ファーヴ
ひたすらに生命力の補給と再生の促進を進め、翌日、昼過ぎ。
大海原にぽつんと存在する絶海の孤島、随分と砂の減ってしまった浜の上で、シルティは身体を解していた。
胡坐をかき、腰の後ろ側で手を組んで、胸を大きく張りながら手を後ろへ突き出す。次は身体の前で手を組み、背中を丸めながら前で突き出す。
右腕を頭上に、左手で右肘を保持し、身体を左へ倒す。同様に右手で左肘を保持し、身体を右に倒す。腕を真っ直ぐ前に伸ばし、逆側の腕で伸ばした腕を首元へ引き寄せる。
脚を左右に広げ、左右の爪先と膝頭が全て一直線に位置する見事な開脚。息を大きく吐き出しながら身体を前に倒し、〈瑞麒〉と〈嘉麟〉越しに胸を砂浜に押し付ける。そのままの姿勢で十を数え、身体を起こす。今度は前後に開脚し、太腿の裏と鼠蹊部をゆっくりと伸ばす。
足の爪先から手の指先まで、全身の関節を入念に広げたあと、胡座の体勢に戻った。
脱いで乾かしていた半長靴に足をするりと納め、紐を締めてしっかりと密着させる。足首をくりくりと回して具合を確認。革職人ジョエル・ハインドマンの仕事は実に素晴らしい。使い込むほどに馴染む足応えに頬が緩む。
同じく乾かしていた革鎧をしっかり装着する。かつて纏っていた跳貂熊の革鎧は海上漂流中に駄目になってしまったが、鬣鱗猪の革鎧は元々海中でも着用することを前提にしていたものであるため、ジョエルにそういう風に作って貰った。真竜の牙を受けて穴は開いてしまったが、魔道具としての機能は今もしっかり保持している。
装備を整えたシルティはすっくと立ち上がると、上体を左右に大きく捩じり、前屈させ、後方に反らした。さらに虚空へ向けて下段蹴りと上段蹴りを左右それぞれで七度繰り出す。
左手を鞘に添え、右手で柄を握る。鞘口を丁寧に切り、音もなく抜刀。
上段に構え、真っ直ぐに降ろす唐竹割り。間髪入れず左逆袈裟に移行し、一歩踏み込んで逆胴、水平、突き。低い後跳と共に引き胴。流れるような斬撃の連なり。
合計三十七の剣閃を披露して満足したシルティは、最後に〈永雪〉をひゅるんと回して血振りを行なった。
時が止まったかのような静謐な残心。
「すー……、ふぅー……。ふふっ」
疑いようのない確信が全身を漏れなく満たす。
これまでの生涯で、今が一番、絶好調だ。
視線を右方へ。
「お待たせしました」
〝うん。待った〟
暗橙色の鱗で全身を鎧う、有翼五指の巨体。これからシルティと殺し合ってくれる最高で最強の獲物、真竜。海中で出会った時と違い、今は鳥類のように股関節と膝を屈曲させた後肢のみで身体を支えている。その頭部の高さはシルティの身長の六倍から七倍ほどもあった。まさに見上げるような巨体だ。
二足歩行により自由になった前肢。右手側で握り締めるのはこれまた巨大な太刀。〈虹石火〉や〈永雪〉も嚼人が使うものとしてはかなり長大な太刀だが、真竜の握るそれとは根本的に比べ物にならない。シルティの主観的には、武器というより建造物と言われた方がしっくりくるサイズ感である。
しかし、方尖柱のような雄大さとは裏腹に、その刀身は極めて薄かった。
形状はシルティの〈永雪〉をそのまま八倍にしたようなもの。刃渡りも身幅も八倍だが、唯一、重ねだけはほとんどそのままだ。
至金は真銀よりもずっと重い。体積だけで見ても六十四倍である。その重量は百倍では利かないだろう。刀身の薄さは鋭さにも繋がるとはいえ、あまりにも薄すぎる。自重で撓んで当然の形状だ。
だというのに、真竜の太刀は完全無比な艶姿を保っていた。
超常的な比強度を誇る宵天鎂であってもこうはいかないだろう。
至金。
淡い橙の混じった明るい金、橙金色とでも表現すべき美しい超常金属だ。
その特徴は、超常的な強度。単純明快にとにかく硬い。輝黒鉄も強靭で知られる超常金属だが、至金と比べれば足元にも及ばなかった。なぜなら、どんな力を加えても、至金を物理的手段で破壊することは不可能とされるからだ。
岑人が渦勁を打ち込もうが鉱人が炉で熱して鎚でぶっ叩こうが、僅かに変形させることすら叶わない。それが毛のような細い線であっても。
正真正銘世界最強の物質、それが至金である。
人類種の一般的には『不滅』として知られる超常金属だが、学者たちはこれを剛体と呼ぶらしい。
尋常な手段でこれを破壊することは不可能、超常的手段に関してもほとんどを弾く。竜たちの『咆光』ですらこれを消滅させるには少々の時間を要する、らしい。
冷静に考えて、実際に『咆光』を至金で防いだことのある人類種は皆無だと思われるが、他ならぬ真竜がそう伝えたという記録がいくつも残っているので、まあ間違いはないのだろう。
ちなみに、嚼人はこれを普通に消化できる。
ノスブラ大陸ベルガリア王国における戴冠式では『至金の王杯に口を付ける』という儀式があるため、『咆光』と違ってこちらは確実な記録が残っていた。恒常魔法『完全摂食』は意識的に無効化することができないので、儀式の際にどうしても微量を摂取してしまうらしい。
なお、味は『腐った汚泥に数年間漬け込んだ炭を思わせる絶望的なもの』と記録されている。
「その太刀、銘は付けないんですか?」
〝銘。ああ。人類種はそういうの好きだよね。昔、ヴィヴが嚼人に剣をあげた時も、大喜びで名前つけてたって言ってたな〟
「銘があると一層愛着が湧きますよ! ちなみに、これは〈永雪〉で、それは〈虹石火〉と言います! 良いでしょ!」
〝ふーん〟
真竜は自らが握る太刀の刀身半ばを左前肢の第二指で爪弾いた。鈴のように澄んだ音色が響く。物理的に完全無敵の至金はどんな衝撃を加えられても振動することはないはずなので、今の音は真竜の鉤爪から発生したものだろう。
〝じゃあ、これは、素質殺しと呼ぼうかな〟
「〈素質殺し〉、ですか? えーと、……! ふふっ。光栄です!!」
なにから取った銘なのか一拍ほど悩んだシルティだったが、すぐに思い至り、満面の笑みを浮かべた。
彼女の名前である『シルティ』は、ノスブラ大陸の嚼人たちが使っていた独自の古代言語において、『素質』を意味する単語を捩ったもの。
つまり真竜は、これはお前を殺すためのものだと、そう言っているのだ。先ほどローゼレステがシルティの名を呼んだので、そこから由来を読み取ってくれたのだろう。
蛮族として冥利に尽きると言ったところである。
素敵。もしこの真竜が嚼人の男性だったらシルティは求婚していたかもしれない。
〝というか、お前さ〟
「はい?」
〝剣の名前は気になるくせに、俺の名前は気にならないの〟
「おんっ……と。すみません、あまり気になりませんでした……。では、改めまして自己紹介を」
んンッ、と咳払いを一つ零す。
「私は戦士シルティ・フェリス。斬る生き物です。偉大な真竜さん。あなたの名前も教えてください」
〝俺はファーヴ。古きイオルムンの息子にして畏きヴィヴの弟、ファーヴ〟
「はー、ファーヴさんっていうんですね……」
魔法『真意真言』がシルティに強制的に理解させる。ファーヴとは、『抱擁』を意味する名だ。海底で〈虹石火〉を抱いていたのは偶然だろうか。
「あ、ちなみに私のお父さんはヤレックといいます。兄や姉はいませんが、レヴィンという琥珀豹の妹がいます」
〝お前の家族はどうでもいいかな。俺の家族は凄いから名乗る意味はあるけど〟
「む。レヴィンだって凄いですよ。一歳半ぐらいの時に私と一緒に鎚尾竜を殺しました」
〝ふーん。まー四肢竜なら〟
「むうっ。そのうち六肢竜だって殺しますから! あと、私のお父さんは祖竜殺したことがあります!」
〝えっまじかよそれはすごい〟
「でっしょぉ!」
にんまりと誇らしげな笑みを浮かべながら、シルティは〈永雪〉を中段に構え、切先を真竜の胸部へ向けた。
刀身から殺意を射出するような気持ちで、愛を囁く。
「私は、重竜と鎚尾竜を殺したことがあります。今から、ファーヴさんを殺してみせます」
〝お前、本当に生意気だな〟
ファーヴは嬉しそうに笑った。




