潜行開始
ローゼレステが読み取った情報によると。
現地点において進行方向の左手側、シルティの身長二人分ほどの位置の鉛直直下、海底に、〈虹石火〉らしき物体が存在しているという。形状はわからないが、魔法『冷湿掌握』の掌握力を強烈に弾く点があるとのこと。超常金属輝黒鉄の特性、森人以外の生命力に対する凶悪な暴力性の影響だろう。
この情報だけではそれが〈虹石火〉であるかどうかは確定できないが、少なくとも純度の高い輝黒鉄が海底に落ちていることは間違いなさそうだ。もしこれが〈虹石火〉ではなかったとしても、回収して売却すれば莫大な資金を得ることができる。まあ、森人ですら所持することの珍しい高純度の輝黒鉄がそういくつも落ちているとは考えにくいが。
【それでっ! 六肢竜と言うのは?】
【……その、ヌルスに似た域に、大きな生物が寄り添っている。肢が六本ある】
【ほうほう! 大きな! それはそれは!】
【あんなものの傍に留まり、動かずにいるのだ。気に入っているとしか思えない】
世界最強たる六肢動物は漏れなく非常に賢い。そして、高度な知性を持つ動物は得てして生存に無関係の欲求、遊戯や趣味と呼ばれる概念を芽生えさせるものだ。また、寿命が長くなればなるほど、その内容はより文明的なものへ移り変わる傾向がある。特定の物品や珍品の蒐集は野生動物にとって定番の趣味と言えるだろう。
ノスブラ大陸に生息する六肢竜手盗竜などは特にこの傾向が強く、思慮深い六肢動物としては珍しいことに人類種の荷車などを頻繁に襲ってくれるので、蛮族からは大層好まれている。
シルティも生息地に立ち寄った際にはもちろん荷物を広げて数日誘ってみたのだが、タイミングが悪かったのか、残念ながら来てはくれなかった。
ちなみに、蒐集品は同族間で自慢し合ったり、場合によっては物々交換したりするらしい。
【〈虹石火〉はすんごく綺麗な太刀ですからね! 竜が気に入っても全くおかしくありません!】
レヴィンにも状況がわかるように通訳を行ないながら、シルティはこの上なくご機嫌だった。
ただ家宝を回収したかっただけなのに竜が関わってきてくれるとはなんたる僥倖。〈永雪〉の渡巻を左手で撫でつつ、どんな化物が待っていてくれるのか思案した。
理屈から考えて、最も可能性が高いのは恐鰐竜だろう。シルティがこの地に漂着して一月弱の頃、二つ目の入り江で蛇角羚羊を解体していた時に齧られかけた、鰐に似た形態のあの六肢竜だ。少なくとも一体はこの近辺に生息していることが確定しているし、なにより、あの竜は非常に嫌われもの。彼らの生息域には別種の竜も近寄らないと聞く。
例に漏れず、恐鰐竜も長寿な種である。長く生きた個体が〈虹石火〉という珍品に興味を持ち、自らのコレクションに加えていてもおかしくはないはず。
しかし、こんな大海原の真っ只中で鑑賞している点が気になる。恐鰐竜は定住性の強い竜だ。宝物を見つけたならば自らの住処に持ち帰りそうなものだが。
まあ、ちょうど発見したタイミングだったのか、もしくは骨格的及び体格的な問題で咥えられなかっただけかもしれない。
(んふふ。恐鰐竜かぁ……)
恐鰐竜がその身に宿す魔法は三種。竜共通の破壊魔法『咆光』に加えて、『顎門延長』と『恐怖強制』の計三種である。
魔法『顎門延長』は読んで字の如く、己の顎を物質的に延長する魔法だ。恐鰐竜の吻部は全長の一割五分から一割六分ほどもある。ただでさえ長大なこの吻部が魔法を行使した瞬間に最大二十倍ほどに延長されるため、全長は本来の三倍を軽く超え、個体によっては四倍にまで到達する、らしい。
想像するとちょっとお間抜けな姿だ。是が非でも見たい光景である。
常識的な力学を適用すれば吻部が長くなれば先端での咬合力は弱まりそうなものだが、恐鰐竜は延長させたその鼻先で同族の鱗すら軽々と齧り取るとか。
世界最強ゆえ、構造的な不利を補って余りある咬合力を備えているのか、あるいはそういった超常的な作用があるのかはわからないが、なんにせよ実に素晴らしい。
残る最後の魔法『恐怖強制』もまた読んで字の如く。意識を向けた対象に恐怖という感情を強制する魔法だ。
彼らに狙われた獲物は根拠のない絶大な恐怖感に脳を支配される。
恐怖を覚えた動物の反応は闘争か逃走に大別されるが、竜の魔法はもちろんそんな生易しいものではない。強大な魔物であっても全身が竦んで全く動けなくなり、神経が細い動物ならばそのままぽっくり逝く。同じ恐鰐竜ですらこの恐怖からは逃れられない。ある研究者曰く、この魔法を浴びても平気な可能性があるのは具現化した不滅と呼ばれる真竜ぐらいしか考えられない、とのこと。
この『恐怖強制』で仮死状態にした大量の獲物を『顎門延長』でごっそりと喰らい尽くすことで、恐鰐竜は自身の巨体を維持していると言われている。
まぁ、それでも見た目ほどは食べないらしいが。
竜たちは皆、体格の割には意外と小食である。
(前は逃げるしかなかったからなぁ……)
あの日、砂浜で蛇角羚羊を解体していたシルティに、魔法『恐怖強制』は飛んでこなかった。美味しい羚羊が既に死んでいることを理解していたのか。シルティなど弱すぎて眼中になかったのか。正確な理由など知る由もないが、もしも恐怖を植え付けられていたら逃げ切ることはできなかっただろう。レヴィンに至ってはその時点で死んでいたに違いない。
(次は絶対……ふふ。死ぬくらい怖いって、どんな感じなんだろ)
恐鰐竜の存在を知ったその日から、シルティは『恐怖強制』を受ける日を夢見てきた。
先祖から代々続いた淘汰により、蛮族の脳はほぼ生まれながらに恐怖を快感へと変換するようにできている。シルティも暴力に対する恐怖など覚えた記憶がない。自分が振るう暴力についても、他者が振るう暴力についてもだ。
だからこそ受けてみたい。
生涯初となる恐怖を乗り越えて、また一段上の強者へと至りたい。
にまにまと笑みを深めるシルティ。
同時に、レヴィンもまた瞳孔を広げ、興奮を露わにする。
ただし残念ながら、〈兎の襟巻〉の燃費の悪さを考えると、海底にレヴィンを連れていくことはできない。本当に残念だが。
【……諦めろと言うのに】
【無理です!】
もはや期限などどうでもいい。『頬擦亭』に残してきた私物への愛惜は竜という情報の前に掻き消された。物品を失いたくないと思うのは命があるからだ。ここで死んでもいいと思った蛮族の脳からは自動的に未練が消滅する。
【大丈夫です。ローゼに付いてきて欲しいとは言いません。少し軽くしていただければ、あとは自分で探しますから!】
ここまで散々潜水してきてわかったのは、ある程度の深さに到達すると、〈兎の襟巻〉を装着していても空気を取り込めなくなるということだ。息を吐くことはできるのだが、吸えない。どれだけ力を込めても胸郭を拡げることができず、腹部はべっこりと凹んだまま横隔膜を下げられない。水の重さに呼吸筋が負けてしまう。
が、これはローゼレステに頼ることですぐに解決できた。
片手間のように巨鯱の身体を握り締めて引き千切る『冷湿掌握』ならば、莫大な海水をちょっと押しのけてシルティにかかる水圧を軽減することなど容易いことのようだ。
ローゼレステが溜め息を吐いた。
もちろん、水精霊に呼吸器はないのでシルティがそう感じただけである。
【わかった】
【ありがとうございます! 底まではどれくらいです?】
【……私の雲の高さの倍ぐらいだ】
ここでいう『私の雲』というのはローゼレステが好む乱層雲、雨雲のことだろう。フェリス姉妹がローゼレステと出会ったのも、発達途中の乱層雲の中だった。シルティの身長を一として考えると、二千から三千倍ほどの高さに生じることが多い。
と、いうことは、この付近の水深は四千から六千シルティということである。
シルティは五千人の自分が縦に積み重なっている光景を想像した。
【……。潜るだけで一日かかりそうですね!】
陸は広く、空は高く、海は深い。
遍歴の旅を続けてきて今更ではあるが、世界の茫漠さに改めて眩暈のする思いだ。
シルティはすぐさま脱着機構を操作し、自らの背負う〈冬眠胃袋〉を分離した。足場に下ろした鞄部から木製ストローや照明など必要な雑貨を取り出し、ハーネスを活用して身に着ける。出し惜しみはしない。ありったけだ。
その後、レヴィンの頸部に腕を回し、抱き締めるように顎の下を掻き撫でながら爪先で珀晶の足場をコツコツと叩く。
「ここ、すっごい深いんだって。底まで一日以上かかるかも。レヴィンと一緒に行くのは無理っぽいかな」
途端、レヴィンの耳介と尻尾がへにょりと垂れ下がった。が、特に我が儘を言うことはなかった。
自分の生命力では〈兎の襟巻〉は重いことも、自分が力尽きれば姉共々大海原で遭難することも、レヴィンはしっかりと理解している。
「荷物を守りながら、足場を維持しといてね。頼りにしてるよ」
了承の唸り声を上げつつ、ぞりぞりと姉の頬を舐める。
「んふふ……。よし、それじゃ、行ってくるね!」
シルティは躊躇なく海に跳び込んだ。




