槐樹研究所
シルティは食事を終えたその足で、エミリアから伝えられた件の研究者の元へ向かうことにした。
いつもなら獲物を狩る前に依頼者と会うことはないのだが、今回は狩猟というより駆除の仕事だ。シルティが欲しい分を自由気ままに斬ればいいのではない。巣の破壊は大前提で、生き残りも可能な限り斬る必要がある。
村人から話を持ち掛けられたというその研究者から、巣の規模や被害状況を予め詳しく聞いておくべきだろう。
エミリアが渡してくれたメモを頼りに東へ歩いてしばらく。無事、目的地に到着した。
シルティの目前には『槐樹研究所』と記された表札。
「え……ここ……?」
手元のメモと表札とを念入りに照らし合わせる。
間違いなく、ここだ。
「……こ、これ、ほんとに魔術研究所?」
シルティは思わず疑念の声を漏らしてしまった。
生物の死骸を取り扱うので、魔術研究所というのは作業場めいたものになりがちである。汚れ難く、汚れても掃除がしやすい、機能性を重視した構造が基本なのだ。
だが、シルティの眼前に屹立する『槐樹研究所』は、率直に表現すれば豪邸だった。
土地は広いし建物も大きい。外装も、嫌味にならない範囲で適度に煌びやか。縦方向に視線を向ければ、二階部分には広そうなバルコニーが突き出している。横方向に視線を向ければ、いいとこのお嬢様がお茶会でも開きそうな、落ち着いた雰囲気の庭園まであった。
レヴィンも興味深そうにきょろきょろと視線を巡らせ、ぴすぴすと鼻を鳴らしている。故郷である猩猩の森と似たような匂いがするのかもしれない。
「……どんな人が住んでるんだろ……」
シルティは扉に備え付けられたドアノッカーを恐る恐る抓み、ゴンゴンと音を鳴らした。
ゆっくりと十を数えるほどの時間が経つ。
重厚な扉が、驚くほど滑らかに開かれる。
「申し訳ありません、お待たせしました」
そうして姿を現したのは、黒い礼服に身を包んだ小柄な男性だった。
耳介がやや尖っており、礼服の背中や足の裾から伸びる赤橙色の触手で身体を支えている。岑人だ。種族が違うためシルティは正確な年齢を推測できないが、見たところかなり若そうである。
洗練された立ち振る舞いに見えるが、おそらく、戦闘技能はない。
執事や従僕と呼ばれる使用人の類だろう、とシルティは推測した。
岑人は文字通り手の届く範囲がとても広いうえ、液体の触手によって支えられるその動きは極めて静かなので、主人の身の回りの世話をするような業種で求められる人材なのだ。ノスブラ大陸でも岑人の使用人というのは非常に多かった。
それはそれとして。
(どういうこと……?)
なぜ魔術研究所にこんなパリッとした人がいるのだろうか。シルティは表情に出さずに困惑していた。
前述の通り、魔術研究所はかなり血生臭い施設のはずだ。アルベニセにおいては蒼猩猩の魔法『停留領域』を再現した魔道具により対策されてはいるものの、こんな上流階級の召使いがいるような場所ではない、とシルティは思っている。
困惑するシルティを余所に、執事らしき岑人の男は胸に手を添えて上品に腰を曲げ、微笑んだ。
「シルティ・フェリス様とお見受けいたします」
「あ、はい。シルティ・フェリスです」
近頃のシルティは見ず知らずの相手に名前を当てられても驚かなくなっていた。アルベニセではこの上なく目立つ琥珀豹を連れ、抜き身の木製の太刀を腰に吊るした小柄な女。こんな特徴を持つのは自分ぐらいなものだろうという自覚がある。
「鷲蜂の件でしょうか?」
天峰銅の触手をぐねぐねと動かして空中に蜂の姿を描きながら、男が問いかけた。
器用だなぁ、あと美味しそうだなぁ、と思いつつ、シルティはこくんと頷く。
「事前に連絡せずすみません。緊急だと思ったので」
「ありがとうございます。まさに、緊急でございます。少々お待ちください。今、主人に連絡を」
男は軽く頭を下げた体勢のまま、床の上に流すように触手の一本を背後へ細く細く伸ばし始めた。
シルティは知っている。あれは岑人の得意とする連絡手段だ。
生命力を導通させた天峰銅とてさすがに体積を変えることはできないが、形状はまさしく自由自在に制御できる。天峰銅の扱いに習熟した岑人ならば、ああやって紐のように細く絞ることで馬鹿げた長さに伸ばすことが可能だった。
細く長い天峰銅は強度も力も弱くなるが、それでも彼らの腕そのものには違いない。シルティが〈紫月〉の切先で空気の流れを感じ取れるように、岑人の天峰銅にも触覚が備わっている。事前に合図を取り決めておけば、遠く離れた相手に天峰銅を到達させ、触覚を介して意志疎通することは簡単なのだ。
「お待たせしました、フェリス様。どうぞ、こちらへ」
主人への連絡はすぐに済んだらしい。
男は再び頭を下げ、シルティを中へ招いた。
◆
案内されたのは応接室。
前触れのない急な来訪だったためさすがに準備があるらしく、主人の用意が済むまでここでしばらく待っていてくれと岑人の男に告げられた。シルティとしても否やはない。むしろ恐縮である。
岑人の男が軽い自己紹介をしつつ、慣れた手つきでお茶を淹れてくれた。
礼服の彼の名は、ヒース・エリケイレス。
二十五歳の岑人で、シルティの推測通りこの『槐樹研究所』にて使用人をしているのだとか。
「どうぞ」
「ありがとうございます。いただきます」
シルティはやたらと柔らかいソファに腰を下ろし、ヒースの淹れてくれたお茶を飲んだ。
(……! お、美味しい……)
物凄く美味しい。舌を襲う喜びのあまり、肩がふるふると震える。是非とも銘柄を教えてほしい。
続いて、差し出されたお茶請けをいただく。バターをたっぷり使ったと思しき小ぢんまりとしたクッキー。硬脆な手触りで、良い匂いだ。
(んっ……す、すごく美味しい……ッ!)
物凄く美味しい。舌を襲う喜びのあまり、ちょっと涙が出てきた。是非ともお店を教えてほしい。
クッキーの感動を忘れないうちに、お茶を一口。
シルティは目を閉じ、上を向いた。
「…………美ッ味ぁ……」
感動が口から零れ落ちる。
最初に飲んだお茶はとても美味しかった。次に口へ運んだクッキーも素晴らしく美味しかった。
だが、クッキーを食べてから飲むお茶はそれらの比ではない。互いの味が重なって抜群に融け合う。もはや暴力的なまでの美味しさだ。
「喜んでいただけたようでなによりです」
「……もう一杯だけ、いただいても……?」
「どうぞどうぞ。私、お茶汲みと菓子作りの腕にはそれなりに自信があるんです。実益を兼ねた趣味、というやつですね」
ヒースは嬉しそうに笑い、新たにお茶を淹れ始めた。ということはつまり、このクッキーはどこかのお店で購入したものではなくヒースのお手製なのだろう。
シルティはクッキーをもう一枚摘まむ。すると、レヴィンがシルティの太腿に頭をぽすんと乗せてきた。シルティが頭を撫で、口元にクッキーを差し出すと、レヴィンはそれをべろんと舐めて口内に持ち去り、ジャクジャクと咀嚼する。
「美味し?」
レヴィンの尻尾がご機嫌に振られる。
林檎のような瑞々しい甘さはあまり好きではないようだが、バターのコクのある甘さは嫌いではないらしい。
シルティはさらにもう一枚クッキーを摘まんでザクザクと味わいながら、失礼にならない程度に室内を観察した。
お尻の下にあるふかふかのソファ。同じぐらいふかふかに感じる絨毯。お茶のカップやクッキーの皿が置かれた重厚なローテーブル。ガラス扉が使われた背の高い食器棚。壁にかけられた油絵。
目に入る調度品、全部が全部、凄く高価そうだ。
特にローテーブルは、素人のシルティが見ても見るからにヤバい。はぎ合わせではなく、巨大な木を縦に割った一枚板を天板に使っている。心材の特徴的な深紫色からして、おそらくシルティの〈紫月〉と同じ鋸折紫檀だ。この鋸折紫檀は成長が極めて遅く、数も少ない。この直径まで育った鋸折紫檀など、それだけで目が飛び出るほどの価格になるだろう。
(物凄く、お金持ちっぽい……)
とても下品な話だが、『鷲蜂の死骸をたっぷりくれるならお金もたっぷり払う』という約束に期待が高まるシルティである。




