拉致
赤く染まった水平線から金色の太陽が顔を出す。
名もなき入り江の砂浜にて、蛮族の戦士レヴィン・フェリスが視線を上げた。
右前肢で若い蒼猩猩の死骸を押さえ付けつつ、早めの朝食で汚れた口元を薄っぺらい舌で舐める。
八匹の腿白鷹との殺し合いから二日弱。切断された左の前腕部はまだ再生できていないが、右後肢の先端は集中的に促進させたため無事に完治している。後肢が二本に前肢が一本あればそれなりの速度で走ることはできるだろう。
グゥーゥ、と小さく長く喉を鳴らす。
すると、小さな水滴が空中から滲むように出現し、むくむくと拳ほどの大きさまで膨らんだ。言わずもがな、レヴィンに視認できるように魔法で主張するローゼレステだ。
ローゼレステは自らの身体に重ねた水珠をレヴィンの眼前でゆらゆらと揺らす。
レヴィンは長い尾の先端をくるりと丸めながら揺らし、水珠の動きをなぞった。
現状では直接的な対話の不可能な琥珀豹と水精霊だが、互いに歩み寄りを考えているならば、身体言語は意外なほど正確な意思疎通を可能とする。主にローゼレステの尽力によって、レヴィンは『どこかの島で六肢竜と殺し合うことになったので明後日の朝になったら迎えに来て欲しい』という姉の伝言をなんとか理解していた。
明後日の朝というのはつまり今だ。
再生促進に際して生命力を節約するため砂浜に降ろしていた〈冬眠胃袋〉に、食べかけの蒼猩猩を追加の食料として収納する。
この蒼猩猩は、入り江に帰還したレヴィンが独力で狩った獲物だ。
二日前にこれを仕留めた時、自らの成長を実感したレヴィンは得意気に鼻を鳴らした。
かつては五体満足でも爪牙が通らず、口腔内と鼻孔を珀晶で埋めて窒息死させるしかなかった相手。だが、今では四肢のうち二本を酷く損傷していてもなお比較的楽に狩ることができる。
しかし、それもすぐに気落ちしてしまった。
褒めてくれる姉がいない。つまらない。
さっさと姉と合流しよう。
右前肢を舐め、顔を擦り、右前肢を舐め、丁寧に顔を洗ってから、背中に〈冬眠胃袋〉を装着する。
グァゥ、と乞うように喉を鳴らしながら頭を下げると、シルティが血縁を結んだ方の〈冬眠胃袋〉が水に包まれて浮かび上がり、音もなく水平に滑り出した。
どうやらレヴィンのお願いを正しく読み取ってくれたようだ。
魔法『珀晶生成』を行使し、海上に点々とした飛び石状の足場を生成。梱包された〈冬眠胃袋〉を先導者として、三本肢の琥珀豹が荒れ気味の大海原を疾走する。
◆
太陽が真上に来た頃。
水平線から顔を出した小さな島を認め、レヴィンは速度を緩め、海上で立ち止まった。
ローゼレステにも一時停止を要求しつつ上半身を起こし、腰を下ろして姿勢よく座り込む。三つ指座りで視線を高くし、島を注視した。
島を見ているだけなのに、どういうわけか背筋の被毛が逆立つ。
瞳孔は自然と拡大し、心臓は強く早く拍動を刻む。
この距離を貫通して届く馬鹿げた強者の気配。
ローゼレステに確認するまでもない。あれが目的地だ。
姉と六肢竜の殺し合いはとっくに終わっているだろう。にも拘らず、今もなお、あの島からは超常的な強者の気配が発せられている。
六肢竜が健在ということはつまり、姉は負けた可能性が高い。
レヴィンは黄金色の眼球を爛々と輝かせ、洞毛を前方に向けて広げた。
このまま真っ直ぐ孤島へ突入し、尊敬する姉を殺した強き竜に挑みたくてしょうがない。
しかし、自分がここで死ねば、ローゼレステに報酬を払う者がいなくなってしまう。
直接的に契約を結んだのは姉だが、姉が死んだのならば自分がそれを払うべきだ、とレヴィンは自然に考えていた。契約履行が不可能ならともかく、氷点下まで冷やしたウイスキーは自分にも用意可能なのだから、これを一方的に破棄するのはあまりに不義である。
それに、現在の自分は左前肢が欠けている状態だ。強者と殺し合えるせっかくの機会、できれば万全の体調で戦いたい。
脳内で蛮性と知性がせめぎ合った結果、辛うじて後者が勝った。
自分の欲望よりも、まずはローゼレステに報酬をたっぷりと支払うべきだろう。それが誠実な対応というものだ。レヴィンはそう考えた。
姉の〈冬眠胃袋〉に収納してある酒瓶をレヴィンの方へと移し、魔術『熱喰』でしっかりと冷却する。氷点下となったそれをローゼレステに提供したあと、左前肢の再生を促進しよう。幸いにも食料はある。明後日の朝にもなれば、五体満足の肉体に戻っているはずだ。いや、戻して見せる。
それから、満を持して竜に挑もう。
もし左前肢の再生が終わる前に竜がどこかに出掛けたならば、その際は残念ながら時間切れということで、姉の遺品を回収しに行く。
蛮族の精神は殺し合いの結果に怨恨の感情を持ち込まないようにできている。たとえ実の親や子を殺されても恨みから敵討ちをしようなどとは思わない。親より敵が強かった。子を守れぬ自分が弱かった。見事な腕前の相手だった。それだけだ。
だがそれはそれとして、死んだ姉に対する弔いの気持ちはあるのだ。
せめて姉が愛していた刃物たちを回収し、自分が受け継いでいこう。この手では上手く使うことは難しいだろうが、そんなことは関係ない――と考えていたレヴィンの視界に、何かが映った。
レヴィンの眼球を以てしても芥子粒ほどにしか見えない、微細な点。
水平線の孤島から真っ直ぐに上昇、そして、恐ろしい勢いで拡大していく。
色は、暗い橙色。
なにかが陽炎大猫以上の速度で近付いて来ている、ということを理解するより先に、レヴィンの全身の被毛は限界まで逆立っていた。
ほとんど無意識のうちに欠損中の左前肢の断面で足場を掴み、右前肢を浮かせて自由を与える。両後肢を屈曲させて大腿筋に力を蓄え、白く長い牙を剥き出しにした。
瞬間、空気そのものが炸裂したような轟音が鳴り響き、冗談のような爆風が吹き荒れる。
それだけで攻撃手段として成り立つほどの凄まじい風圧。とてもではないが体勢を維持できない。レヴィンは重心を低くせざるを得なかった。
〝お前かな?〟
脳に直接叩き込まれた疑念の理解。生涯初の体験に、ただでさえ崩れていた身体が致命的なまでに硬直する。
その直後、レヴィンの胴体は巨大な前肢に鷲掴みにされた。
反射的に拘束から逃れようとしたが、背中に固定された〈冬眠胃袋〉のせいで碌に身体を捻ることができず、脱着機構を操作しようにも前腕部を抑えられているため届かない。
それを理解した瞬間、レヴィンは山吹色の両目を爛々と輝かせながら顎を開き、己を掴む暗橙色の指趾に牙を突き立てた。両の頬が被毛に包まれていてもわかるほどにボコリと隆起し、種特有の凶悪な咬合力を存分に発揮する。
膨大な生命力により強化された白牙が暗橙色の鱗をほんの微かに削り、儚いほどに薄い点状の傷を残した。
だが、それだけだ。貫くことなど到底叶わない。
竜の防御力を目の当たりにしたレヴィンは低く罅割れた唸り声を響かせ、歓喜と興奮の意を発した。
〝はは。絶対お前だ〟
再びレヴィンの脳に叩き込まれる他者の理解。今度はなぜか納得と確信に満ちている。
襲撃者は翼をはためかせて身体ごと振り返り、思い出したように視線を背後にやった。
〝ああ。お前もだ〟
空いていたもう片方の前肢を伸ばし、ローゼレステをギチリと掴む。
【なっぇっ】
訳も分からず唖然としていたところを問答無用で囚われ、ローゼレステはほとんど恐慌状態に陥った。
意識を失った場合、精霊種の身体は物理的な干渉を受け付けるようになるが、今のローゼレステは完全に覚醒している。この状態で物質生物に掴まれた。ということはつまり、この前肢はシルティの形相切断と同質の狂気を孕んでいるということだ。
二度も両断されたかつての記憶が蘇る。
逃げなければ。逃げるのは簡単だ。どこか適当な契約錨に跳べばいい。
だが、意志に反して身体は動かない。
不安定な意識の影響で魔法の制御が狂い、水塊で梱包されていた〈冬眠胃袋〉が海面に落ちる。
襲撃者は長くしなやかな尾を垂らして海面に漂う〈冬眠胃袋〉を掬い上げると、機嫌が良さそうに翼を轟と鳴らし、往路と同等の速度で引き返して行った。
◆
ファーヴに敗北してから丸一日ほどが経過し、ある程度の生命力を補給したことで余裕が生まれたシルティは、なによりまず愛する刃物たちの安否を確認した。
鬣鱗猪の革鎧は最後の一撃でほぼ全壊している。魔道具としての心臓部どころか全てを損なったため、魔術『操鱗聞香』を発動することは当然不可能になった。
だが、それは飛鱗たちの死を意味しない。
遠隔強化で意識を飛ばし、愛する子供たちを呼び寄せる。
十二枚全て、辛うじてだが、動いてくれた。
どの子の身体も大きく欠け、深い罅が走り、左肩の前後を守っていた〈堅亀〉と〈鸞利〉に至っては五つや六つに割れてしまっていたが、それでもなおまだ動いてくれた。
シルティは感涙を浮かべながら一人一人、愛を込めたキスをした。
補修材なら〈冬眠胃袋〉の中に収納している。一刻も早く治してあげたい。
飛鱗たちが無事だった一方で、不銹のナイフ〈銀露〉は見付からなかった。
然もありなん。ファーヴの唐竹割りを捌いた結果、シルティの左腕は肩関節から先が完全に消滅した。当然、そこに握っていた〈銀露〉も同じ運命を辿っただろう。もはや欠片すら残っていないはずだ。
天雷の速度で振り下ろされる至金と接触してシルティが今も生きているのは、偏に彼女がその身を挺して威力を削ぎ逸らしてくれたおかげ。
シルティは〈銀露〉の雄姿を脳の芯部に刻み込み、死後も変わらぬ愛を誓った。
愛刀〈永雪〉は半ばから折られてしまった上に、残った刀身も縦に深々と裂けている。威力を逸らす〈銀露〉の峰を支え、衝撃の大部分を受け止めた結果だ。
愛刃家としては目を覆いたくなるような惨状だが、幸いにも〈永雪〉は純真銀製。一年で百年分の愛を注いだシルティの腕である。時間をかければ再生できないはずがない、とシルティは妄信した。
探し求めていた家宝〈虹石火〉は今も、シルティから離れた砂浜に突き刺さったまま放置されている。
超常金属輝黒鉄特有の漆黒の姿に、遊色効果に似た虹色の煌めき。何度見ても美しい。飛鱗で握り締めた影響か柄は砕けてしまったが、刀身自体は健在だ。
そして、〈虹石火〉の隣には至金の巨太刀〈素質殺し〉が屹立している。陽光を浴びて輝く橙金の刀身。こちらもまた美しい。
至金で創成された〈素質殺し〉は、森人が即興で創出する霧白鉄製の武器と同様の共金造り、つまり茎と柄が分かれていない一体成型品だ。
同じく一体成型だった〈玄耀〉と〈紫月〉を思い出してしまい、切ない懐かしさを覚える。
さて、刃物の安否が確認できたので、次に労わるべきは自分の身体だ。
俯せの体勢で、砂を食う。ひたすらに、飲み込むように、貪り喰らう。
砂。決して美味しいものではない。嚼人は美食を愛する魔物である。いかに粗食に耐える蛮族といえど、普段ならば早々に嫌気が差していただろう。
しかし、至金という壮絶に不味いものを繰り返し飲まされた直後のシルティにとって、もはやこの程度の不味さ、どうってことは……
「はーあ……不っ味い……」
不味いものは不味かった。
ああ、久しぶりに『琥珀の台所』の美味しい料理が食べたい。
さめざめと落涙していると、突如、孤島の砂浜に爆音が轟いた。
「ぐヴぇッ」
油断していたところを物理的な破壊力を持った衝撃波に背中を叩かれ、色気のない悲鳴を漏らすシルティ。直後、砂浜を介して腹に伝わる凄まじい震動が響いた。なにか重いものが至近距離に落下したようだ。
小さく咳き込みつつ、頸の動きだけでそちらを見る。
世界最強の一角、真竜の巨体。陽光を艶やかに反射する暗橙色の鱗が美しい。
右前肢には大きな猫類動物を、左前肢には小さな青虹色の球体を握っていた。
シルティの顔がほころぶ。
〝居たよ〟
真意を発すると共に、ファーヴは両前肢に握っていたそれらをぞんざいな仕草で放り捨てる。
突然の拉致から六肢竜基準の速度で運ばれたにも拘らず、レヴィンは全く混乱していなかった。
背骨を屈曲しつつ四肢や尾を伸ばし、適切な部位を適切なだけ捻る。精密な連動により速やかに体勢を制御、肢から着地し、直後に跳躍。シルティを背後に庇う位置に陣取り、尾を大きく振るいながら全身から灼熱の殺気を迸らせる。
一方、ローゼレステの方は単なる物体のように放物線を素直に辿り、砂浜にサスッと埋まって動かない。おそらく気絶しているのだろう。
「レヴィン、大丈夫だよ」
姉の言葉を受け、戦意を僅かに弱めるレヴィン。視線をファーヴから外さぬまま、シルティの真横にまで一歩一歩、静かに退がった。
「その竜はファーヴさんていうの。死ぬほど強かったよ……よっ、しょ」
シルティは拉げた右腕と辛うじて動く右足を駆使し、俯せから仰向けに体勢を変える。
「んふふ……負けちゃったー……」
シルティが満足げな笑顔を浮かべたことでようやく安心したらしい。レヴィンは真竜に対する戦意を完全に消し去ると、そのまま姉の顔面に勢いよく側頭部を衝突させた。
常人が受ければ鼻が潰れそうな威力だが、姉妹にとってはいつもの愛情表現。そのまま、一心不乱に擦り付け始める。
「ん? あれ、左前肢……私が潜ってる間になにか殺したんだ?」
ご、る、る、る、る。
遠雷に似た肯定の喉鳴らしが砂浜に響く。
「ふふ。それ、あとで聞かせてね」
シルティは首から上の動きだけで妹に頬擦りを返しつつ、ファーヴの方へ視線を向けた。
「ファーヴさん、ありがとうございます」
〝まあ、お前の頼みだからね〟
つい先ほどのこと。
そろそろ妹たちが迎えに来る頃合いだろうと判断したシルティはそれをファーヴに伝え、できれば迎撃しないでくれるように頼んだ。するとどういうわけか、この真竜は中肢翼を広げたり畳んだりしながら〝連れてきてやろうか〟と言い出したのだ。
断る理由などないシルティが遠慮なくお願いした結果、ローゼレステがこうして気絶する羽目になった。




