蛮族が食わぬもの
血腥い香りの漂う森の中、シルティは腹這いになったレヴィンの左瞼を持ち上げていた。
「んー……」
レヴィンは目隠しの内側で目を瞑っていたらしい。そこを目隠しごと貫かれてしまったので、瞼が縦に大きく裂けている。当然、眼球も完全に潰れていた。
血液と硝子体や房水の混ざったゲル状のものが垂れている。琥珀豹狂が見れば卒倒しそうな光景だ。
「ちょっと我慢して」
シルティは水筒の水で右手を洗うと、レヴィンの眼窩に人差し指を挿入した。慎重に指先を動かし、水気を帯びた悍ましい音を立てながらゲル状物質を掻き出していく。
「目を潰されるの初めてだっけ。再生の練習ができてよかったねー。レヴィンは琥珀豹だから、多分、人類種と殺し合うときは目を狙われるよ」
ご、る、る、る、る。
朗々と響き渡る遠雷の音。洞毛は少し上向きになり、丸い耳介は真っ直ぐ真正面に向けられ、尻尾はぴんと立ってぶるぶると震えている。治療を受けている上半身は全く動いていないが、全身の至る所で歓喜を表していた。
戦闘終了後からずっとこの調子だ。どうやら『〈永雪〉より妹の方が大事』と姉が即答したことが殊更に嬉しかったらしい。
当然、シルティはそんな妹の様子に気付いていたが、ちょっと気恥ずかしかったので努めてスルーしていた。
「んーんん、おっ。あのお姉さん、巧いなぁ」
霧白鉄のスティレットが犯したのは瞼と眼球のみで、眼窩は完全に無傷。見た目こそ惨いが、その実、無駄な破壊がほとんどない。非常に再生し易い綺麗な傷口だ。
他の傷も見る。前腕、肩、胸郭、脇腹、臀部、全て軽傷と呼べるもの。眼球はともかく、身体の傷は今日中に完治できるだろう。
シルティは荷物から救急箱を取り出すとレヴィンの左目に適当な処置を施した。
隻眼となったレヴィンは左前腕の傷をざりざりと舐めたあと、のっそりと立ち上がる。少し重心の偏った動きで身体をブルブルと震わせた。
全身を真っ赤に汚していた森人の血や臓物が幾分か降り落とされたが、まだまだ血塗れと呼ぶべき様相だ。
「あー。出発したばっかりなのに、汚れちゃったねえ」
最悪海水でもいいが、できれば真水で身体を洗いたいところ。しかし、猩猩の森は地質の関係なのか川がほとんど流れていない。
遭難していた頃はどうしようもなかったが、今のシルティはれっきとした水霊術士だ。どうしても真水が欲しいならば水精霊を呼べばいい……などとシルティが考えていると、レヴィンが真っ二つになった森人の死体に顔を近付けた。
ふすふすと匂いを嗅ぎ、喉を鳴らす。
そして、嬉しそうにシルティの方に視線を向けた。
無事な右目、山吹色の虹彩の中で、黒い瞳孔が大きく広がっている。戦闘の余韻に血肉の匂いが重なり興奮しているようだ。しかし、食欲のままに牙を立てようとはしていない。
森人の女も鉱人の男もシルティが勝った。ゆえに、最初に食べるべきは姉だ。そう思っているのだろう。
シルティは苦笑した。
腕を伸ばし、レヴィンの鼻面を擽る。
「レヴィンが食べていいよ。私、人類種は食べないから」
レヴィンは喜びの表情を見せたが、一瞬後、首を軽く傾げた。
襲ったにせよ襲われたにせよ、これまで仕留めた獲物は全て食べてきた。無論、換金する部位については口を付けなかったが、削磨狐のように全身の提出を求められる獲物でも端肉の摘まみ食いくらいはした。だというのに、シルティはこの森人を食べないと言った。
食べないなら食べないで別にいいが、その理由がわからない。そう思っているのだろう。
「んーとね」
シルティは自分の頤に触れつつ、蛮族に伝わる伝説を語り始めた。
森人ですら何度か代替わりするほどの遥かな古代。
ノスブラ大陸北東端、険しい山の麓に根を下ろした少数の嚼人たち。
鍛え上げた肉体を頼りに狩猟採集生活を送る中で、彼らはとある思想に行き着いた。
草木は動物に食われ、動物は動物に食われ、最後は糞尿や腐肉となって土に還り、それが草木を育てる。これが自然における命の流れである。
だが、魔法『完全摂食』を宿す嚼人は新生児と老衰者を除き排泄を行なわない。嚼人という魔物は生きている間、ひたすらに奪うだけの動物なのだ。
これではあまりに申し訳ないではないか。我々は育まれるだけの子供ではないのだ。大いなる流れに少しでも命を返さなくてはならない。せめて死後は森で他の動物に食われ、排泄物として土に返り、骨まで朽ちるべきだろう、と。
言うまでもなく、この古代嚼人がシルティたち蛮族の始祖である。
この思想は文化としてしっかりと継承されており、現代でも蛮族は亡骸を森の奥に安置し、鳥獣や虫たちに食べて貰うという完全な風葬で故人を弔う。
まあ、五体満足な戦士たちは己の死期を悟ると戦装束という死装束を纏って森の奥へ向かうので、こうして葬られるのはほぼ非戦闘員に限られるのだが、ともかく。
死んだ人類種は食べずに自然に返す、これが蛮族の掟なのだ。
なお、対象が嚼人限定ではなく人類種に変わっているのは、外部との交流が盛んになるにつれて自然と拡大されたらしい。
森人にせよ鉱人にせよ岑人にせよ、故人を食べるという行為は非常に悍ましく感じるようなので、それに合わせたのだろう。
「だから私は人類種を食べない。でも、レヴィンは食べていいよ?」
シルティが妹の後頸部をぽすぽすと撫でると、レヴィンは鼻面に皺を寄せながらフスンと鳴らし、顔を背けて姉の手のひらから逃れた。回避の動きを脊椎に沿わせて流し、加速させた長い尾の先端でシルティの頬をぺしりと叩く。
それが掟なら自分も従うに決まってるでしょ、と言いたいらしい。
彼女の自意識はもはや、琥珀豹である前に蛮族なのだ。
「んふ。そっか。ごめんごめん」
シルティはレヴィンににじり寄ると無遠慮に抱き着き、両腕でわしゃわしゃを身体を撫で回した。レヴィンは身体をくねらせ、その抱擁から逃れようとする。少々拗ねてしまったようだ。
「ごめんってー。拗ねるなよお」
シルティはにやにやと笑いながら四肢を柔らかく使って妹に纏わり付く。すると、レヴィンは顎を大きく開いて無礼な姉の肩口をがぽりと咥え、やや強めの甘噛みで応えた。さらに、鉤爪を少し剥き出しにした前肢でシルティの頭を抱え込む。
体格差のある姉妹の軽いじゃれ合いは、森人の血と臓物に塗れていることを無視すれば、実に微笑ましい光景である。
◆
「さて、と」
しばらくして満足したのか、シルティは視線を上に向けた。
森人がチャクラムで開墾してくれたので空が広く見えている。
「ローゼちゃん呼んで水浴びしよっか。少し上に登れば来てくれるよね、多分。階段作ってくれる?」
座標の精度はかなり落ちてしまうが、魔法『珀晶生成』は隻眼でも行使可能だ。
レヴィンが生成する足場を二十段ほど登り、樹冠を眼下に見る高さに小さな浴槽を作る。水精霊の魔法『冷湿掌握』ならばこの浴槽を清潔な水で満たすことぐらい容易いだろう。対価としてローゼレステに支払うウイスキーは充分に用意してある。というか、持ち込んだ荷物の三割か四割ほどは酒だ。無論、〈冬眠胃袋〉で限界まで冷却済みである。
その中央部に降り立ち、懐から取り出した小さな水珠――契約錨に水精言語で呼び掛けた。
【お久しぶりです、ローゼ。今、少しいいですか?】
四拍ほど経ち、水珠が小刻みにぶるぶると震えた。無事に伝わったようだ。
鎚尾竜狩りの最中はローゼレステを呼ぶ機会がなかったので、実に約四十日ぶりの再会である。シルティはにこやかな表情を浮かべてローゼレステの登場を待った。
摘まんでいた水珠がぱッと解け、渦を巻きながら霧散。
そう間を置かず、シルティの霊的視界に仄かな青虹色が映った。
【なん……、ォ、ヴェッ!! 臭ッ!! な……おン……きさ……汚物!!】
久々の挨拶は、言葉にならぬ罵声であった。