軽食
ひたすら泣いて。
やっちゃったもんはしょうがない、とシルティは自らに強く強く言い聞かせ、なんとか涙を引っ込ませた。
泣いている暇はない。今後について考えなければならない。
輝黒鉄という金属はとにかく重い。めちゃくちゃに重い。鞘に収まったまま海流を真っ直ぐに貫き、海底まで到達したに違いない。しかも、決して錆びず、ほぼ朽ちることもない超常金属である。少なくともシルティが生きている間くらいは、〈虹石火〉は海底で健在だろう。
状況は絶望的だが、完全な絶望ではない。
この砂浜を中心として虱潰しに探し回ることができれば、いつかはきっと見つかる。
問題は。
「海って……水が多いなー……」
砂浜に胡坐をかきながら、シルティはしみじみと呟いた。
目の前に広がる穏やかな大海原。この無限にも思える海水こそが、シルティに立ち塞がる巨大な壁である。心肺機能と身体能力に任せた潜水では海底を浚うことなど到底不可能。砂漠の中から一粒の砂金を探す方がよっぽど簡単だ。
この海水をどうにかしなければ。
シルティに思いつく手段は、一つだけだった。
(精霊術、しかない、かなー……)
『精霊術』と呼ばれる特殊技能、あるいは取引形態が存在する。
端的に言えば、精霊種と呼ばれる魔物になんらかの対価を支払い、少しばかりの仕事を熟してもらう、というものだ。
精霊種たちは紛れもない生物だが、物質的に肉体を持っておらず、存在そのものが超常に大きく踏み込んでいる。そのためか、嚼人のような肉体を持つ魔物の魔法に比べて精霊たちの魔法は、引き起こす現象に対して当人の意思が非常に深く及ぶらしい。つまり、ずっと応用が利くのだ。
精霊種の一種、水精霊たちがその身に宿す魔法『冷湿掌握』を借りることができれば、〈虹石火〉が沈んでいる場所をある程度絞り込むことも可能だろう。
絞り込んだ地点に行く手段にも当てがある。かつてシルティは、水精霊と風精霊を協調させれば、水中での呼吸を確保することもできると聞いたことがあった。
かなり繊細で困難な技術らしいが、今は不可能ではないというだけでもありがたい。
とはいえ。
「はぁあぁぁ……」
シルティは大きく溜息を吐いた。
シルティが精霊術の恩恵を受ける手段は二つ。
精霊術を行使することのできる者――霊術士の助力を請うか。
今から努力して、シルティ自身が精霊術を習得するかだ。
精霊術は努力と研鑽によって後天的に身に付ける技能だが、気の合う精霊の個体と出会えるかどうかという運の要素も大きく絡む。そもそも精霊種の個体数が少ないと言うこともあり、完全な意味での習得の難度は非常に高かった。天から才能を与えられた人物が、血の滲むような努力をしていても、最終的には気の合う相手と出会えなければ使えないのだ。
仮にシルティが単独で〈虹石火〉を回収しようとするならば、精霊術の前提となる諸々の技能を身に付け、さらに水精霊と風精霊、二匹の精霊種と仲良くならなければならない。
何十年かかるかわかったものではなかった。
しかし、専門家に助力を請うと言う手段にも、ひとつの大きな問題がある。
霊術士は得てして高給取りなのだ。
習得難度の高さもあって、霊術士の数はとても少ない。大きな都市にも一人二人いれば良い方だ。需要に対して供給が全く追い付いておらず、当然ながら彼らの技には高値が付けられる。ほとんど当てもなく海の底を浚うなどという馬鹿げた仕事に、果たしてどれほどの報酬が必要なのかシルティには見当もつかなかった。もしかしたら、新しく輝黒鉄製の太刀を打たせる方が安上がりかもしれない。
だが、それでも。
シルティは先祖伝来の〈虹石火〉を諦めるつもりなどさらさらなかった。
どれほどの時間がかかっても、絶対に回収してみせる。シルティの瞳は信念に燃えていた。
(お金、稼ごう……)
とりあえず、運が大いに絡む精霊術の習得よりも、時間はかかるが確実に積み上げられる金銭に狙いを定めることにする。仮にのちほど習得へ舵を切るにしても、精霊術の勉強にはお金がかかると聞くから、資金はいくらあってもいいはずだ。
金銭への欲望を滾らせながら、シルティは改めて自分の身体を確認した。
船に乗り込んだ当時は諸々の所持品を詰め込んだ雑嚢を背負っていたのだが、沈没時には客室に置いていたため、今頃は海を漂っているだろう。
現時点でシルティの財産と呼べるものは、身に付けた革鎧、鎧下……つまり上下の服と、そして肌着のみ。靴は、ただ浮いているだけならばともかく長い距離を泳ぐには邪魔だったので、途中で脱ぎ捨ててしまった。素足だ。
誇張抜きで着の身着のままである。
(鎧はー……もうだめかぁ……)
シルティが身に付けている革鎧は跳貂熊という魔物の革で作られている。船に乗る少し前、シルティ自身が狩って解体した跳貂熊の革で発注したオーダーメイドだ。
尋常ではなく軽く、それでいて頑丈というお気に入りの逸品だったのだが、少なくとも十日以上は海水漬け。日光にも晒しっぱなし。鮫との戦闘も繰り返した。醜い斑模様が浮かび、全体的にふやけており、縫い目が千切れてしまっている箇所がいくつもある。
これではただのゴミ寸前の革だ、本来の性能を発揮することなど夢のまた夢。
補修したとしても焼け石に水だろう。なにをしても元通りにはならない。
(作ったばっかりだったのになー……高かったのになぁあぁぁ……)
シルティはうっすらと涙を浮かべ、陰鬱とした溜息を吐きつつ、鎧を可及的速やかに乾かすことにした。こんなものでもゼロよりはマシ。引き続き着用した方がいいだろう。
鎧を外し、鎧下と肌着を脱ぎ、やたらと豊かな乳房や瑞々しい尻を惜しげもなく晒して全裸になる。シルティも蛮族なりに若い娘ではあるので肌を晒すのには抵抗があるのだが、そんなことを気にしている場合ではない。
鎧下をしっかりと絞り、幾分水気の抜けた鎧下で鎧を丹念に拭った。拭い終わったら再び絞り、鎧下の水気を切る。できれば真水を使いたいが、今は海水しかない。
現状で可能な限り水分を取り除いた革鎧を、適当な日陰で干す。改めて絞った鎧下と肌着は、波打ち際から離れた砂浜に広げて乾かしておく。
ちなみに、千切れた剣帯は持っているのも嫌だったので、沖へ向かって全力で投げ捨てた。
八つ当たりという自覚はある。
(とりあえず、お腹空いたな)
それから、シルティは海へと入った。
嚼人はその身に魔法『完全摂食』を宿しているので、腹を満たすだけならば足元の砂でも問題ない。
問題ないのだが、砂はとても不味い。
どうせ食べるなら美味しいものの方がいい。
例えば、魚だ。軽く見渡しただけでもいくつも魚影が見える。
シルティは海面が肩を超え、顎下の辺りになるまで足を進めると、海中で両の手を握り込み、強固な拳を作った。
そして、身体の動きを完全に止め、しばし待つ。
周囲の魚がシルティという異物に慣れ、身体の至近に寄ってきたのを見計らい、
「ふォラッ!!」
裂帛の気合いと共に、拳同士を打ち合わせた。
腕の動きに由来する遅く大きな波と、拳の衝突から生まれる細かいノイズのような高速の波が、シルティを中心として同心円状に広がっていく。
耳に聞こえるようなはっきりとした音はなかった。音源が水中にあるためだ。水と空気の境界面では音波はほとんど完全に反射されてしまい、透過波は千分の一以下にまで弱められる。
だが、空気中での静かさとは裏腹に、海面下では甚大な暴力がそこに棲む者たちを蹂躙した。
(おー、結構いたなー)
すぐにシルティの周囲に魚がぷかりと浮かび上がってきた。拳を打ち合わせた際の強烈な衝撃を受け、至近距離を泳いでいた魚が気絶したのだ。
変則的な石打漁(ガチンコ漁、ガッチン漁などとも)とも呼べるこのやり方は、道具を使わずに手っ取り早く魚を得られるので、シルティの故郷では一般的な手法だった。
与える衝撃があまりに強すぎると、魚たちの浮き袋が破裂して即死し、水底に沈んでしまう。だが、巧く力加減することでこうして気絶にとどめることができ、水面に浮かんでくるので捕獲も容易になるのだ。シルティもこの微妙な力加減を覚えるまでかなり練習を積んだものだった。
無差別な漁法のためやりすぎると魚を根絶させてしまうが、節度を持って行えば問題ない。
(※日本では衝撃を利用して魚を気絶させるような漁法は大体禁止されています)
シルティは気絶して浮かんでいる魚をつまみ上げると、鰓の辺りで首を圧し折って殺し、次々と砂浜へ投げていく。血抜きもやっておきたい所だが、もたもたしていると気絶から覚めた魚が逃げてしまうので後回しだ。手の届く範囲に浮いていた魚を素早く締め、砂浜へ戻る。
浅瀬に住むような小さな魚ばかりとはいえ、七匹も獲れた。軽食としては充分だろう。
砂浜に散らばる七匹の漁獲物を拾い集め、波打ち際へ運び、適当に砂浜を掘って雑な潮溜まりを作ると、ぼちゃぼちゃと魚を放り込んだ。魚の死骸から血が流出し、海水が赤く染まっていく。
シルティはその傍らに胡坐をかいて座り込み、魚の下処理を始めた。
獲れた魚は見たところ四種類で、どれも初めて見る魚種だ。細長かったり平べったかったり鋭利なヒレが生えていたりとそれぞれ身体の形が違うが、このぐらいのサイズの魚の処理方法はどれもおおよそ同じである。
まずヒレを引き千切る。ヒレに毒を持つ魚は珍しくない。嚼人は毒を食っても全く平気だし、口の中を毒針で刺されようとも屁でもないが、口の外……唇などを毒棘に刺されれば普通に痛いので、ここは慎重に行なう。
鱗は基本的に食感が良くないので、海水に浸しながら爪をガリガリと立てて丁寧に掻き落としておく。
肛門に指を突っ込み、首の断面まで千切るように腹を引き裂く。大抵の場合、魚の内臓は臭みと苦みが強くあまり美味しくないので、全て掻き出して捨ててしまう。
腹腔の中を良く洗い、爪で腹膜をできるだけ削り落として、完成だ。
一本のナイフすらない現状とはいえ、せっかくなのだから美味しくなるように尽力する。
シルティはよほどのことがない限り、調理に関する手間は惜しまないようにしていた。
一匹目、手のひらに収まるほどの小さな魚の処理を終え、そのままばくんと食べる。
(おっ? この魚、結構美味しいな)
脂は少ないが、臭みは全くなく、身は硬めでコリコリとした食感がある。中骨も柔らかく、ボリボリと容易に噛み砕けた。
随分と長いこと、ほぼ海水のみで暮らしてきたのだ。この魚も味付けとしては海水なのだが、やはり固形物は満足度が違った。心の奥底から震えるような活力が湧いてくる。
次の魚の下処理を進めながら、シルティは空を見上げた。
ほぼ真上にある太陽の位置からして、現時刻は真昼だろうか。
(と言うか、ここ、どの辺なんだろう……)
今後の方針は決まっている。
霊術士を雇い、この海原から〈虹石火〉を捜索する。
そのために、積極的に金を稼ぎに行く。
だが、そもそもここがどこかすらわからない。
果たして、近くに人里はあるだろうか。