三対の脚
シルティはレヴィンと背負い籠を回収して、羚羊の元へ戻った。
その間に大部分の血が抜けてくれたようで、羚羊の首からの流出は収まっていた。間違いなく死んでいる。
抱えていたレヴィンをそっと砂浜へ降ろす。
すると、レヴィンは羚羊の死骸の周囲をうろうろと回りながら興味深そうに観察し、頻りに匂いを嗅ぎ始めた。
「まだ噛んじゃだめだよ?」
シルティはレヴィンに告げてから、改めて羚羊を観察する。
体重はシルティよりもかなり重い。食べ切れないほど充分な肉が取れるだろう。どう解体するべきか。食べない部分まで解体するつもりはない。
美味しそうなのはやはり後肢。足の速い四肢動物は大抵後肢の筋肉が美味しい。腿肉も尻肉も最高だ。
しかし、後肢の関節は骨盤と複雑に組み合っているし、骨盤周辺には大腸やら尿道やらも通っているので、綺麗に分離するのは少し手間がかかる。
それに比べて、前肢の分離は簡単だ。
特に、鹿や馬のような獣の前肢は非常に簡単だ。
人類種や猿のような獣は肩甲骨と胸骨端が鎖骨で繋がっているが、走行に特化した四足獣には鎖骨がないことが多い。例を挙げると、狼や馬、鹿や牛などだ。彼らの前肢と胴体部は筋肉のみで繋がっているので、関節を外すことなく分離可能なのである。消化器からも遠く、手元に気を遣う必要がない、という点も非常に楽だ。
見たところ、この羚羊にも鎖骨はなさそうである。手早く解体するなら、前肢だろう。
保存性を良くするために、前肢を毛皮ごと分離して持って行く。それから、比較的取りやすい背筋も持って行こう、とシルティは決めた。
「よしっ」
シルティはまず、羚羊を俯せの体勢に整えた。
羚羊の首の後ろの毛皮を軽く引っ張りながら切り裂き、その穴に刃を上向きにした〈玄耀〉を挿し込んで、脊椎のラインに沿って腰までピーッと開いていく。やはり素晴らしい切れ味だ。シルティは存分に自画自賛しながら手を進めた。
開いた背中の皮を引っ張りながら、皮下の白い膜にサリサリと〈玄耀〉を走らせ、素早く最低限の範囲を剥がす。ついでに肩甲骨も剥離させておく。
まず取るのは背筋――背ロースなどとも呼ばれる最長筋だ。首の根本から腰まで伸びる長い筋肉で、肩甲骨の下を通り、脊椎の棘突起を挟み込むように二本ある。
手早く肉を取るなら、この背ロースは狙い目だ。背中の皮を一枚捲れば即座にアプローチが可能だから、非常に簡単に取れる。硬い骨を割ったり断ち切ったりする必要もないし、内臓の中身をぶち撒ける心配もない。その上、かなり大きな筋肉で味も良い……はず。
少なくとも、鹿や牛や馬の背ロースは美味しい。
輪切りにしてステーキにしたい。
背骨の横に刃を入れ、棘突起に沿って長く切り開く。肩甲骨で隠れていたあたりに切れ目を入れて、背ロースを捲りあげた。その下には肋骨が見える。
肉と骨が織りなす紅白の縞模様を見て、シルティはにやりと笑った。シルティにとっては目の保養と呼ぶべき光景だ。素晴らしく美味しそうである。
背ロースを持ち上げながら、肋骨との境目を腰骨のあたりまで切り進め、そこで分断。もう片側も同様に。
次は前肢だ。肋骨と肩甲骨の間に刃を滑らせ、毛皮ごと切断する。右前肢、そして左前肢。実に簡単である。
二本の背ロースと二本の前肢。これでひとまず六日前後は凌げるだろう。肉を背負い籠へ丁寧に収納し、ようやく一息をついたシルティは、ふと思い付いて、転がっていた羚羊の頭部を持ち上げた。
特徴的な形状の角を指でなぞってみる。
〈玄耀〉の素材となった巨鷲の鉤爪ほどではないが、かなり硬質な手触り。
ただでさえ木刀を失った直後だ。武器になりそうなものは見逃せない。この角を切り落とし、研いで刃を付け、根本を削って柄とすれば、素材の味を活かしたフランベルジュとして使えるかもしれない。
いつかフランベルジュも使ってみたいと、シルティはずっと思っていた。
それに、万が一、いや、兆が一、奇跡が起きて、この角が魔道具のような仕事をすれば、先ほどシルティの木刀を圧し折った現象を僅かでも再現できたりするかもしれない……とシルティはにやにやしながら考え、そして。
唐突に、全身が粟立った。
まずい。
死ぬ。
根拠のない直感がそう告げていた。
蒼猩猩の襲撃を察知する時とは比べ物にならない、濃密な死の匂いだ。
シルティは咄嗟にレヴィンを抱き上げ、他の全てを捨ててその場から跳び退いた。砂浜が炸裂するほどの全力の脚が、シルティの身体に瞬間移動にも等しい加速を与える。
突然の捕獲と内臓がひっくり返りそうになる急加速に、さすがにレヴィンが抗議の声を上げようとした、その瞬間。
まるで海をひっくり返したかのような、耳を劈く凄まじい水音が轟いた。
腕の中で、レヴィンがギクリと身体を硬直させる。シルティは音源を確認することもなく二度三度と地面を蹴る。ただひたすら、脇目もふらず、必死に距離を稼ぐ。
奇しくもそれは、先ほどの羚羊と全く同じ行動だった。今のシルティは、捕食者から死にもの狂いで逃げるだけの被食者だ。
水音の正体は定かではないが、水棲の肉食動物が水面下から襲ってきたのだろう、とシルティは目星を付ける。入り江には小川を経由して羚羊の血が大量に流れ込んでいた。おそらくそれで誘き寄せてしまったのだ。
早さと臭いを考えて水場で解体したのだが、手間がかかっても離れた位置まで運ぶべきだったか。
反省はあとだ。一目散に森へ逃げ込む。背後ではグチャグチャバキバキと咀嚼音が響いていた。放置していた羚羊の死骸に食い付いたのだろう。食事に夢中になって、こちらは見逃してくれればありがたい。
噴き上げられた水が地面に到着するより早く、シルティは森の領域へ逃げ込み、そしてすぐさま足を止めた。この距離が安全かどうかは定かではないが、なにが襲ってきたのかだけでも確認しておきたい。
咀嚼音が鳴っている間、つまり襲撃者が羚羊の死骸に夢中になっている間ならば、多少は安全性が高いだろう。
すぐさま木の陰から入り江を窺う。
(……おぁ……)
凄まじい巨体を誇る怪物が、そこにいた。
まるで巨木が横倒しになっているような大きさだ。特に目を惹くのは巨大な頭部……いや、これは巨大な顎部と呼ぶべきか。長大な吻を持っており、縁には無数の牙が立ち並んでいる。
その全身は見るからに頑丈な分厚い鱗で覆われており、特に背面は凄まじい。もはや鎧われていると表現するべき様相だ。
長い尾は鉛直方向に扁平で、先端部分はまるで魚の尾びれのように二股に分かれている。
そして、胴体から真下に突き出た、三対の脚。
それを認識した途端、シルティは興奮と畏怖を綯い交ぜにしたような感動に震えた。
(んっ、んふっ、んひひひ……!!)
六肢動物。またの名を、竜。
その身に比類なき魔法を複数宿す、超常の化物の総称だ。
彼らはあらゆる生物の中でも格段に飛び抜けた生命力を持つ。魔法『完全摂食』で莫大な生命力を確保できる嚼人ですら、竜には遥か遠く及ばない。汲めども尽きぬ夥しい生命力は、その作用によって身体機能を自然と極限にまで高めている。
鱗に覆われた皮膚は常軌を逸して硬く、筋力は天井知らずで、動きはいっそ笑えるほどに敏捷。
ただ動くだけで破壊を撒き散らす、暴力の化身だ。
事実、ただ飛び込んできただけだというのに、それを受け止めたこの入り江の形状が変わってしまっていた。
文字通り、世界最強の種である。異論などあるはずもない。
しかし。
そんな生きる災害に襲われかけたというのに。
シルティの口元はにんまりと緩み、目は無邪気に輝いていた。
「か……格好いい……ッ!」
緩み切ったシルティの口から、思わず、称賛の呟きが零れ落ちる。
シルティのような暴力を尊ぶ蛮族の戦士にとって、竜とは、心の底から敬愛し、同時に畏怖すべき対象なのだ。なにせ、強い。文句なしに強い。この上なく強い。
だからこそ、これを打倒することはこの上ない誉れであるし、これに挑んで殺されるのも、それはそれで誉れである。
最強は最高だ。
シルティの尊敬する父ヤレック・フェリスが、近隣で並ぶ者のいない英傑として名高かったのも、竜の中でも特に強大な存在として知られる祖竜を、たった五名の手勢を率いて打倒したからこそ。
いずれは自分も竜を殺してみせる、とは思うものの。
間違っても、今のシルティがちょっかいを出せる相手ではない。
(でっかすぎて、なんかもう端っことか見えないけど、多分、恐鰐竜だよね……)
恐鰐竜。
ノスブラ大陸で見ることはまずないが、非常に有名な竜の一種だ。鋭い歯の立ち並ぶ長い吻部や、全長の五割弱を占める屈強で扁平な尾など、全体的な外見としては鰐に近しい。半水棲であるという点も同じだ。
だが、多くの鰐とは違い、肢が胴体から真下に向かってすらりと伸びている。筋骨隆々の逞しい前肢と後肢が地面をしっかりと掴み、身体を高い位置で支えていた。
残る最後の一対の肢は、前肢や後肢に対して中肢と呼ばれている。
これは六肢動物に特有の器官であり、種によってはこの中肢が巨大な翼状になっていたりするのだが、恐鰐竜のものは鮫や海豚の胸ビレのような平べったく面積の広い形となっていた。
先端が二股に分かれた尾も合わせ、水中活動への適応なのだろう。
陸上で立ち上がった今は、中肢のヒレは所在なげにプラプラと揺れている。
なんだか少し可愛らしい揺れ方だが。
多分、あれで軽く撫でられただけで、シルティは身体が千切れて死ぬ。
(すっご……初めて見た……うひ……んひ……ちょーかっこいいぃ……)
シルティの視線の先では、抉れた砂浜に身を乗り出した恐鰐竜が、顎を大きく開けて羚羊の死骸を食していた。身体の大きさからすると、羚羊は恐鰐竜のひとくち分くらいしかないのだが、恐鰐竜は何やら名残惜しそうに、やけにちまちまと食べている。
顎を閉じる度に、ブヅンという恐ろしい音を立て、羚羊の死骸が少しずつ消失していく。シルティには実に強固に思えた羚羊の角すら、まるで茹でたアスパラガスかなにかのようにポリポリと齧り、美味しそうに目を細めていた。
実に馬鹿げた咬合力だ。
シルティがどれだけ生命力を振り絞って筋骨を強化しても、あの顎の前ではそれこそ豆腐も同然だろう。
(……。いや、眺めてる場合じゃなかった)
憧れの竜に熱い視線を送っていたシルティだったが、すぐに我に返った。もっと恐鰐竜の姿を見ていたいという気持ちがあるのは否めないが、無謀どころか自殺に等しい。竜ほど強大な魔物になると、その感覚の鋭さも完全な超常の域にあるのだ。
間違いなく、シルティたちの位置は既に捕捉されている。シルティたちがまだ生きているのは、単にシルティなど取るに足らない存在であり、かつもっと手近な位置に肉があったからにすぎない。
恐鰐竜が羚羊を食べ終わる前に、早く逃げなければ。
腕の中で震えるレヴィンを一度だけ撫で、シルティは速やかにその場を離れた。




