訓練あるのみ
空は気持ちのいい晴天。
いよいよだ。
シルティは柔らかい砂浜を半長靴で踏み締め、己の装備を改めて確認した。
革職人ジョエル・ハインドマンの腕により生み出された芸術的な革鎧。味わい深い暗褐色の革地には偏執的なまでに磨き上げられた十二枚の飛鱗が鎮座している。
この鎧を身に纏って以降、血液をはじめとする様々な汚れを何度も浴びてきたが、狩猟者向けの品物は総じて汚れに強く作られるもの。加えて、シルティは日頃から装備の手入れを欠かさない。
蛮族の愛情と致死の経験を刻み込まれた外付けの皮膚はいつしか淡い血の色香を孕み、戦士の命を預けるに相応しい歴戦の面構えを備えていた。
「んふふ……」
シルティは左手の指先で〈瑞麒〉の表面をなぞり、懐かしそうな笑みを溢す。
発注した当初は空中での足場として使えるかどうかも定かではなく、『刃物を着たい』という欲望が完全に先行していた鬣鱗猪の革鎧。もちろん、防具としての性能は充分なものを求めていたが、魔道具としての実用性は二の次だった。
それがまさか、シルティの感性とばっちり噛み合って遠隔強化を乗せられるようになり、しかも体重軽量化の併用が前提とはいえ、一枚につき一歩の空中跳躍が可能になるとは。
なにがどう転ぶかはわからぬものである。
【シルティ】
と、ローゼレステが話しかけてきた。霊覚器を持たぬレヴィンを気遣ってか、今も物質の水珠に自身の座標を重ねている。レヴィンもレヴィンでローゼレステの動向が気になるらしい。瞳孔の拡がった山吹色の眼球が水珠の動きを逐一追いかけていた。
【はい?】
【少し、お前の魔法を見せて欲しい】
【嚼人の魔法ですか?】
【ああ。それはどのくらいまで届く?】
他の生物と触れ合う機会の少ない水精霊たちだが、『魔物たちはそれぞれ固有の魔法を一つその身に宿している』『ただし竜は例外で、二つから四つの魔法を宿している』といった基本的な知識はあるようだ。
【届く?】
しかし、発言内容によくわからないところがあり、シルティは首を傾げた。
【えーと……嚼人の魔法は、完全、摂食、と言います】
当然ながら水精言語に『完全摂食』を表す単語などないので、人類言語での発音を生命力に乗せて伝える。
【かんぜんせっしょく】
【はい。口に入れられるならどんなものでも食べられる魔法です】
【どんなも……え? 食べ、なに?】
ローゼレステは見るからに困惑した様子を見せた。
シルティはちょうど都合よく足元に転がっていた小石をひょいと蹴り上げて手で掴むと、適当に砂を払ってから口内へ放り込んだ。
ゴリュ、ガギッ、ジャりっ。
硬質かつ異質な咀嚼音が響く。
【うわ】
ローゼレステが指一本分ほどの距離を取った。
水精霊にとっての『食事』がどういうものかはわからないが、少なくとも彼らにとっても石は食料ではないらしい。かなり引いた様子である。
【こんな感じですね。口に入る大きさなら至金だって食べられますよ】
唇を閉じて嚥下しつつ、精霊の喉を震わせる。
無論、嚼人にとってもその辺に落ちている石などあまり美味しいものではないのだが、このくらいの大きさならば我慢も容易だ。己の食性を証明するには便利な食材である。
【……至金、を】
ローゼレステが驚愕を露わにした。
真竜が戯れに下賜する至金。不滅の代名詞とも言われるかの超常金属の頑強さは、精霊種たちにもよく知られているらしい。
【まあ、私はまだ食べたことないんですけど……いつか絶対食べます】
【……ならば、その薄いのを動かすのは?】
ローゼレステが距離を取ったまま言った。
なんとなく感じ取れるようになった水精霊の視線が、シルティの胸部装甲、〈瑞麒〉と〈嘉麟〉に注がれている。どうやらローゼレステは『操鱗聞香』をシルティの魔法だと思っていたようだ。
【これは……ええと、魔道具、というものでして】
【まどうぐ】
【魔物の死骸を、加工……捏ね回して、腐らないようにしたものです。巧くすると、死骸が宿していた魔法を使うことができます】
【な……】
ローゼレステがさらに距離を取った。
魔法『冷湿掌握』の制御をする余裕がないのか、自身と水珠との重ね合わせが完全にずれてしまっている。
【悍ましっ……】
【えっ】
【喧嘩の作法といい、一体なにを……毛の少ない猿の所業は理解できん……考えたくもない】
慄いたように身体を震わせつつ、さらにさらに距離を取った。どうやら潔癖の水精霊にとって、死骸の有効活用は考慮することすら忌避すべき事柄らしい。
「んぬん……」
物理的な距離が心情的距離を表しているのだろう。ちょっと会話をしただけなのに呼び出した時よりも随分と離れてしまった。寂しい。
【……ともかくっ! そういった、特殊な死骸で再現できる魔法のことを、私たちは魔術と呼んでいます。ローゼにとっては嫌なものかもしれませんが……便利ですよ?】
【……】
【ちなみに、お酒を冷たくできるのも魔術のおかげです】
【なんだと……】
シルティは右手で妹の背負った〈冬眠胃袋〉をぽすんと叩く。不意打ち気味だったためか、レヴィンはびくりと身体を硬直させた。尻尾を膨らませながら疑問の籠った視線を姉を向ける。
なにをやってるんだ。早く探しに行こう。とでも言いたげな表情だ。
シルティは左手でレヴィンの顎下を揉み撫でて宥めつつ、声帯と精霊の喉を同時に使う。
「ローゼちゃんに魔術の説明してるの。ちょっと待ってね」
【これは中に入れたものを冷やすことができる魔道具なんです。水くらい簡単に凍らせられます】
ローゼレステが目を見開いたような気がした。
【……なる、ほど。悍ましいが、価値は、ある。……悍ましいが】
【でしょー】
この水精霊にとって氷点下ウイスキーはどれほどの価値があるのだろうか。シルティは表情に出さずに苦笑した。
【さて、この子たちの届く距離が知りたいと言ってましたね】
魔術『操鱗聞香』により右胸の〈瑞麒〉を分離させ、ローゼレステの眼前にふわりと浮かせる。
【体調とか精神状況とかにもよるんですが……一枚でいいなら、こっからあそこまでは余裕です】
シルティが指差したのは弧を描く入り江の先端、左手側の岬だった。犬の鼻のように飛び出した岩がとても目立つ。距離はおおよそ五十歩ほどか。
「あ」
その時、ふと、シルティの脳裏に甘美な思い出が蘇った。
【ちょうどあの時のローゼと同じくらいの距離ですね】
【……あの時の、私?】
【ほら。殺し合った時の】
【……】
三か月ほど前。
雲の中で殺し合った際のローゼレステが保とうとしていた間合いが、ちょうど五十歩ほどだった。
当時はとてもではないが飛鱗が届くような距離ではなかったため、珀晶と飛鱗を用いて無理矢理に肉薄したのだが……
【んふふ。あれから私、もっと遠くまで飛ばせるように頑張ったんです。今なら届きますね!】
ローゼレステとの契約を果たして以降、シルティは日頃の訓練に飛鱗の射程距離の向上を組み入れていた。
訓練とは愛情や渇望に満ち溢れているほど効果的なもの。たったの三か月だがシルティの『操鱗聞香』の射程は飛躍的に伸びていた。調子が良ければ六十歩まで届く。
【まー届くには届くんですが、ローゼを斬るにはまだ全然足りませんので……次の殺し合いまでには、必ず!】
両の手で拳を作り、真面目な顔をして宣誓する。
射程距離こそ伸びたが、『操鱗聞香』は遠くなれば遠くなるほど、枚数を増やせば増やすほど、速くすれば速くするほど、操作の難度が加速度的に上がっていく。そして、意識と実際に大きな齟齬が生じればその瞬間に制御不能となってしまう。じっとしている相手ならばともかく、逃げに徹するローゼレステを飛鱗で追い込んで斬るのはまだまだ難しいだろう。
興奮のせいかじわじわと体温が上がってきたシルティとは対照的に、ローゼレステは冷静に過去の発言を繰り返した。
【殺し合いはしない】
【……そうでした】
【絶対にしない】
【んう……】
取り付く島もない態度にがっくりと肩を落とすシルティを他所に、ローゼレステは飛鱗〈瑞麒〉をじっと観察している。
唐突に魔法『冷湿掌握』を行使。自身の身体を可視化している水珠とは別に水塊を生み出した。
木の葉程度に薄く保たれた五角形の水片。
誰がどう見ても〈瑞麒〉を象っているとわかる形だ。
「んふっ」
シルティは即座に機嫌を直し、太陽のように輝く笑顔を浮かべた。
【いいですね!! 透明な刃物、綺麗です! でも、どうしたんですか? 刃物が欲しくなりました?】
【刃物、というのは、別に欲しくはない。ただ、お前のそれは、悪くはない】
するすると回転を始める水片。シルティを散々楽しませてくれた切断力を有する水円だ。水塊をぶつけるような単純な質量攻撃とは明確に異なる種類の暴力は、水精霊の観点からしても興味深いものだったのかもしれない。
【ふふっ。なんだかちょっと嬉しいです。ただ、斬るのを前提にするなら、もう少し薄くした方がいいかもしれませんね。回してるうちにだんだん形が崩れてますよ?】
高速回転の遠心力によるものだろう、ローゼレステの水円は縁部の厚みが増し、逆に中央部は薄く凹んでいた。これでもシルティの肉体を切削することはできるだろうが、しかし鋭利と呼ぶことはできない。
【これ以上は、難しい】
ローゼレステが溜め息のような響きの声を出した。
硬質な飛鱗と違い、ローゼレステの水円は純然たる液体だ。変形を抑え込むのも限界があるのだろう。かといって、回転速度を落としては元も子もない。
【ふむん。じゃあ、もっと硬くできるように、訓練あるのみですね!】
【……訓、練】
【私が遠くまで届くようになったみたいに、ローゼだっていつかできるようになりますよ!】
なにか思うところがあったのだろうか、ローゼレステはしばらく黙り込み、高速回転する水円を緩く動かしていた。




