少しだけ引いた
世界最強の六肢動物の一種、鎚尾竜を無事に仕留めたシルティたち一行は、勝者の特権を教授した。
つまり、鎚尾竜の血を飲み、左後肢の肉をちょっぴり食べた。
レヴィンが生成した珀晶製の調理器具を用いて、刺身にしたり、塩を振って網焼きにしたり、胡椒醤油で味付けした血で炒めたり。
生肉や生き血の摂取は嚼人以外の人類種には推奨されない。嚼人や鎚尾竜の血は飲ませたが、あれは緊急事態ゆえの救命処置だ。必要がないのであれば、刺身をカトレアに食べさせるつもりはなかった。
だが、当人が目を血走らせて『食べさせてくれないと死ぬ』とまで言ったので、仲良く三人でご賞味である。
せめて食べやすいよう可能な限り細かく切ったため、刺身というより膾(たたき)と呼ぶべきものとなったが、これはこれで醤油が絡んでとても美味しい。
鎚尾竜の後肢は目の覚めるような鮮やかな赤身肉で、個体差かもしれないが重竜と比べると肉質が柔らかく、豊富な旨味と独特の臭みがあった。臭みと言っても獣臭とは全く異なっており、癖はあるが決して不快なものではない。
人類種的な味覚では血炒めが最も美味しく感じられたが、レヴィンは血の滴る生肉塊を貪る方を気に入ったようだ。どちらにせよ血が絡んだ肉が美味しい。まだ二種しか賞味していないが、竜の血は単独よりも肉と合わせた方が美味しい傾向があるのかもしれない。
充分に味わったら残る死骸を丁寧に解体し、三者の〈冬眠胃袋〉に収納する。一行の荷物はレヴィンが上空に生成した珀晶製倉庫に保管していたため、鎚尾竜の広域殲滅からも生き残っていた。
鎚尾竜は巨体だが、三人で上手く分担すれば死骸の全てを収納することもできるだろう。レヴィンの〈冬眠胃袋〉は人類種が背負うものよりも随分大きいし、カトレアのものも天峰銅の膂力で持ち運ぶことを前提にした大型品だ。
しかし、カトレアは率直に言って半死半生。金肉も随分と減ってしまった。彼女の負担はなるべく少なくしたいところ。
冷蔵必須の部分は〈冬眠胃袋〉に収納しなければならないが、両肩の棘や尾骨鎚など、いくつかの部位は骨質で腐敗しにくい。容量の節約のために、これらの部位はフェリス姉妹の〈冬眠胃袋〉に縛り付けて持ち帰ることにする。
「……ふふ」
シルティは根本から切り離した肩棘を両手に持ち、蕩けた視線を注いだ。
優美な弧を描く煤竹色の骨。改めて見ても実に唆られる色合いである。表面は滑らかで、布で少し磨くと美しい光沢を宿した。指先を棘の先端に押し付ける。さすがにこの状態で皮膚を貫くほどではないが、十二分に鋭く、そして硬い。
鎚尾竜は素材自体ではなく売却した売値を山分けする約束だ。しかしシルティはなにがなんでもこの棘を刃物に加工したくなってしまった。カトレアが十二分に回復したら交渉しよう。一本とは言わない。先っぽだけでいい。〈銀露〉に不満があるわけではないが、もう少し小振りなナイフも欲しいと思っていたのだ。
さて、芯には脂肪質で薄赤色の骨髄が詰まっている。ここは腐るので取り除かなければならない。
ひょいと空中に放り投げ、〈銀露〉を一閃。根本から先端まで綺麗に縦割りにした。髄が詰まっているのは根本の四半分だけのようだ。
ただ捨てるのも勿体ない。レヴィンに器を生成して貰い、刮ぎ取った骨髄を入れて軽く潰す。
塩と胡椒を振り、指先に付けて味見。
「んっ。美味しい」
脂肪が非常に多くてとぅるとぅるしている。美味しい。が、焼いた方がもっと美味しそうだ。頻りに口元を舐めているレヴィンに再び調理器具を作って貰い、軽く蒸し焼きにする。
「カトレア、髄食べる?」
「う、ん」
「ん。ちょっと待っててね」
「……はぁぁ……」
骨髄を調理するシルティの横で、珀晶製ベッドに仰向けに寝たカトレアが万感の籠った息を吐いた。
ついに成し遂げた竜殺し。嬉しすぎる。めちゃくちゃ高価だった『空想顔料』の魔道具や、長年かけて蓄えてきた自前の天峰銅の大半を失ってしまったが、そんなことは毛ほども気にならない。魔道具は鎚尾竜素材の売却で得た資金でまた買えばいいし、天峰銅は分泌すればいいだけのこと。知り合いの岑人に対価を払っていくらか分けて貰うこともできる。『咆光』で削られた左上腕は再生するのに年単位の時間がかかりそうだが、どうせ岑人は分泌した手足で生活しているのだ。問題にはならない。
今はただ、噛み締めよう。
目を閉じる。
フェリス姉妹が鎚尾竜を解体する場面はしっかり見せて貰った。
陽光の透ける赤い瞼の裏に鎚尾竜の姿を思い描く。分厚い装甲。凶悪な尾骨鎚。重たい筋肉。真っ赤な血液。見た目は人類種のものとそう違わない臓器。そして、四肢動物のそれとは本数も形状も随分違う骨格。
視覚を土台として他の情報を上乗せする。匂い。味。香り。手触り。この身に許された全ての機能を使って獲得した全ての情報を全力で反芻し、己が根源に深く刻み込んだ。
自らの内側へ意識を向ける。
形と色のある想像上の鴛鴦鉞を操り、形も色もない空想上の根源を分断。刻み込まれた鎚尾竜ごと意識の手綱を手放す。
軛から解き放たれた我が子はのんびりとした様子で欠伸をし、尾骨鎚をゆったりと左右に振った。
目を開ける。
日除けとして生成された珀晶を背景にして浮かぶ小さな鎚尾竜。黄金色が透けていない。もはや想像というよりは幻覚と呼ぶべき現実感を伴っていた。
首を回し、先ほどまで己が倒れ伏していた場所へ視線を向ける。
生命力導通を失い、単なる液体金属として地面に広がる天峰銅。
あれも僕だ。
おいでともお行きとも取れる曖昧な呼びかけを受け、幻覚の鎚尾竜が空中を歩いた。天峰銅の水溜まりに到着すると首を伸ばして匂いを嗅ぎ、そして、入浴でもするかのように静かに身を沈ませる。
鎚尾竜が沈むにつれ、水溜まりの表面に微かな波紋が広がった。やがて完全に沈み、水面は静かに凪ぐ。いびつな円形をした水溜まりの中央部が音もなく持ち上がり、徐々に小柄な鎚尾竜の形を成していく。
「ふふ。うふッ。ふふ……」
肋骨がぷらぷらなせいで、呼吸するだけで物凄く痛い。当然、笑い声など漏らせば死ぬほど痛い。それでも、カトレアは笑みを止められなかった。
最初の疑似鎚尾竜を問答無用で消し飛ばされた理由が、今ならわかる。外見の精度ではなく、骨格構造の理解の薄さが致命的な嫌悪感を与えてしまったのだろう。
鎚尾竜の最大の特徴と言える部位、尻尾。
カトレアは重竜や鎌爪竜の尾を参考にして外見上の動きを似せていたが、実際の鎚尾竜のそれは尾椎の神経棘や血道弓が遥かに発達しており、翼状突起も極端に大きく、太い筋肉が強固に接続できるようになっていた。また、レヴィンの尻尾のように自由な可動域を持つことから柔軟な腱を持つと考えていたが、実際にはほぼ骨と言えるような堅固な腱を持っていたのだ。
また、中肢の構造も想像とは違っていた。重竜にせよ鎌爪竜にせよ四翼竜にせよ、四肢竜と呼ばれる六肢動物は中肢が退化しており、完全に消失するか、痕跡器官を残すのみとなっている。鎚尾竜も外見上は痕跡器官しかない。しかし、中肢の基部である中肢帯は未だ強固なものが残っており、多くの筋肉が接続されていた。中肢を動かすための筋肉というより、上半身と下半身の動きをしっかりと連動させるためのもののようだ。鎚尾竜の軽やかかつ重厚な尾撃はこの中肢帯によって支えられているのだろう。
今思えば、よくもまああんな完成度で竜の感覚を欺けるつもりだったものだ。思い上がりも甚だしい。
だが。
次は。
いける。
傍に寄ってきた鎚尾竜が首をにゅっと伸ばし、カトレアの匂いを嗅いだ。
骨格的に微妙に辛そうな体勢だ。
そんなことしなくてもいいのに。
岑人の少女はふっと苦笑し、無事な右腕を伸ばしてその頭を撫でる。小型の鎚尾竜は嘴のように突き出た口吻を開き、カトレアのほっそりとした指先を甘噛みした。再現されていた舌がちろちろと擽っている。
(……かわい)
以心伝心なフェリス姉妹の生活を連日眺めていたことで、カトレアには強い羨望の感情が芽生えていた。今まではあまり猟獣が欲しいとは思わなかったのだが、賢く可愛らしくそして強いレヴィンという存在はカトレアの意識を完全に刷新したのだ。
そして、これまでの生涯で最も死に近付いたこの瞬間、恍惚と羨望と確信が混ざり合った視界の中、自分と以心伝心で動いてくれる竜の姿を見て――僅かに残っていた『天峰銅を操作している』という意識が、カトレアの脳から完全に消え去った。
疑似鎚尾竜の駆動に際し、カトレアが考える必要はもはや無い。
岑人の少女は今、一切の自覚なしに、遠隔強化の神髄に至った。
「……シル、ティ」
「ん?」
「僕の荷物、もっと増やしても、いいよ。この子が、それくらい、軽いって言ってる」
「そ。……そう? じゃあ、もうちょっとだけね」
このヒトついに天峰銅と会話し始めたぞ、と。
たまに刃物に声をかけることもある自分を棚に上げて、シルティは少しだけ引いた。




