木刀
生魚を全て貪り、腹が膨れたシルティは、改めて周囲を見回した。
シルティが漂着したこの入り江は、砂浜を背にすると正面に森が広がっている。
(海の近くなのに、木がおっきいな。立派な森……広いだろうなぁ……)
シルティは故郷のあるノスブラ大陸を出て、南方にあるサウレド大陸へ向かう船に乗っていた。目的地まで間もなくと言うところで船が牙鯨に齧られ沈没。そこから天体を頼りにずっと南を目指して泳いできたのだ。
潮に流された距離もとんでもないことになっているだろうが、おそらく現在地は目的としていたサウレド大陸か、もしくはサウレド大陸の付近に浮かぶ島だと思われる。
さすがに別の大陸まで流されたとは思いたくない。
シルティは大陸を渡ることを決めた際、事前に現地生物の情報を可能な限り仕入れてきた。だがやはり、海を隔てた土地の情報などそう多くはない。得られたのは、めちゃくちゃ数が多くてしかも生息域がアホみたいに広いだとか、死骸が引くほど高く取引されるだとか、単純に死ぬほど危険だとか、そういった諸々の理由で特に有名な数十種の情報だけである。
森という環境は得てして視界が悪いもの。どんな生物がいるかもわからない環境を歩くという場面で、この視界の悪さはとてもまずい。しかも今のシルティは完全な丸腰である。
せめて、なにか武器が欲しい。
シルティは故郷で徒手空拳も叩き込まれたが、それらは基本的に対人技能であって、屈強な鳥獣の類を相手取るためのものではないのだ。
(……久々に、作ろっかな)
シルティは周囲の木から手頃な枝を一本強奪することにした。
砂浜から土に切り替わる境目で、地面を探る。角を持つ石を適当に二つ見繕い、打ち合わせて割ると、鈍い刃角を持つ原始のナイフが出来上がった。
森の入口付近に立つ木々を眺め、なるべく真っ直ぐに近く都合の良い太さの枝を持つ木を選び、登る。そして狙いを付けた枝の根元に石器ナイフを当て、ゴリゴリと一周分の切れ込みを入れてから一息に圧し折った。
確保した枝を持って砂浜に戻り、胡坐をかいて座り込みながら、石器ナイフを押し当て、ゆっくりゆっくり、丁寧に、ガリゴリと削っていく。
蛮族の戦士は、暇さえあれば戦士同士で模擬戦を繰り返す生態の動物だった。
木を削って模擬戦用の武器を作るのはお手の物なのである。
(さて、どうしよっかな……)
枝の表皮を剥がしつつ、シルティはどのぐらいのサイズの木刀にするかを悩んだ。
彼女の父ヤレック・フェリスは見上げるほどの巨躯を誇る偉丈夫であるが、彼女の母ノイア・フェリスは対照的に驚くほど小柄な女性である。そして、どうやら母の血の方が強かったらしい。シルティは母に似て、嚼人の女性としてはかなり小柄な身体を授かった。
まだまだ身長は伸びるはず、と当人は思っているが、ともかく。
剣帯も鞘もない今、木刀を佩くなら腰のベルトに直接差すしかない。となると、あまり長大なものでは持ち運びと抜刀に難が出る。元々、〈虹石火〉は現在のシルティの骨格からすると少し大きすぎる太刀であったため、剣帯を使って太腿の高さに吊り下げることで抜刀の幅を稼いでいたのだ。
仮に〈虹石火〉と同じサイズの木刀を作ったとしても、剣帯がないと咄嗟に抜ける気がしない。
だがこの状況で、得物の長さを使い慣れたものから変えるというのも怖い。
(……よし)
悩んだ結果、シルティは結局〈虹石火〉を可能な限り模すことに決めた。自らの間合いの感覚が狂うのを厭ったのだ。抜刀動作がぎこちなくなるのは死活問題なので、潔く木刀は腰に差さないことに決めた。どうせ荷物などないのだから、常に手で持っておけば問題ない。
虚空に想像上の〈虹石火〉を描きながら、枝をひたすらに削る。全体が緩く滑らかな弧を描くように、かつできる限り先反り、先重心に仕上げていく。
(んー……こんなもんかな……)
シルティは手首を返して完成した木刀の刃を上に向け、そのまま柄頭を目元に近づけると、刃元側から切っ先を見て形状を確認し……チッ、と盛大な舌打ちをぶちかました。
(うへぇ……ゴミだ……)
適当に割った石刃で適当に折った枝からまともな木刀を削り出すのはさすがに無理があったようだ。枝の元々の形もあってか刀身はかなり蛇行しているし、反りもいびつで、美しさの欠片もない。
すこぶる格好悪い。
すこぶる格好悪いが、贅沢を言っている場合ではないので、諦めるしかない。どうせ間に合わせだ。これでも無手より万倍はマシになった。
シルティは出来上がったばかりの木刀で何度か空を斬り、感覚を確かめる。〈虹石火〉に比べると軽すぎるが、まぁ、扱えないこともないだろう。
上段に構える。真っ直ぐに降ろす唐竹割り。間髪入れず左逆袈裟に移行し、一歩踏み込んで逆胴、水平、突き。
かつて故郷で木刀を振っていた幼い時分の記憶を掘り出しながら、今の手足の長さを上書きしていく。
魔物を斬り殺すためには、これを自らの腕の延長と見做せるようにならなければならない。
汗だくになりながら素振りを続け、いつの間にか日が落ちていた。
夕闇の中で再び生魚を獲って貪り、日課のストレッチを行なってから、早めに就寝する。
翌日。
すっかり乾いた衣類と革鎧を身に付け、手には不格好な木刀を持ち、シルティは穏やかな入り江を眺める。
意識のないシルティを柔らかい砂浜で受け止めてくれたこの入り江は、間違いなくシルティにとっての命の恩人だと言えるだろう。ほんの少しなにかが違っていればシルティは死んでいたのだ。
地形に恩人というのも妙な話に思えるかもしれないが、辺境の蛮族にとって、所縁ある土地を神格化して敬うのは当然の文化である。
シルティは砂浜に膝を付き、偉大で優しい入り江に向かって深々と頭を下げた。
「ありがとうございました」
ゆっくりと立ち上がると踵を返し、森へと迷いなく踏み入った。