漸く
五日後、夕暮れ前。
「おっ!」
今日も今日とて海岸線沿いに歩いていたシルティは、視界に映り込んで来た光景に喜色満面の笑みを浮かべた。
右手側には切り立った海岸。左手側には横に長い岩石質の断崖。現在地は幅が百歩ほどの平地。誰かが手を加えたと言っても信じられそうな綺麗な段差地形である。
断崖によって露わになった地層の隙間からはじわじわと水が染み出し、地面に小川を形成してそのまま海へ流れ落ちていた。考え得る限り最小規模の海岸瀑だ。
小川の途中には不自然な窪みがあり、澄んだ水が湛えられていた。周囲にはいびつに削られた砂岩や粘板岩がいくつも転がっており、人工的な作業の残り香を感じさせる。
シルティは目尻を下げながら池畔にしゃがみ込み、静かな水面を指で弾いて波紋を生じさせた。
「懐かしいなぁ……」
今から一年五か月ほど前、シルティはここで宵闇鷲の鉤爪を研ぎ、鎌型ナイフ〈玄耀〉を生み出したのだ。あの子が居なければシルティは死んでいた。鋸折紫檀の太刀〈紫月〉も生まれなかっただろうし、ひいては重竜に勝利することはできなかっただろう。
小川が視界に入って以降、レヴィンは立ち止まって周囲を見回していたが、やがてのしのしと歩みを進め、シルティの隣に陣取った。前肢を畳んで薄紅色の鼻鏡を水面に近付け、匂いを確認してかられろんれろんと舐め始める。
シルティも両手で器を作り、水を掬ってぐびぐびと飲んだ。美味しい。
濡れた口元を拭ったあと、妹にもたれ掛かるように頭を預ける。
「ここ、覚えてる?」
レヴィンが顔を上げた。中空を見つめ、魔法を行使。シルティを等身大で象った半透明の珀晶が生成される。
そのシルティの模型は鬣鱗猪の革鎧ではなく、かつてノスブラ大陸で発注した跳貂熊の革鎧を身に纏っていた。しゃがみ込んで手元を見つめるような体勢で、その手には製作途中と思しき〈玄耀〉が握られている。
どうやらこの上なく鮮明に覚えているらしい。
シルティはくすりと笑いながら、レヴィンの口元を優しく拭った。
「ほんと、いつの間にか大きくなったねぇ。昔はこの水溜まりで泳げるくらい小っちゃかったのに」
今のレヴィンがかつてと同じようにすれば、この水溜まりは容量の大部分を溢れさせてしまうだろう。
彼女は自身の成長を誇るように喉を震わせながら頸部を曲げ、姉の耳を舐め始めた。
ザーリ、ザーリ。
痛擽ったい感触に思わず笑みが零れる。
「今日はここで寝よっか」
シルティは五指を折り曲げた手櫛で妹の胸元をやや乱暴に梳いた。さらに、甘えるように巻き付いてきた尻尾を扱くように優しく撫でる。尻尾は蛇のようにするりと姉の捕獲から逃れ、逆に手首を拘束してきた。
「この分なら、のんびり進んでも明後日には到着するかな。……また、力を貸してね」
白い牙を剥き出しにして、シルティの耳を噛むような仕草をするレヴィン。今更お願いされるまでもないとでも言いたげだ。
「んふ。ごめんごめん」
当初の予定では船に乗って大海原を虱潰しに移動しつつ、水精霊の魔法『冷湿掌握』の力を借りて〈虹石火〉を探索するつもりだった。だが、レヴィンという優秀な琥珀豹と姉妹になった今ならば船は必要ない。
海の上を走り回るのは空気の薄い上空を走り回るよりずっと楽だろう。
食料についても海上ならば魚を獲ってある程度賄うことができるし、運よく海鳥が集まる鳥山を発見できればレヴィンが数羽纏めて捕獲可能だ。
「いつもありがと。頼りにしてるよ」
ご、る、る、る、る。
耳元で遠雷の響きが轟いた。
◆
二日後、昼前。
シルティたちはひとまずの目的地に到着した。
大海原を漂流中に意識を失ったシルティを優しく受け入れてくれた、懐かしのあの入り江である。
港湾都市アルベニセを出立してから数えると今日は三十四日目だ。琥珀豹に噛み砕かれた前腕の再生時間を除くと大体三十日ほどで到着したことになる。
かつてはこの入り江からアルベニセまで四十一日ほどかかったので、十日以上も旅程を短縮できた。レヴィンがシルティの移動速度について来れるようになったことはもちろん、気の急いたシルティが道中でほとんど休憩を取らずに進んだ影響も大きい。
シルティは水平線を眺めながら深く息を吸い、長く吐いた。
愛する家宝〈虹石火〉と離れ離れになってからちょうど一年半。本当に、漸くだ。
海原に背を向けて森を真っ直ぐに進めば、レヴィンの母親が亡くなった場所へと辿り着く。当時シルティが木々に刻み付けた目印は一年半の年月を経て消えかけているが、注意深く見れば辿ることは不可能ではないだろう。
もちろん、シルティは森へ入ることはしなかった。
レヴィンは親豹との決別を済ませている。その亡骸は結果的に風葬で弔った。ならば、死んだ場所に赴くことに意味などない。強いて言えばこの森自体が親豹の墓である。
(さて)
シルティは懐から小さな布の袋を取り出し、包装を解いて中身を取り出した。親指ほどの大きさの透明な球体。ローゼレステとの繋がりの証明たる契約錨だ。
【ローゼ、力を貸して貰えますか。本番です】
シルティの精霊の声を受け、契約錨が小刻みにぶるぶると震えた。
そう間を置かずにぱッと解け、渦を巻きながら霧散。代わりに、青虹色の球体が姿を現す。
【お久しぶりです】
【ああ。シルティ。……レヴィンも】
ローゼレステが唐突に魔法『冷湿掌握』を行使。レヴィンの鼻先に拳ほどの大きさの水塊が出現した。
無論、これは攻撃ではない。害意などあろうはずもない。だからこそ、レヴィンは過剰に反応した。身体を硬直させつつ大きく後跳。着地すると同時に背中を山なりにし、牙を見せながら被毛を盛大に逆立てる。先ほどまでは安らいでいた山吹色の両目が、今では燃えるような戦意に滾っていた。
【……】
レヴィンの反応を目の当たりにしたローゼレステはショックを受けたように揺らいだ。
推測だが、本人的には挨拶のつもりだったのだろう。非物質の水精霊が霊覚器を持たぬ動物と交流するために物資を用いたのだ。
しかしレヴィンからすると、今のは見えない相手からの完全な不意打ちである。驚いて臨戦態勢に移行するのも無理はない。
【ローゼ。今のはちょっと、近過ぎました。私の腕二本分くらい離れた位置ならレヴィンもびっくりしませんから】
【……ああ。悪かった】
ローゼレステに琥珀豹との交流方法をレクチャーしつつ、シルティは妹の傍に歩み寄った。
「レヴィン。ローゼちゃんが久しぶりって言ってる。今のはレヴィンに見えるように合図してくれたんだよ」
腕を伸ばし、背中や脇腹を丁寧に撫で付ける。
「初めてだからやり方がわかんなかったんだ。謝ってるから、許してあげて?」
レヴィンはちらりと姉の表情を見たあと被毛の逆立ちを抑え、ヴァァーゥン、と控えめに鳴いた。既に警戒心はなく、一目見て友好的な態度であるとわかる。
幸か不幸か、レヴィンは距離感を間違えた一方的交流には慣れっこなのだ。エミリア・ヘーゼルダインの狂気的愛情表現に比べれば、鼻先に水の塊がいきなり出現するくらいは軽いもの。後を引いて怒るようなものではない。
青虹色の球体が嬉しそうに煌めく。
以前から思っていたが、ローゼレステはレヴィンの事をかなり気に入っているらしい。シルティにとっては残念なことだが、客観的に見ても姉より妹への好感度の方が遥かに上である。
【ローゼ。その水と、ローゼの身体を常に重ねておくことはできませんか?】
【……なぜだ?】
【レヴィンがローゼの位置を目視できるようになります】
【ああ……。そうか。わかった】
ローゼレステはすぐさま滑るように移動し、自らの身体と水塊とを完全に重ねた。
「レヴィン。ローゼちゃんはあの水の塊に重なってるから、挨拶してあげて」
シルティの促しに従い、レヴィンは水塊にのしのしと歩み寄ると、鼻を近付けてその匂いをふすふすと嗅ぐ。
【よろしくと言っています】
【……ふふ】
シルティの知る限り、ローゼレステが笑声のようなものを漏らしたのは初めてのことだ。
大層ご機嫌な様子である。匂いを嗅ぐという行為を友好的なものと認識してくれたらしい。
しめしめ。
企みの成功を確信したシルティはにまにまと笑いながらレヴィンの傍まで歩み寄り、頬を並べるようにしゃがみ込んで、妹と同じように顔を近付けて水塊の匂いをすんすんと嗅いだ。
【やめろ】
が、ローゼレステの返答は氷点下であった。
実に嫌そうに身を揺らしながら距離を取る。
【……レヴィンと私で随分と違わないです? 私もローゼちゃんと仲良くしたいんですけど】
【うるさい。幼体にするような呼び方をやめろ】




