負けたなら死ぬのが普通
「すー……、ふぅー……」
シルティは襲撃者の手管に感嘆の吐息を漏らしていた。
(綺麗だったなぁ)
逃走の最中に追い付かれ、背後から一撃を貰って無様に転がされたように見えた森人の女。だが、その後の動きに混乱した様子はなく、むしろ流麗であり、転倒によるダメージも全く見受けられなかった。レヴィンが喉元に喰らい付いた瞬間ですら焦燥する気配がなかったのだ。プレートアーマーを着込んだ自分に若い琥珀豹の攻撃など一つも通用しない、そう確信していたからに違いない。
爪どころか牙すら防げる強靭な鎧を着込んでいるということは、レヴィンの接近を阻む必要などなかったはず。だというのに、彼女は躱されるばかりの投擲を執拗に繰り返し、膠着状態を作っていた。
琥珀豹は敵ではない。だが、鉱山斧ごと首をぶった斬るような狂人には勝てない。おそらく、そう思ったのだろう。
ただ逃げても追いつかれて斬られる。かと言って、琥珀豹を殺せばそのあとで斬られる。確実な生還のためには狂人から戦意を奪う手段が必要。ゆえに、無様に逃走する後ろ姿を見せてレヴィンを誘惑したのだ。
まだまだ経験の浅い愛妹は、戦闘の興奮に脳が茹だっていたこともあってまんまとその餌に食い付いてしまい、こうして逆に組み伏せられてしまった。
「真銀の太刀を地面に置いて、遠く離れなさい」
森人は後頸部に突き付けたスティレットはそのままに、左手に持った方をレヴィンの前腕に当て、そのままゆっくりと押し込んだ。鋭い切先で頑丈な被毛を掻き分け、皮膚に到達させる。これ見よがしに手首を動かし、ぐりぐりと抉った。
「じゃなきゃ……わかるでしょ?」
兜のせいで若干くぐもっているが、相手を嘲るような声音であることはわかる。おそらくにやにやと笑っているのだろう。
強者を殺すために、強者にとって大事な弱者を盾にする。いわゆる人質というやつだ。野生の動物たちにはあまり通用しないが、充分な知性を持つ相手――人類種を殺す手段としては非常に有効である。
人類種的な観点では一般的に忌避されることの多い戦法だが、しかしもちろん、蛮族がこれを卑怯だと思うことはない。
形振構わず勝利を求める純真無垢な殺意が実に美しい。
なので、シルティは〈永雪〉を八相に構えた。
「ちょっと」
森人の女が見せしめのようにスティレットを突き立てる。
琥珀豹の前腕に音もなく飲み込まれる細い剣身。目隠しをされたレヴィンの鼻筋に深い皺が刻まれた。体内から生命力を持続的かつ直接に散らされているのだ。その不快感は致命的と呼ぶべきものである。このまま放置すれば四半日も持たない。
「聞こえなかったの? こいつ、殺すわよ」
「いいですよ」
シルティは、穏やかに、幸せそうに、事も無げに了承を告げた。
「は?」
「その子はもう戦士ですから」
かつて、レヴィンはシルティにとって『守るべき弱者』であった。幼く弱い頃のレヴィンならばシルティは自分の命を差し出してでも助けようと尽力しただろう。
しかし、今のレヴィンは既に充分な強者だ。立派な戦いを演じ、そして敗北した、一人前の戦士である。シルティが必要以上に過保護に守るのは、レヴィンに対する侮辱となりかねない。
「殺し合いで負けたなら死ぬのが普通ですよ」
レヴィンが小さく唸り声を上げた。弱弱しいが、肯定の響きだ。
顔を歪めてはいるものの、それは霧白鉄の霧散作用に対してであって、森人の女に対する嫌悪や敵意は皆無である。
「ほら、レヴィンもあなたに殺されるならいいよって言ってます」
「な、ん……」
「レヴィンは一対一の殺し合いで全力を出して負けました。まあ、一個二個の悔いはあるかもしれませんが。命を惜しむ気持ちなどあるはずもありません。……それはさておき」
シルティの両目は爛々と輝き、真銀の刃は虹色の揺らぎを孕んでいる。
「素晴らしい腕前ですね、お姉さん。そんなに早く創る森人には初めて会いました。レヴィンに止めを刺したら、次は私とやりましょう」
プレートアーマーが擦れる音が完全に止まった。森人の女が動きを止めたのだ。表情は見えないが、唖然としているらしい。
「……酷い女ね。猟獣より、たかが刃物の方が大事だと言うの?」
「んむん? レヴィンの方が大事ですよ。でも、レヴィンがそれを望んでいませんから」
「……脅しじゃないわよ」
「え? はい。無論です」
直後、森人の左手が動く。スティレットを容赦なく無作為に突き立て、レヴィンの身体に穴を穿った。
前腕、肩、胸郭、脇腹、臀部。そして最後に、レヴィンの視界を塞いでいた霧白鉄製の目隠しへと突き刺す。
ギキッという耳障りな金属音を響かせつつ貫通。顔と目隠しの隙間から血の帯が垂れる。脳にまでは達していないが、左眼球は完全に潰れただろう。
「もう少し押し込めば。本当に、死ぬわよ」
最後通牒。
「はい」
だが、シルティは全く焦る様子を見せない。
森人の女は再び動きを止め、三拍ほど経ってから、ゆっくりと立ち上がった。背中を押さえ込む右足はそのままなので、レヴィンの身体を拘束している霧白鉄製の金網はまだ崩壊していない。だが、琥珀豹が人質としての役割を果たさないことは理解したらしく、その視線と意識は完全にシルティへと注がれている。
そして、ゆっくりと、その頭が下げられた。
「……申し訳ありません」
「え?」
「見逃してください」
まさかの謝罪である。
「んん……」
シルティは悩んだ。
彼女は強盗という行為に対して特に嫌悪感を持っていない。一応常識として、強盗は重大な犯罪であるという知識は持っているが、正直なところでは『強盗と狩猟は大差ない』と思っているからだ。
シルティは蛮族の戦士であり狩猟者。大抵の生物にとって最も大事な命を無理やり奪うことで生きている。ゆえに、物品や金銭を求めて暴力を行使することを否定するつもりはない。蛮族の常識では、欲望を叶えるために暴力を使うことは悪いことではなかった。
今も、森人の女に対する殺意はあるが、敵意はない。
港湾都市アルベニセの治安を考えれば、再犯を防ぐためにも捕縛あるいは殺害しておくべきかもしれないが、シルティはそこまで考えが至らなかった。
見逃してくれと言われたならば、別に見逃してもいい。
「うーん……」
だが、それはそれとして、折角なので森人の女とは戦いたかった。
「じゃあ、死なない程度に模」
「ッ」
シルティの言葉を遮るように吐かれた無音の呼気。
半瞬後には、シルティの眼前に霧白鉄の杭が存在していた。
どうやら森人の女は負けを認めたような会話で気を逸らしつつ殺す機会を窺っていたようだ。殺しを諦めない姿勢は素晴らしい。投擲動作の見事なキレと発言に被せる絶妙なタイミングが相まって、神業と呼ぶべき不意打ちが実現された。
「んッ」
しかし、シルティは首を傾げることであっさりと回避する。
得物を構えた蛮族に油断など存在しない。さらに振り回した頭の慣性を体内を通して真下に落とし、右足へ。地面を粉砕して加速、投擲を終えた姿勢の森人に肉薄する。
大上段。
「ふッ」
回避など叶わぬ神速の雷刀。
鉛直に墜落する斬撃が森人の頭頂部を捉え、兜の丸みをものともせずに割断した。
真銀の殺意は霧白鉄の装甲を冗談のようにすぱりと切開し、筋肉と骨格、そして臓器を殺しながら股下へと抜ける。
直後に、一歩退避。万が一の反撃を避ける。
プレートアーマーを纏った相手を両断する、お手本のような唐竹割りだ。
森人の身体は正中線に沿ってずるりと滑り、そのままレヴィンの上へと転がった。




