精霊の耳
港湾都市アルベニセの誇る七つの公衆浴場の一つ、『西区・公衆浴場』。
その設備のひとつ、個別浴室にて。
全裸のシルティが全身を泡塗れにしながらレヴィンに抱き着き、わっしゃわっしゃと泡を擦り込む。レヴィンは連日の入浴にご満悦で、浴室の床に寝転がりながら喉を鳴らしつつ、長い尻尾でシルティの背中や尻を擽って悪戯していた。
同行したマルリルは既に身体を清め終えており、薄い金の髪を頭上に結って湯船に胸元まで浸かりながら、きゃっきゃとじゃれ合う姉妹を眺めている。
(……さて、と)
マルリルは、静かに、ゆっくりと、気配を殺し始めた。
ベテラン狩猟者のマルリルがその気になれば、呼吸に伴う身体の膨張はもちろん、心臓の拍動を意図的に抑え込むこともできる。肢体を沈めた湯船の水面に一切の波紋が立たないほどの完全な静止だ。レヴィンを洗うことに夢中になっているシルティは、徐々にマルリルの存在を忘れ始めた。
そしてマルリルは、シルティの意識の隙を見計らい、口を閉じたまま口を開く。
「ねえシルティ、ちょっといいかしら?」
「はい?」
シルティが振り返った。
呼びかけた当のマルリルは、目を見開いて固まった。
小さく溜息を吐き出しながら、今度はきちんと口を開く。
「……やっぱり。まだ、三百回もやってないわよね?」
「霊覚器構築ですか? 二百と八十回ぐらいだと思います」
「そうよね……。やっぱりやる気があると早いのかしら?」
「んん?」
「まさかとは思ったんだけれど。あなたの耳、もうできてるわよ」
「え?」
「精霊の耳ね」
「えっ?」
マルリルは人差し指を伸ばして唇に当て、再び、口を閉じたまま口を開いた。
「この声、聞こえるでしょ?」
「うおわっ」
マルリルの口は開いていない。その唇は柔らかく閉じられていた。だが確かに、シルティにはマルリルの声が聞こえている。
シルティからするとまるでマルリルが腹話術を披露しているような光景だが、もちろんそうではない。これはマルリルが、口を閉じたまま自身の精霊の喉を通して語りかけているのだ。
「……おお……。聞こえます……」
「ね?」
この場で唯一精霊の声を聞くことができないレヴィンは、シルティとマルリルを不思議そうに見つめ、泡塗れのまま首を傾げている。
「……全然、気付いていませんでした。外から見てわかるものなんですか?」
いまいち自覚も実感もないシルティは、自らの耳たぶをくにくにと摘まんでから、こてんと首を傾げた。
傾げる角度がレヴィンと全く一緒だ。種族は違えど良く似た姉妹である。
マルリルは内心で微笑ましく思いながら、軽く状況を説明する。
「さっきね、ちょっと違和感があったのよ」
「違和感、ですか」
「耳の中で朱璃が固まっている状態なのに、私の声にしっかり反応していたでしょう。あの時、あなたは目を閉じていたのに」
「あっ。あー。なるほど……」
言われてみれば確かに、とシルティは納得した。
液状の朱璃を注いで凝固させるという関係上、霊覚器の構築中は聴覚を強く殺された状態である。そのため、最中の意思疎通は至近距離での読唇や身振り手振りに大きく頼らなければならない。だがあの時のシルティは、憔悴のため目を開けていることができなかった。
それでも意志疎通が叶ったのは、マルリルが自分の喉と精霊の喉の両方を使って発声しており、シルティの耳がそれをはっきりと聞き取れたからだ。
マルリルはすぐにそれに気付いたが、霊覚器が構築できているかどうかの確認は精神が凪いだ状態ですべきと教わっていたので、教えに従ってこうして入浴中に確認を行なったのである。
「それから、目がチカチカするとも言っていたわね。……見てて」
マルリルが右手を湯船の上に出し、魔法『光耀焼結』をのんびりと行使した。
ゆっくり七つを数えるほどの時間が経ち、霧白鉄の長い短剣、バゼラードが創出される。
「精霊の耳が出来上がると、景色が少し違って見えるようになるって言ったでしょう? どう? 見えた?」
「は……いや、うーん、んん……」
ここは気持ち良く、はい、と答えたいところだったのだが。
見えるような見えないような、虹色のような無色のような、よくわからないなにかが、マルリルの右の手のひらから立ち昇り、直剣の形を取ったような、気のせいだったような……。
「び……微、妙……でした……。なんかこう、見えたような、見えなかったような……?」
シルティの主観ではあまりにも漠然とした光景に、曖昧な回答しかできなかった。
「ふふ。まあ、目で違和感を覚えただけでも充分よ。前のシルティだったら、何にも感じられなかったはずだから」
「……はい!」
「耳に関しては、抜き打ちでもしっかり聞こえてたからもう大丈夫。改めておめでとう、シルティ」
「ありがとうございます!」
マルリルの祝福を受け、満面の笑みを浮かべるシルティ。
姉が喜んでいるのが嬉しいのか、レヴィンも立ち上がってシルティに泡塗れの身体を擦り付け始める。
「……んふっ。んふふ。んふふふふ……レヴィン! やったぜッ!」
シルティは感動を堪えきれず、両手でレヴィンの頬を揉みながらその場でぴょんぴょんと飛び跳ね、幼い子供のように歓声を上げて喜びを現した。
「っうぁ、ぅぇぉ……」
赤子の発する喃語に似た音を唇から漏らしながら、マルリルはそっと目を閉じる。
それは、なにかに戦いたような、あるいは感動したような、そんな響きの悲鳴だった。
(……。この娘の……本当、すっごいわね……)
マルリルはもう結構な回数、シルティと共に入浴を楽しんでいる。
その体格に似合わぬ大きなモノにも、随分と見慣れてきた。
と、思っていたが。
あそこまで自由気ままに振る舞う美事な胸は、さすがに、直視し難い。
女同士であっても、目の毒になる光景というものはあるのだ。
(……)
正直に言えば、ちょっとだけ、触ってみたい――
「……んンッ」
内に芽生えた邪念を自覚したマルリルは、わざとらしく咳払いをし、頭を振って気を取り直す。
誓って、マルリルにそちらの気はない。人一倍、男性が好きな乙女である。
「それにしても、早かったわね。普通、もっともっと時間がかかるのよ?」
「そうなんですか?」
「ええ。みんなが三か月足らずで精霊の耳を作れるなら、きっと精霊術はもっと広まってるわ。……そうね」
邪念を払うように右手のバゼラードをくるくると弄びながら、マルリルは記憶を遡った。
「私が私の先生に、どれくらいで耳ができるんですかって聞いたときは、千回ぐらい悶絶しないと構築できないと思う、って言っていたわね」
「せっ……千回ですか」
「多いでしょ。ちなみに私は九百回くらい。四年もかかってようやくだったわ。……あの四年間のことはできれば思い出したくないわね……」
かさついた眼差しで、マルリルは重々しい溜息を吐く。
シルティが二か月ほどで二百八十ほどを熟した霊覚器構築を、マルリルは四年で九百回。随分と遅いペースのように思えるが、これは率直に言って致し方ないことである。
当時のマルリルは、狩猟者でもないただの森人の少女だった。ただの森人の少女が、『稀少な技能を習得して男の人にモテたい』というだけの動機で精霊術の習得を志したのだ。
物心ついた頃から自分の肉体を虐めて遊ぶ蛮族でもあるまいし、苦痛に対する耐性など持ち合わせているはずもない。音を上げなかっただけでも称賛されて然るべきである。
「……千回か。マルリル先生でも、九百。……でも私は、二百と八十」
シルティはボソボソと噛み締めるように呟いた。
森人と嚼人で違いはあるかもしれないが、千回を見込むべきところ三百回足らずで構築できたというのはかなり早い方だと言えるだろう。
「ふふふっ。さすが、私……ふふふふふ……」
自分は霊覚器に対して高い適性があるのかもしれない。
シルティは臆面もなく自画自賛を宣いながら、誇らしげに笑みを浮かべ。
「……あ」
そしてその直後、笑顔を消し去って青褪めた。
人類種の社会において広く美徳とされる性格のひとつに、『謙虚』というものがある。
故郷を出て以降、シルティはこの徳目についてはかなり苦戦してきた。なぜなら蛮族の戦士たちは、謙虚というものをあまり美徳とは見做さないからだ。
蛮族たちの道徳では、強者は自らの腕前に関して存分に驕るべき、とされている。根拠に溢れる自信は生命力の作用へと繋がり、ひいては更なる強さへと芽吹いていく。自らの才能と性能と実績を過不足なく誇るのは、優れた戦士に必要な資質のひとつなのだ。
遍歴の旅に出て以降、シルティが長らく違和感を覚え続けた、甚大なカルチャーショックである。
ゆえに、今のシルティの自尊行為は蛮族的には褒められて然るべきこと、なのだが。
大恩あるマルリルに見せる態度ではなかった、と理解できる程度には、今のシルティは世界の常識を身に付けていた。
「い、いやもちろん、マルリル先生より私が上って言いたいわけじゃない、というか、マルリル先生の授業が素晴らしいってのが大前提ですけどね? あのその、すみません、なんか……つい、感極まっちゃったっていうか……」
先ほどまでの威風堂々とした様子とはうって変わって、あたふたと、しどろもどろに弁明を始めるシルティ。
「別にいいわよ、そんなの。気にしないで」
マルリルは特に気にした様子もなく、むしろ面白そうにくすくすと笑い出した。
「さて。精霊の耳ができたから、次は目と喉ね」
今後は精霊の耳を足掛かりとし、目と声帯の構築を進めていく予定だ。
マルリル曰く、精霊の耳ができてしまえば他の五感へも生命力への感受性が滲むため、そう時間はかからないらしい。
「はい! 楽しみです!」
「……あなたが楽しみにするような苦痛は、多分もうないわよ?」
「眼球を刳り貫いて朱璃を注いで生命力ぶち込んだりとか、試してみません? すぐ構築できそうじゃないですか?」
「ひっ。……なに言ってるの。そんな悍ましいこと、するわけないでしょう」
「……あは。ですよね?」
実のところ、シルティは至極真面目な提案をしたつもりだった。
が、マルリルの呆れたような戦いたような表情を見てお互いの常識の齟齬を察し、我に返って即座に引き下がった。
危うく先ほどの『謙虚』の二の舞になるところである。
いくら再生できるとはいえ、一般的な人類種はシルティが思っているより自分の眼球を大事に扱うのだ。嚼人に比べれば遥かに再生力の乏しい森人・鉱人・岑人たちからすれば、眼球を自ら刳り貫く段階で既に狂気の沙汰だった。
「目と喉の構築は地道なの。あなたにはレヴィンもいるし、野営しながらでもできると思うけれど、夢中になりすぎて不覚を取らないようにね?」
「はい、気を付けます」
魔法を行使している他者をよく観察することで視覚的な生命力感受性を磨いていくと、いずれ確固たる精霊の目として構築される。これには『他者』の存在が不可欠だが、マルリルの言う通りシルティにはレヴィンという頼もしい家族がいるので全く問題ない。
精霊の声帯については、自分の精霊の耳に聞こえるような声の出し方を模索することで構築を進めていく。シルティ自身が地道に試行錯誤するしかないが、そういった地道な作業はシルティの得意分野だ。宵闇鷲の鉤爪をひたすら研いでナイフを作った根気は伊達ではない。
霊覚器の構築は精霊術習得の第一段階だ。家宝〈虹石火〉の回収にどれほどの時間がかかるかわからない以上、可能な限り早く終わらせておきたいところである。




