猩猩の巣
ローゼレステが生み出してくれた冷たい水で身体を清めたのち、フェリス姉妹は再び森の奥へと進み始めた。
強盗という嬉しいイベントが挟まったが、元々姉妹は新鮮な食料を求めて森の奥へ足を進めていたのだ。人類種の死体を食べないと決めた以上、他の肉が必要である。レヴィンの左目を迅速に完治させるためにも、滋養はたっぷりと摂らせてあげたい。
なお、ローゼレステは氷点下ウイスキーを浴びたあと、有無を言わさず即座に姿を消してしまった。
シルティとしてはもっと交流を重ねて仲良くなりたいのだが……やはり水精霊にとって、こういった森の中は殊更に不快な環境らしい。
先ほどと同様、〈銀露〉で木々に目印を刻みながら可能な限り直進。レヴィンが前を進み、かなり離れた位置からシルティが付いていく。
直進、直進、直進。
足音を敢えて殺さず、ひたすらに直進。
(うーん、襲って来ないな)
この森は蒼猩猩の特異的な生息地であり、ほぼ全域が彼らの縄張りだ。群れのリーダーたるオスは勤勉に縄張りを見回っているので、日中少し歩けば当然のようにオスに発見される。
事実、シルティの精霊の目は樹上で動きを止める虹色の影を何度も捉えていた。
だが、一向に襲って来ない。
太陽が巡り……やがて、空が赤く染まり始めた。
「……休憩!」
まだ夕焼けが始まった程度だが、森の中は既に暗闇と言って差し支えない環境だ。眼球に輝板を備える琥珀豹はともかく、嚼人や蒼猩猩のように昼行性の動物はそろそろ就寝の時間だろう。
「今日はここで休もっか」
レヴィンの合流を待ち、シルティは背中から〈冬眠胃袋〉を分離して地面に下ろした。ぐぅる、と短く了承の返事をしたレヴィンが視線を素早く巡らせ、周囲に希薄な霧状の珀晶を展開する。
かつて削磨狐から模倣した技法と同様のものだが、今回の狙いは突撃してきた相手の目潰しではない。
破壊されたにせよ維持可能時間を超過したにせよ、レヴィンは自身が生み出した珀晶の消滅を即座に認識できる。こうしておけば警戒心の強い相手であれば接近を避けるし、仮に突っ込んできたとしてもすぐさま察知することが可能だ。
要するに、これは鳴子である。最近になってレヴィンが考案してくれたため、シルティは以前よりもずっと気を緩めて睡眠を取ることができるようになった。広範囲に展開しても体積の合計は小さいため、完全防備のシェルターと比べると必要な生命力は遥かに少ない。
定期的に生成し直す必要はあるが、非常に燃費のいい優秀な警戒技法だ。
「ありがと」
シルティが感謝を告げると、レヴィンは頭をゆっくりと下げ、姉に後頭部を見せつけてきた。シルティはくすりと笑いつつ、要望通り耳介の付け根や延髄を強めに掻いてやる。
「にしても、一匹も襲ってこないとは」
姉妹が最後に蒼猩猩を狩ったのはもう二百日も前のこと。霊覚器の構築が完全に完了して水精霊を捜索に行けるようになり、空へ上る準備として防寒具や気付け薬の購入費用を工面するために狙って狩った。
当時はレヴィンも一歳程度で、蒼猩猩を釣るのもそう難しくなかったのだが……今のレヴィンの体格はよほど威圧的に見えるらしい。少々離れて歩いた程度では意味がなさそうだ。
「レヴィンが強くなり過ぎたね」
誇らしげに洞毛を揺らすレヴィン。
「釣るのが難しいとなると、こっちから襲うしかないかな」
霊覚器ならば蒼猩猩の姿を捉えることは難しいことではない。シルティが索敵してレヴィンに位置を伝え、視線が通れば『珀晶生成』で拘束、時間を稼ぎつつ接近して仕留める、という流れがいいだろう。
問題は、隻眼の状態でレヴィンが精密な生成を行なえるかどうかだが……まあ、やってみればわかることだ。
「おやすみ」
◆
翌日。
姉妹は早朝から森の中を直進した。
蒼猩猩を釣ることは諦めたので、昨日と違い一塊になっての進行だ。霊覚器を持つシルティが前で索敵を担い、レヴィンが後方への注意を払う。
そうして、太陽が拳二個分ほど傾いた頃。
シルティが音もなく抜刀した。
唐突に戦闘態勢へと移行したシルティに、レヴィンは全く遅れることなく即応する。鋭く跳躍して後退、シルティの背後に陣取り、四肢を広げて頭を低く。耳介と洞毛を動かし、周囲を探り始める。
指示するまでもなく最適な行動をとったレヴィンを頼もしく思いながら、シルティは霊覚器を強く意識し、左前方へ視線を飛ばす。
(これはなんというか……なかなか気持ち悪い光景だ……)
シルティの精霊の目には、なにも映っていなかった。
木々。草花。虫類や小動物。森は生命に満ち溢れた空間だ。
だというのに、シルティの目の前の空間には、生命力が欠片も存在しない。
虹色がひとつも見えない。ありとあらゆる気配が感じられない。だからこそ、なんらかの影響下にあることがわかる。
(魔法かな。……んん。無理だ。斬れないな)
霊覚器を構築し、形相切断へ至ったシルティと言えど、見えないものを斬ることはできない。
(んー……? こんな魔法を持つ魔物、この森にいたっけな……?)
シルティは〈永雪〉を中段に構えつつ記憶を探った。しかし、この現象に該当するような魔法は思いつかない。
もしかして以前の重竜のように、珍しい魔物が紛れ込んだのだろうか。
と、そこまで考えて。
(あっ)
シルティはようやく思い出した。
(これ、蒼猩猩の巣か!)
蒼猩猩のオスは樹上を木から木へと移動して縄張りを見回るが、メスと仔が引き籠る住処は地上に作られる。これは寝床であると同時に食事処でもあるため、食料である木の葉や草花が減ってくると引越しをしなければならない。
不自然に葉の少ない、あるいは樹皮の剥がれた木、疎らな草、残された排泄物などから、放棄された『住処の痕跡』と思しきものが見つかることは多々あった。
しかし、彼らが屯している『現住処』が発見されることはほとんどないという。
その理由は、彼らが協力して自分たちの姿を隠しているからだ。
シルティがノスブラ大陸で調べた時、蒼猩猩たちの魔法『停留領域』は、体表面からある程度の範囲にある空気を意図的に押し留めることで、自身の発する匂いや音を完全に遮断できる魔法だと聞いていた。
だが、やはり海を隔てると情報の精度や鮮度が落ちるものらしい。港湾都市アルベニセで改めて調べたところ、これは単独の蒼猩猩が魔法を行使した場合の話だと判明した。
複数の蒼猩猩がその魔法の効果範囲を重ねると、音や臭いだけでなく、彼らを識別するためのあらゆる情報を遮断できるようになるらしい。もはや『空気を押し留めている』では説明が付かない現象だが、魔法とは得てしてそういうもの。人類種が現象にそれらしい理屈をつけて説明しようとしているだけにすぎない。
要するに、密集した彼らの姿は、外部からはほとんど完全に認識できなくなるのだ。
魔法の範囲を重ねることで効果を増幅させられる場合がある、というのは、人類種の間では古くからよく知られた話である。
なぜなら、森人たちがそうだからだ。
彼らは単独では短命な霧白鉄を創出することしかできないが、『光耀焼結』の焦点を百人単位で重ね合わせることで光耀を世界に焼き付け、永続する超常金属輝黒鉄を生み出す。
(重なると見えなくなるとは聞いてたけど、まさか霊覚器でも見えなくなるとは……すっごぉ……)
蒼猩猩の住処では常に五匹から十匹のメスとその仔が寄り添い合ってのんびりしているらしい。つまり、彼らの存在感は常に遮断された状態となっているということだ。臭いや音が漏れず、直視しても認識できないのだから、自然界で蒼猩猩の住処を発見する手段はほとんど皆無と言っても過言ではないだろう。
もちろん、住処へ偶然に踏み込む可能性はある。
住処での蒼猩猩の生活がある程度判明しているのは、偶然に踏み込んだ狩猟者が齎した情報を整理したためだ。
(さて……どうしよっかな)
幸い、シルティは霊覚器に映る虚無から逆説的に存在を察知できたが、あくまでそれだけ。目を凝らしても蒼猩猩を捉えることはできない。
当然だ。重複する『停留領域』は自分たちの発する存在感のみを遮断する。つまり、内側に居る蒼猩猩とシルティの間に障害物がなく、視線がばっちり通っていたとしても、外からは蒼猩猩たちだけが透明になったかのように観測されるのだ。
効果範囲に踏み込んだ瞬間、目の前に両腕を振り被った蒼猩猩が待ち構えているかもしれない。
「んふふ……」
望むところである。
シルティの反射神経と動きのキレの見せ所である。
シルティは真銀の太刀を右肩に担ぎ、半身になった。本当にいい太刀だ。どんな持ち方をしても手に馴染む。
「レヴィン。見えないけど、多分あそこに蒼猩猩が何匹か居る。突っ込んで斬るよ。私の後ろから来て」
レヴィンが静かに牙を剥き出しにした。やる気は充分だ。




