紫月
十一匹目の蒼猩猩の死骸から少し離れた場所で、シルティは腰を据えて装備を整えることにした。
ここは蒼猩猩の縄張りだ。経験からすれば、この辺りに留まる限り、少なくとも数日間は蒼猩猩からの襲撃はないし、弱い獣たちは蒼猩猩の縄張りを避ける、はず。
まず作るのは、なによりも重要な、新しい木刀だ。
一本目の木刀を作った時は、尖った石で枝を削るという実に原始的な手法しか取れなかった。だが今は〈玄耀〉がある。時間さえかければ、枝ではなく丈夫な幹を削り出して木刀を作ることも可能だろう。
シルティは周囲に立ち並ぶ木々を拳でコンコンとノックしながら物色し、一本の木に目を付けた。
幹の直径は拳二つ分強。木刀を削り出すにはかなり太いが、叩いて殴った音と感触から察するに、かなり緻密で硬そうだ。
コンコンという澄んだ音色に一目惚れしてしまった。枝振りも良く、生命力も豊富そうだ。
シルティは四苦八苦しながら時間をかけ、目を付けた木をなんとか伐り倒した。
斧があればもっと早かったのだが、残念ながら手元にあるのは刃渡りも短い小さな〈玄耀〉のみ。幹をぐるりと帯状に削り、細くなったところを全力で押し倒した。最後に物を言うのはやはり筋力である。
倒れた幹の断面を見ると、辺材と呼ばれる外周部は白っぽい茶色だが、心材と呼ばれる中心部は濃い深紫色をしていて、綺麗な二重円を描いていた。
年輪は不明瞭で、樹齢はわからない。
「おお。予想外の色してる。いい色だなぁ。綺麗」
樹木の辺材と心材とで色が違うのは、この二つの部位が木の生命活動において別々の役割を担っているからだ。
辺材部は木部の中でも若い組織であり、水分や栄養素の運搬と貯蔵を行ない、生命活動の根底を支えている。
心材部は既に死んだ組織であり、運搬や貯蔵といった生命活動に必要な機能は完全に失われているが、代わりに脱水され、木質素や色素、樹脂などを多く含み、物理的に強靭化することで自重を支えている。
無論、シルティにそのような知識はないのだが、ひとつ経験的に知っていることがあった。
木刀の材料にするなら、絶対に心材だ。
シルティは伐り倒した幹をさらに分断して丸太を切り出し、樹皮を剥がしてから辺材をごっそりと取り除き、心材のみを残した。
木材にしては随分と重い。おそらく、水に入れればストンと沈むだろう。
そこから、丁寧に丁寧に、ひたすら木刀の形を削り出していく。
丸太からたった一本の木刀を削り出すのだから、九割以上も削り屑になるのだ。贅沢な話であり、同時に気の遠くなる話である。
だが、シルティはむしろ喜んで作業を進めた。
かつて入り江に漂着した時。
シルティは、仕方なく、間に合わせで、適当に、木刀を作ってしまった。
今思えば、あれは実に良くなかったと反省している。
〈玄耀〉の製作と使用を通して、シルティは思い出したのだ。
お気に入りの刃物を作り、振るうのは、とても気分が良いのだということを。
夜を超えて次の日、シルティは渾身の木刀を完成させた。
姿は一本目の木刀と同様、〈虹石火〉を可能な限り模す。だがその完成度は桁違いだ。滑らかな弧を描く刀身に歪みはなく、明確な刃と鎬が形成されており、鎬地に至っては樋までもが掘られていた。大事な大事な鍔ももちろんある。
誰がどう見ても太刀を模していることがわかるだろう。
柄には滑り止めとして簡素な凹凸加工が施されており、手の収まりも素晴らしい。吸い付くような感触だ。
材質由来の深紫を主張する、美しい木刀……いや、木製の太刀。
音もなく上段に構える。
太刀の表面が、まるで薄い油膜の張った水面のように虹色の揺らめきを孕んだ。
見るものの肝を冷やすような美事な唐竹割り。間髪入れず左逆袈裟に移行し、一歩踏み込んで逆胴、水平、突き。そして、残心。最後にひゅるんと回して血振りを挟み、左腰の存在しない鞘へと納刀する。
素振りを終えたシルティの口は、だらしなく緩み切っていた。
「良い。素ん晴らしい。きみの名前は……〈紫月〉。〈紫月〉だ。よろしく!」
気分が乗って、名前までつけてしまった。
◆
「よし、次!」
続いて作るのは、食器の類だ。
〈紫月〉の材料となった木の幹の残りを使って、レヴィンの食器、自分用の食器、まな板を削り出す。
ここでも例のごとくシルティは植物の持つ毒に対する警戒心を綺麗さっぱり失くしていたが、幸いこの木にも琥珀豹の害になる成分は含まれていなかった。
それから、背負い籠。
水がないので蔓に吸水させることができず、前回より少し難儀したが、問題なく完成した。
以前に作ったものは肩紐がやや長すぎた感があったので、しっかりと調整する。
背中にぴったりと張り付く長さ。これならば、背負った状態でも少しぐらいは戦闘ができそうだ。
背負い籠作りで余った蔓は叩き潰して柔らかくし、靭皮を剥ぎ取る。
それを裂き、縒り合せて、大小さまざまな紐を糾う。
大量に、大量に、とにかく大量に。
これに最も時間がかかった。また、帯状に編み込んだ硬い平紐を二本だけ作っておく。
そして、それらの紐と樹皮を使った鞘もどき。
木から剥ぎ取った樹皮を適当な長さの筒状にし、合わせ目に〈玄耀〉で縫い穴を開け、紐を通してしっかり縫合した構造だ。
一本目の木刀と違って〈紫月〉にはしっかりとした鍔が設けられているため、刀身より大きく鍔より小さい輪があれば引っかけることができる。
こんな短い筒でも、一応は納められるだろう。
最後の作業は、装備の補修だ。
十一匹目の蒼猩猩との取っ組み合いにより、シルティは掻き毟られ、地面や木々に押し付けられ、そして磨り潰された。おかげで、いろいろとボロボロである。
身に付けていた跳貂熊の革鎧は目も当てられない。ただでさえ海水漬けで劣化していたところに、蒼猩猩との取っ組み合いが止めを刺したようで、特に酷いのが背当て。無残にも擦り切れ、いくつもの裂け目が生じてしまっている。
この革鎧の胴部は、胸当てと背当てで身体を挟み、脇腹を革ベルトで接続して着込む構造なので、背当てがここまで裂けてしまうと必然的に胸当ても固定できなくなる。シルティは試しに長い紐を使って胸当てのみを身体に縛り付けてみたが、これが死ぬほど動きにくかった。
もはや革鎧の装着は不可能、ここに捨てていくしかない。
損傷は背当てだけに留まらず、鎧下や肌着までにも到達していた。
やはり背中部分は擦り切れていて、衣類の体を成していない。鎧はともかくとして、肌着……ブラジャーが千切れてしまったのはとても困るシルティだ。
ちょっと動くだけでばるんばるん揺れる。痛いし動きにくい。
シルティは木の枝を細く削って作った針もどきと、細く縒った植物繊維の糸で、鎧下と肌着をどうにかこうにか補修した。
どの工程も地道で時間はかかるが、木刀の製作に比べればあまり集中力のいる作業ではない。
シルティはレヴィンに言葉を教えながらのんびりと手を進め、三日かけて全ての準備を終えた。




