で、チャクラムやジャベリンなどの投擲武器の類、そして弓や弩のような射出武器の類もあまり使われない。こう言ったものは武具強化の対象とすることが非常に困難なため、魔物に対しては威力不足になりがちだからだ。
例えば鬣鱗猪が飛鱗でシルティの強化済みの身体を傷付けたように、一部の魔物は自分の身体そのものを分離して飛ばせるので、距離を超越して生命力を導通させられることも多い。あるいは琥珀豹や多尾猫のように、遠隔という性質を根本的に内包しつつ、自身の思考や想像が深く関わる魔法を宿している場合も、習熟度や条件によっては距離を超越し得る。
だが、人類種の肉体には分離して飛ぶような機能はないし、人類種の宿す魔法はどれも距離の超越とは無縁だ。
投擲あるいは射出した物体を自分の身体の一部と見做せるような狂人でなければ、手元を離れたものを強化することなど不可能なのである。
例外的に、森人の狩猟者は場合によっては弓矢や投擲武器を使うこともあった。手元を離れた霧白鉄が朽ちて崩壊するまでには少々の猶予があるので、充分に高速で飛ばせば崩壊前に獲物に到達させることができるのだ。そして、霧白鉄の刃ならば武具強化を伴わずとも魔物の防御を貫ける。しかもその場その場で好きに創出できるので、矢や投擲物が尽きることもない。
これは、とてもずるい。
森人の特権と言っても良いだろう。
では、嚼人のシルティが、霧白鉄でも輝黒鉄でもない鬣鱗猪の鱗を操り、高速で回転させたとして。
果たしてそれが、魔物に対して有効な攻撃手段になり得るのかというと。
(斬ってみせる……ふふふ……絶対に斬れる……)
なるのである。
つまるところシルティは、此度めでたく、狂人の域に半歩ほど踏み込んだのだ。
(刃物を操れるって、ほんと最っ高だなぁ……いつか、普通に投げたナイフでもできるようになりたい……)
半歩というのは、今のところこれが革鎧の飛鱗のみに限られるためである。
例えばシルティは宵天鎂の鎌型ナイフ〈玄耀〉を心底愛しているが、その〈玄耀〉を投げたとして、そこに強化を乗せられるとは到底思えなかった。
投げた物体は、ただ放物線を描くだけだ。
シルティが決定できるのは放物線の角度と初速度と回転のみで、指を離れて以降の運動にシルティの意思は関与できない。
そんなものをどうやって身体の延長と見做せるのか。
刃物への愛だけでは、シルティは距離を超越することができなかった。
この革鎧の鱗だけが、例外だ。
思い通りに操作できるという魔法『操鱗聞香』の特性が、身体の延長と見做すという武具強化の前提とこの上なく噛み合ったらしい。
ひと月以上に及んだ毎夜の魔術訓練の末に、シルティは自分の意思通りに動く刃物を自らの手そのものと見做すに至った。
(つくづく買って良かった……)
シルティが鬣鱗猪を鎧の材料として選んだのは、正直に言えば、その見た目が最大の理由である。
とにかく、刃物まみれの鎧を身に纏いたかったのだ。
魔法『操鱗聞香』の再現についてはあまり重視しておらず、空中での足場に使えたらいいなぁくらいの考えでしかなかった。
だが、こうして遠隔の武具強化を乗せられるようになったのならば。
(よぉし、斬るぞぉ)
斬って斬って斬りまくってたっぷり血を与えなければ、この可愛い飛鱗が可哀想というもの。
シルティはにまにまと嬉しそうに笑いながら〈紫月〉を中段に構え、獲物を真正面に見る。
鷲蜂はまだこちらに気付いておらず、個々が円を描くような軌道で飛び回っていた。虫の類の静止視力があまり良くないことをシルティは知っている。代わりに動体視力と反射神経に優れ、匂いや音にも敏感だ。こちらの存在をアピールするなら音か匂い。現状なら音がいい。
回転する飛鱗同士を掠らせるように接触させ、耳障りな金属音を響かせる。
ヴヴヴヴヴ。負けず劣らず耳障りな振動音を響かせながら、距離の近い三匹がこちらを向いた。
空中の一点にぴたりと静止する巨大な蜂たち。身体をほぼ水平に保っているため、この位置から見えるのは鮮やかな橙色の頭部のみ。巨大な二つの複眼は腎臓のような形をしており、濃褐色をしている。額の位置に逆三角形に並ぶ三つの単眼は真っ黒だ。人類種で言うところの目頭辺りから伸びる一対の長い触角は、基部の第一節だけが橙色を呈し、二節目以降は黒かった。横に開閉する威圧的な大顎は、どの個体も右側が僅かに大きい。
「ふふ。きみたち、かっこいい顔してるね」
紛れもない親愛を込めて、シルティが声を掛ける。
シルティは鳥獣の類が全般的に好きだが、虫の類も割と全般的に好きだった。
中でも、蠍、鍬形虫、蟷螂の仲間たちが特に好きである。理由はもちろん、肢や顎が刃物っぽいからだ。
それから、群れを作る蜂や蟻たちも好きだった。巣が危険に晒された時、彼らは竜にすら果敢に咬み付いてみせる。
守るべきを守るために彼らが発揮する勇猛さは、蛮族からすればとても好ましく思えた。
そして、好きな相手を斬るときほど、シルティの振るう刃は鋭さを増すのだ。




