岑人の羞恥心
胴体との縁を喪った巨大な頭部が空高く宙を舞う。
シルティが斬撃を繰り出す直前、鎚尾竜はレヴィンの焦熱狙撃を嫌がり、熱源から遠ざかろうと頭を振っていた。そこをすぱりと切断されたのだ。当然、鎚尾竜の頭部は自身が生み出した慣性に従って放物線を描き、為す術もなく地面に衝突。頭部に纏わりついていた天峰銅が弾け、周辺に飛び散る。
かなりの高さから落ちたというのに、これといって音は聞こえなかった。地面に接触した瞬間にぴたりと止まり、静止する。柔らかい粘土を地面に落としたような完全非弾性衝突だ。魔法『衝撃原動』がまだ生きている。
恒常魔法は極めて燃費が良いうえに、死因が死因だ。極限まで研ぎ澄まされたシルティの斬撃はもはや切断という現象そのもの、一つを二つにする以外の結果を残さない。首を刎ねたとしても死という終着まで少し時間がかかる。
地面に鎮座する鎚尾竜の頭部が残された命を消費した。眼球を動かし、真円の瞳孔で自らを殺した者を注視する。刻一刻と膨大な血液を失っているのにも拘らず、その視線に焦燥のような色はない。やけに穏やかな表情を浮かべており――むしろ、死にそうな顔をしているのは勝者の方だ。
ふらりと倒れるようにしゃがみ込み、左手と膝を地面に突いて背中を丸め込んだ。
「はーッ、はっ、はぁっ、はあッ」
周りを見る余裕がない。息が苦しい。身体の全ての部位が空気を求めて喘いでいる。
肺腑に火が付いたように胸骨の裏側が熱く、だが同時に、背筋を駆け上るような凍えるような怖気もあった。目は酷く霞んでおり、視界の端からは色彩が失われている。頭蓋骨の内側が、なんだかじんわりと暖かい。
特に異常があるのは心臓だ。一呼吸のうちに十回以上も脈を打ち、七回に一回は脈が跳ぶ。発汗が止まらない。
刀身を傷めぬよう肩に峰を乗せてはいるが、これは刃物愛好家としての本能のようなもの。ほぼ無意識である。愛刀〈永雪〉を鞘に納めるどころか、血振りをしようという意識すらない。
全身を苛む恐ろしい疲労感。さすがに陽炎大猫の魔法『疲憊転嫁』が齎す虚脱には遠く及ばないが、最高峰の心肺の異常と同時に味わえば死を覚悟させるに充分な苦痛と化す。
「ふ、ふふっ……くふふふっ」
湧き上がる歓喜を抑えられず、貴重な空気を浪費して笑みを溢す蛮族の娘。
鎚尾竜殺しという実績を経て、彼女は『心拍数と血圧の限界を超えた上昇は脊椎動物の運動能力を向上させる』と完全に信じ切った。
これが生理学的機序として正しいのかどうかなどどうでもいい。なぜなら、無理矢理引き起こした不整脈のあとの絶好調はシルティの記憶に深く刻み込まれている。自身の『最高』こそが蛮族にとってのなによりの財産なのだ。
普段よりもキレ良く躍動する肢体。普段よりも鈍間に流れる景色。今は死ぬほど苦しいが、あれは死ぬほど気持ちよかった。今日から血管と心臓の強化を意識して生きていけば、次に胸郭を圧縮した時はもっと気持ちよくなれるかもしれない。そう考えると、この苦しさもまた最高の糧だ。
ト、ト、トン。
頭上で断続的な足音が聞こえた直後、シルティの真横に黄金色の巨体が着陸する。そのままシルティを包み込むように身体を寄せ、フスフスと鼻を鳴らしながら首筋や頭皮の匂いを嗅いだ。特に被弾した様子もないのに蹲った姉を心配しているらしい。暑さからかあるいは魔法による消耗か、少し呼吸が荒かった。
シルティは頭突き気味の頬擦りで『大丈夫』を伝えたあと、顔を上げて視線を巡らせる。
レヴィンはざりざりと姉の頭に毛繕いを開始した。
まず目に入ったのは鎚尾竜の頭部。さしもの竜といえど既に息絶えており、赤みがかった褐色の虹彩に光はない。二度目の竜殺しの物証だ。改めて意識が焼けるような狂喜を覚えた。全力で欣喜雀躍したいところだが、残念なことに身体がついてこない。脳で噛み締めるだけにしておく。
続いて目に入ったのは生き別れの胴体。まだ心臓が動いているようで、首の断面から間欠的に血液を噴いていた。
(ああ、勿体ない……)
世界最強の血液。地面に吸わせるのはあまりに惜しい食材である。重竜の血液はその肉と合わせるとめちゃくちゃ美味しかった。鎚尾竜はどうだろうか。せめてコップ一杯分くらいは飲みたいところ。
「レヴィン……あの血、勿体ないから、溜めといて」
呼吸を整えつつ指示を出すと、レヴィンは短く唸り声を上げてから踵を返し、鎚尾竜の胴体の方へ跳び出していった。
今この瞬間、この場で最も強いのはレヴィンだ。苦労して仕留めた狩果の防衛役としては彼女が適任である。
シルティは左腕で革鎧越しに胸を抱えた。
とにかく、心臓の動きを抑えなければまともには動けない。しかし、どうすればいいかわからない。とりあえず丁寧に息をしよう。大抵の場合、心臓が頑張るのは空気が欲しいからだとシルティは経験的に知っている。
長く細く息を吸い、可能な限りゆっくりと肺を膨らませた。膨張した肺を肋間筋で柔らかく引き締め、相変わらず暴走している心臓を優しく抑え込む。その状態から、心臓が胸腔の内圧を高める瞬間に肺腑を収縮させ、胸腔内の圧力をなるべく一定に保つようにした。
「……ん。よし!」
この呼吸法に効果があったのかはわからない。単純に時間が経過したことで心臓が我に返っただけかもしれない。だがともかく、シルティは運動能力を取り戻した。元々、怪我という怪我はしていない。心肺さえ調子を取り戻せば体調は万全、今からまた竜を殺しにだって行ける心づもりである。
跳び上がるように立ち、すぐさま視線を巡らせ、この場で一番の重傷者を探す。戦闘中に位置は確認済みだ。すぐに見つかった。
俯せに倒れた童女のような身体。その身に纏う天峰銅は漏れなく全てが液体と化し、赤橙色の水溜まりになっていた。つまり現在、天峰銅に生命力が導通されていないということ。気を失ったのか、あるいは死んだのか。
即座に駆け寄り、体勢を仰向けに。肋骨がふにゃふにゃだ。削られていない右肩も砕けていた。
指で唇に触れる。呼吸あり。
(凄い。生きてる)
全身全霊の疑似鎚尾竜を丸ごと消滅させられるという疑似的な死により昏倒し、覚醒後すぐさま戦線に復帰、しかし『咆光』による難治性の傷を負い、焼灼止血を施して、さらには尾骨鎚の直撃を喰らって吹き飛ばされ、それでもなお遠隔強化による疑似竜の操作を継続していたのだ。
こんなもの、率直に言って生存しているだけでも奇跡的である。少なくともシルティが尾骨鎚をまともに喰らえば身体が弾け飛ぶ。逆立ちしても不可能な頑丈さだ。
ほっと安堵の息を吐き出したシルティは、左手でハンカチを取り出しつつ右手の手首を返した。〈永雪〉を頭上で軽やかに旋回させて血振りを行なったあと、刀身を鍔元から切先に向けて丁寧に拭う。
実際のところ、極限の斬術を成し遂げた刀身に返り血など一滴も付着していないのだが、シルティにとってこれは大事な儀式。愛刀への愛情表現のようなものだ。
鯉口を左手で握り、刃を誘導して切先を入れ、角度を合わせた後、剣帯を緩ませながら慎重に慎重に鞘を送り、最後に右手で納める。
(さて)
シルティはベルトに吊るしていた小さな袋を開き、折り畳まれた端切れを取り出した。それを広げ、毒々しい赤色を呈す内側の布面を露出させると、躊躇なくカトレアの呼吸器に押し付ける。
そのまま、一拍。
「はォえッヴ」
びぐんっ。
カトレアが身体を痙攣させた。
◆
「まさか、二回も、嗅がされることに……なるとはね……」
一頻り噎せ終わったカトレアは涙の残る両目を閉じながら苦笑した。数え切れないほどの骨折の影響か、言葉は途切れ途切れ、声量は儚い。
「動けそう?」
「……ごめん、無理」
「ん、わかった。ちょっと運ぶよ」
「う。……う、ん」
シルティはカトレアの背中と太腿に手を差し入れ、そのまま横抱きに持ち上げた。直接触れている天峰銅を操作する余裕もないのか、赤橙色の液体は全てが滴り落ちて地面に残る。
天峰銅がなければ岑人は見た目相応の体重だ。不安になるほどに軽い。
「ぬゅぇ……」
カトレアが珍妙な声を漏らしたかと思えば、見る見るうちに顔面を赤く染めた。
岑人はほぼ生涯を通して天峰銅と共にある。彼らにとっては正真正銘の身体の一部で、寝床や湯舟にも持ち込むほど。そんな生態ゆえか、世界中に点在する岑人には大抵『天峰銅を一滴も纏わぬ姿は全裸より遥かに恥ずかしいもの』という文化が芽生えているのだ。
当然、シルティも岑人たちがそう感じることは知っていたが、しかし今は緊急事態である。我慢して貰うしかない。すたすたと速やかに歩を進め、レヴィンの待つ鎚尾竜の死骸へと向かった。
鎚尾竜の死骸の体勢が変わっている。レヴィンが上手く調整したらしく、頸の断面から噴き出す血は地表付近に生成された大きな珀晶製容器に注がれていた。死後間もないためまだうっすらと生命力を帯びており、霊覚器を通すと仄かに虹色に見える。実に美味しそうだ。
「うおぉ……」
大好きな竜の死骸に近付いたことで羞恥心が上書きされたのか、カトレアが興奮した様子で声を漏らした。
「レヴィン、椅子……んー……や、ベッドかな。お願い」
姉の要請に従い、レヴィンが魔法を行使。緩い背もたれのある滑らかな椅子、あるいはベッドを作り出す。珀晶製のため非常に硬いが、凹凸激しい地面に寝転がるよりは遥かに快適だろう。追加で日除けの屋根も生成される。
シルティはカトレアをそっと寝かせると、懐から再びハンカチを取り出して竜の血に浸した。軽く握って適当に絞り、それをカトレアの口元へ掲げる。
「あーん」
魔法『完全摂食』を宿す嚼人ほど即時ではないとはいえ、全ての魔物の生命力の源は結局のところ日々の食事だ。竜の血に含まれる生命力の密度は嚼人の生き血を超える。摂取すれば回復を大いに助けるだろう。
「あー……」
カトレアは嬉しそうに口を開けた。
嚼人以外の人類種は血液の生食は避ける傾向があるが、彼女は竜愛好家。竜の血ならば喜んで舐めるのだ。
ハンカチを強く握り締め、絞り出す。滴り落ちた赤色がカトレアの口腔に溜まり、そして、細い喉が小さく上下した。
「美味し?」
口元を赤く汚したカトレアが満足げに微笑む。
「ふ。ふふ。……あんまり。でも、美味しい」
「どれどれ」
シルティは自らの口腔にも竜の血を絞り、それを嚥下した。傍ではレヴィンが頭を下げ、珀晶の容器から直接ペチャペチャとやっている。
「んー! 美味しい! 重竜の血よりさらっとしてる!」
「僕は、重竜の血は、飲めなかったから……」
「あれはかなり粘っぽかったよー。喉に絡む感じがして、あんまり美味しくはなかった……でも、肉と一緒に食べると凄く美味しくて」
「へえ……」
「今回は凄く綺麗に殺しちゃったから、逆に食べられる場所がないね……」
「……端っこ、なら……。ちょっとくらい、食べてもいいよ」
「えっ! いいの!? やった!! 脳は!?」
「脳は駄目……」
魔法『咆光』が周囲を消し飛ばしたのだ。しばらくは安全だろう。
シルティはカトレアが回復するまでここで過ごすことにした。




