捜索開始
太陽が指二本分ほど動く程度の時間、シルティは魔術『操鱗聞香』を維持し、〈瑞麒〉をローゼレステに観察させていた。
暇を持て余したのか、レヴィンは姉の傍を離れて砂浜の徘徊を開始。砂浜に生息する小型の蟹を発見し、興味深そうに観察したり匂いを嗅いだりしていたが、食べはしなかった。姉から『貝類と甲殻類は強い毒を持ってることが結構あるから適当に食べちゃだめ』と言われていたためだ。
やがて飽きたのか、一度大きな欠伸を披露してその場を離れる。ちょうど近くに転がっていた大きめの流木に圧し掛かり、胸の下に抱え込む。そのまま前肢を交互に動かしてバリバリとやり始めた。
鉤爪の手入れは猫類動物の本能だ。生命力の強化を意図的に弱めれば樹木程度の硬さでも爪鞘を剥がせる。気分が乗ってきたのか、顎を開いて意味もなく丸太を齧りつつ……と、そこでようやくローゼレステが我に返った。
【……悪かった】
少し居心地悪そうな雰囲気を漂わせながらの謝罪の言葉。水円の制御を手放し、砂浜に撒く。
すると、シルティは強い共感の笑みを浮かべた。
【刃物を愛して扱いに習熟しようとするときに夢中になるのは当然です】
うんうんと大仰に頷きつつ、見本として宙で旋回させていた〈瑞麒〉を右胸に戻す。
【……そうか】
残念ながらと言うべきか当然と言うべきか、ローゼレステはシルティの共感が理解できていない様子である。
「レヴィーン」
シルティが呼びかけるとレヴィンは耳介をぴくんと動かし、すぐさまあ立ち上がった。爪研ぎを中断し、のしのしと近寄ってくる。前肢と後肢の接地点が重なっているため、砂浜には綺麗な等間隔の足跡が残されていた。
柔らかい地面を進むとき、レヴィンはこういった歩法を採る。シルティが教えたわけではなく、いつの間にか自然と覚えた。前肢で踏み締めた地面に後肢を置くことで、咄嗟の瞬間にできるだけ脚力を浪費させないという狙いだろう。
「胸んとこにゴミついてるよ」
指摘され、すぐさま身体をぶるぶると震わせるレヴィン。樹皮の破片と共に被毛が抜け、ふわりと舞い散った。
もうそろそろ換毛期だ。夏毛から冬毛に移り変わり始めている。これからの海上ではしっかりとブラッシングしてあげなければならないだろう。
そういえばエミリアが次の換毛期が来たら抜けた毛を集めて売ってくれと言っていた。
まあ、レヴィンが嫌がったので断ったが。
【さてローゼ。最初の契約の履行をお願いします】
【ああ。……探すのは、ながゆき、と同じようなものだったな。もう一度よく見せろ】
【はい!】
剣帯から鞘を外し、水平に掲げるようにしてローゼレステの眼前へ。
【基本は、これと同じような形だと思います】
シルティにかつての剣帯が千切れた瞬間の記憶はない。気が付いた時には砂浜へ漂着しており、家宝を失っていた。だが、鞘に納まった状態であったことは間違いないだろう。使った刃物を鞘に納めるというのはシルティの本能と言ってもいい行動だ。たとえ意識が朦朧としていたとしても、彼女が握った刃物をそのまま放すことはあり得ない。
家宝〈虹石火〉の鞘は朴の木に真鍮金物だ。海中に沈んだ木材は腐朽が極めて遅くなり、場合によっては完全に止まることをシルティは知っていた。つまり、〈虹石火〉の鞘や柄が今も形を残している可能性は充分に高い。
しかしながら、世界には船喰虫のような材食性の海棲生物も存在する。安心することはできない。
【ただ、かなり長い間水中に置いてあったので……鞘や柄が食べられているかもしれません】
【さややつか】
【鞘、と、柄、です。鞘は、これのことです】
鞘口を切り、音もなく抜いた。呼吸のように自然な手つきで、しかしこの上なく丁寧に。真珠の如き淡銀を宿す上身がその姿を露わにし、陽光を浴びて嬉しそうに煌めく。
太刀の峰を右肩に添えて支えつつ、左手の鞘をローゼレステへ恭しく差し出した。胡桃の木に黒石目塗、暗い濃紺色の渡巻と装飾性に乏しい真銀の金物を備えた、質素ながらも非常に高級な鞘である。
【ふうん】
【で、柄はこっちの、持つ部分です】
【それも、抜けるのか】
【はい。えーと、ちょっとだけ待ってくださいね】
シルティはその場でしゃがみ込み、鞘を砂浜に寝かせた。慣れた所作で柄に刀身を固定する目釘を外し、刀身を緩く立て、右の拳で柄頭を握る左手を軽く打つ。実用品である〈永雪〉の柄はかなり固く作られている。十九回目の打撃でようやく茎が緩み、刀身が浮いた。
鍔に優しく手を添えて、茎を柄から引き抜く。
小切羽、大切羽、鍔、大切羽、小切羽の順で抜いたあと、最後に鎺を外せば、〈永雪〉は一糸纏わぬ艶姿だ。
「……はぁぁ……」
銀煌の刀身を顔に寄せ、思わず、湿気を帯びた吐息が漏れる。
何度見ても飽きない。何度見ても美しい。何度見ても、本当に最高だ。
今すぐ頬擦りしたいという激烈な欲求を輝黒鉄のように強靭な精神で耐え、両手で水平に保持。ローゼレステへと捧げるように差し出す。ローゼレステはゆっくりと近付き、茎尻から切先までしっかりと確認した。
【……ふうん。薄く、弧。孔がある】
【〈永雪〉は真銀製なので真珠のような白銀色ですが、〈虹石火〉は輝黒鉄製なので、夜空のように黒く艶やか……あ。輝黒鉄、見たことないですよね】
【知らん】
【ですよね】
真銀にせよ輝黒鉄にせよ、その起源は魔物だ。動物を嫌う水精霊が知っているはずもなかった。鉱石はともかく、高純度の金属を見たこと自体、この〈永雪〉が初めてかもしれない。
【輝黒鉄というのは生命力を物凄く散らす物質なんです。……えっと、探すのに、影響があったりします?】
恐る恐るといった様子で確認するシルティ。
港湾都市アルベニセにはマルリルがいるのだから、出発する前に同質の物性を持つ霧白鉄を見せて貰えばよかった……と後悔するも、今更である。
【知らん。だが、水の中にあるのならば問題ない】
ローゼレステは事も無げに言った。
【察するに、ヌルスのようなものなのだろう】
ヌルス。人類言語で言えば『虚ろ』『無』『消滅』など複数の意味合いを持つ単語であるが、具体的に何を指しているのかはシルティにはわからない。水精霊の世界にも生命力を霧散させるようななにかがあるのだろうか。
なにはともあれ、ローゼレステは自信があるらしい。
【水の世界で見えないならば、そこにあるのと同じことだ】
【なるほどー……?】
陽光が降り注ぐ平原に一点だけ影があれば目立つ、みたいなことかな、とシルティは解釈した。
ともあれ、やる気になってくれているようだ。シルティは急いで鎺と切羽と鍔と柄を嵌め直した。目釘を摘まみ、損傷がないことを確認してから打ち込む。鞘にしっかりと納め、左腰に吊るす。念のために、剣帯の状況を確認。大丈夫だ。これなら相当な力が加わらない限り千切れることはない。
レヴィンは三つ指座りで自分の胸元を毛繕いしていたが、姉の準備が終わったことを察してすっくと立ち上がった。
黄金色の視線を水平線へを向ける。
【では、お願いします】
【ああ】
了承の言葉ののち、ローゼレステの身体が青虹色の閃光を放った。
一拍。二拍。三拍。四拍。五拍。
五拍の間をおいて、ローゼレステが身体を揺らす。
【ないな。もっと沖の方だろう】
【んぬ……。近くにあったら楽だったんですが……。ちなみに、ローゼ。どのくらいの範囲がわかるんです? 海の底まで探せるんですよね?】
【泡雲一つぐらいならば、どんな深さでもわかる】
【あわぐも?】
【あれだ】
そう言ってローゼレステが示したのは青空に浮かぶ雲の群れだった。真っ白で陰影のない雲片が無数に集まっている。人類言語では鱗雲と称することの多い巻積雲の一種だ。
「あわぐも……」
シルティはなんともいえない表情をした。
巻積雲は非常に高い位置に浮かぶ雲である。水精霊探索旅行の最高到達地点でもさらに遥か頭上にあったほどだ。鱗雲一片の平均サイズ。シルティにはわからない。
おそらく雲を住処とする水精霊にとってはこの上なくわかりやすい表現なのだろう。しかし、嚼人は地上を這い摺り回る動物である。
シルティは目算で距離を測ることを得意とする方だが、さすがにあれはわからない。
「レヴィン、あの雲一個の大きさって、どのくらいかわかる?」
姉の指の行方を追い、空を凝視するレヴィン。さすがに肉眼では厳しかったのか、魔法で望遠鏡を生成して覗き込んだ。ぐ、る、ろ、と喉を鳴らしながら注視していたが、そう間を置かずに望遠鏡を消去。続けて魔法を行使し、空中に巨大な珀晶の風船を生み出した。
目算した寸法を基にして生成した、鱗雲一片の模型である。
【ローゼ、このぐらいで合ってますか?】
【ああ】
「さっすがレヴィン、ありがとっ」
称賛の声を受けたレヴィンだが、洞毛を揺らしただけで、なんでもないような表情をしていた。既に彼女にとってこのくらいはできて当然なのだろう。
(さて)
大まかに言えば楕球形だが、ボコボコしていてあまり綺麗とは言えない。大きさは、短径部で百歩ほど、長径部で三百歩ほどか。
【なるほど、このぐらいの大きさですね。では、ここから扇形に捜索していくことにしましょう】
【わかった】




