赤い閃光
宙を舞っていた鎚尾竜が信じられないほど軽やかな着地を決める。
見事な回転跳躍により成し遂げた破滅的掃射は世界を円盤状に削り取り、広大な草原に不毛地帯を作り出した。直後、空が落ちたと錯覚するような凄まじい下降気流が地表を洗い流す。空気が広範囲に亘り消滅したことで瞬間的な真空帯が発生し、無事だった空域から大気が流れ込んできたのだ。
さすがは最強の誇る最凶の魔法、もはや余波だけで小規模な天災である。
遥かな高みから狙撃に勤しんでいたレヴィンはもちろん『咆光』を浴びることはなかったが、下降気流の影響は上空にまで及んだ。生命力の消耗を抑えるため足場の面積を最小限としていたのが裏目に出る。冗談のような乱気流にバランスを崩され、敢え無く落下した。
背骨を屈曲しつつ四肢や尾を伸ばし、適切な部位を適切なだけ捻る。精密な連動によりレヴィンは速やかに体勢を立て直した。空中立位反射は琥珀豹という魔物に刻まれた本能だ。特に意識せずとも自然と完了される。
あとは冷静に足場を生成し直すだけ、だったのだが、そこでレヴィンは思わず硬直してしまった。
無理もない。眼下を眩い光線が撫でたと思ったら暴風が吹き荒れ、気が付けば草原が土砂漠に変わっていたのだ。もちろん、これが魔法『咆光』によるものだと理解はしているが、レヴィンの感覚ではとても一個の生命体が独力で為したとは思えぬ光景である。
一瞬後、我に返ったレヴィンは即座に主観時間を延長した。
なにより先に脳裏に浮かんだのは最愛の姉の安否である。カトレアと自分が獲物の隙を作り出す手筈になっていた。そして姉はその瞬間を逃さず肉薄できるよう、鎚尾竜からそう遠くない位置に潜んでいたはずだ。
空中で静止したような感覚の中、視界を広く取る。円形に広がる不毛の地が不自然に欠けていた。注視。愛刀〈永雪〉を振り抜いたあとのような低い姿勢のシルティを発見。
形相切断で『咆光』の掃射を切開し、そのまま暴風を潜り抜けたのだろう。あれなら問題なし。角度的に表情は見えないが、きっと嬉しそうに笑っているに違いない。目に浮かぶ。
安堵したレヴィンは改めて足場を生成し、空中に腰を落ち着けた。
続いて、臨時の仲間であるカトレアを捜索する。
綺麗に均された地面に人影は見当たらない。だが、赤橙色の水溜まりが目に映った。鎚尾竜から十五歩ほどの位置。先ほどまでカトレアが立っていた場所。
使い手を喪った天峰銅が単なる液体金属と化している、というわけではなさそうだ。なぜなら表面が全く波立っていない。いかに天峰銅が重い金属だとはいえ、あれだけの爆風が吹き荒れれば細波ぐらいは生じるはず。
おそらく咄嗟に地面を削って潜り、光線を回避したのだろう。彼女とは道中も含め数十回も模擬戦をしたのだ、岑人の金力ならばそれくらい容易いことはわかっている。
カトレアはあの赤い水溜まりの下、とレヴィンは判断した。無傷かどうかはわからないが、天峰銅を操作するだけの余裕はあるようだ。少なくとも死んではいない……などと考えていると、水溜まりが大きく脈動した。石筍が成長するようににゅっと隆起し、そして表面が裂けるように解ける。
内部に包まれていたカトレアの姿を見て、レヴィンはぴくんと洞毛を揺らした。
左腕が肩峰から肘関節にかけて真っ直ぐに抉れている。深さから見て上腕骨は丸ごと消失しているだろう。ほとんど上腕二頭筋と上腕三頭筋だけで繋がっているような状態だ。身に纏う天峰銅の総量も随分と減っており、今朝のそれと比べると半分もない。
鎚尾竜の広域殲滅魔法に対し、地面を掘削して潜伏したものの、避難壕の深さが足りなかったのだろう。肉体も天峰銅も、地表に出ていた部分は綺麗さっぱり消滅してしまったようだ。
カトレアは傷口を空気に晒したまま、天峰銅の触手で鴛鴦鉞を構えた。戦意は失われていないようだが、あれはまずい。
単に上腕を削り落されただけなら軽傷でも、竜の『咆光』は魔物の再生力を著しく阻害する。止血しなければ死は避けられない。
レヴィンは躊躇なく魔法を行使した。
収斂した陽光が華奢な腕の断面を照らす。
突然の灼熱に襲われたカトレアは弾かれたように身を躱したが、すぐにこれがレヴィンの治療であることに思い至ったのか、自ら焦点に腕を差し出した。
ジウジウという焦熱音と共にうっすらと灰色の煙が立ち、焼灼止血が施される。火傷も魔物にとっては厄介な負傷だが、『咆光』よりは遥かにマシだ。少なくともこの場で失血死することはなくなる。
無論、レヴィンもカトレアも鎚尾竜からは意識を外していない。
その間の鎚尾竜がなにをしていたのかというと、シルティを熱心にじっと見つめていた。
先ほどまでは苛立ちを露わにしていたのだが、今の鎚尾竜の視線は明らかに警戒の視線だ。
然もありなん。シルティは鎚尾竜の目の前で『咆光』を斬ったのだから。
六肢動物は生まれながらに形相切断に至っているが、鎚尾竜は同族で殺し合うほど気性が荒いわけではないし、この辺りには他の竜も生息していない。自身の誇る必殺を切開されたのは彼の生涯でも初めてのことだろう。
白い牙を剥き出しにし、レヴィンは笑った。
上空からちまちまと焼くだけのレヴィンは、鎚尾竜からすれば良くても『鬱陶しい鳥』ぐらいの印象だろう。やたらと喧しく威嚇をするくせに逃げ回るカトレアは『目障りな雑魚』と言ったところだ。
だがシルティは、竜から警戒に値する敵対生物と見做されている。
それが、自分のことのように誇らしかった。
しかし、喜んでばかりではいられない。鎚尾竜の注意がシルティに向いてしまった。確かにシルティの斬術は病的な域にまで至っているが、『衝撃原動』を擦り抜けるほど繊細な切断となれば深い集中と万全の体勢が要る。六肢動物と真正面から殺し合いしながらではさすがに困難だろう。
竜の注意をこちらに誘引しなければ。
さらに気合を入れて嫌がらせに勤しむとしよう。
自分、姉、カトレア、鎚尾竜、そして太陽、それぞれの位置を精密に掌握。
素早く息を吸い、止める。
単一な素材で作った単純な凸レンズの焦点距離は球面の曲率半径に依存する。
そして、珀晶製レンズの焦点距離と曲率半径の相関感覚など、レヴィンはとっくの昔に脳髄に刻み込んでいる。
絶対の自信を持って魔法『珀晶生成』を行使。生成された巨大なレンズが陽光を収斂させ、竜の体表に炉と称すべき灼熱の光点を生み出した。鎚尾竜の動きは姉に匹敵するほど速いが、なにしろ巨体である。俯瞰視点から動きを先読みしつつ生成すれば命中させることは難しくないが、しかし、次の瞬間には躱されてしまう。
あんなに頑丈そうな装甲を纏っているくせに、鎚尾竜はやたらと敏感なのだ。照射できる時間はほんの一瞬。生成したレンズは使い捨てにせざるを得ず、極めて短い周期で生成を繰り返さなければならなかった。
当然、生命力の消耗は激しい。
疾走、転身、跳躍。
レヴィンは視線を忙しなく上下に動かし、自分が待機している高さよりも遥かに上空にレンズを生成して鎚尾竜を狙撃し続けた。
焦点距離が長ければ長いほどレンズの厚みは薄くなるので生命力を節約できる。例えば直径七歩ほどのレンズを作る場合、二十歩の位置に生成するのと四十歩の位置に生成するのでは体積が半分以下になるのだ。可能な限り遠方から狙撃し、生命力を節約しなければ。
しかし、焦点距離が長くなればなるほど高精度なレンズが求められる。太陽に対する角度が僅かにズレるだけで焦点は大きく移動してしまうし、曲率半径が大きくなってくると球面は平面に近付いていく。巨大な真球の端を薄く切り取ったような微かな球冠を背中合わせに二つ、精確緻密に思い描かねばならない。当然ながら生成難度は跳ね上がる。
僅かな誤差が失敗に直結する、自分の仕事が姉とカトレアを殺すかもしれない、そんな精神的負荷をレヴィンは喜んで受け入れた。
心に刻まれる痛みもまた、蛮族にとっては糧だ。
今もなお姉に注がれ続ける視線を引き剥がすべく魔法を行使。ひと呼吸の間に十五も放たれた焦熱が鎚尾竜を執拗に追跡し――視線が合った。
竜の顎門が開かれる。
目に見える死の予感。レヴィンは即座に空中を奔った。
一拍の差で光線が天空へと登り、尾の先で空気が消滅する。流れ込む大気が黄金色の被毛を揺らす。だが、死の予感は消えない。鎚尾竜が大口を開けたままこちらを見ている。連続で放つつもりか。
行く先を狙われている気がする。足場を追加して鋭角に方向転換――と、視界の下端で赤橙色の影が動いた。
カトレアだ。鎚尾竜がレヴィンに集中した瞬間を見逃さず肉薄、至近距離から鴛鴦鉞の咆哮を叩き付ける。天峰銅の放物面により指向性が付与された轟音はもはや音響兵器。鋭敏な聴覚を蹂躙され、さしもの鎚尾竜も背筋を震わせた。
直後、竜が反撃に動く。
後肢で地面を粉砕して加速、胸郭を軸として豪快に回転、全身の筋力を集結させた尾骨鎚を喧しい雑魚に叩き付ける。人類種の体術で言えば後ろ回し蹴りのような挙動だが、四肢を漏れなく使った尾撃のキレは超常の域。カトレアは回避することができず、直撃を食らった。
重厚な金属音と共にカトレアが吹き飛び、赤い液体が塊となって飛び散る。
ぐちゃぐちゃに千切れることで衝撃を吸収分散した天峰銅の飛沫。文字通り必死の緩衝の甲斐あって、カトレアはいくつかの骨を粉砕されながらも意識を保っていた。
力なく慣性のままに地面を転がり、我が身を襲った竜の暴力に恍惚としつつ、明確な殺意を以て遠隔強化。
飛び散った天峰銅が空中で変形、そのまま七匹の四翼竜と化す。模擬戦で披露したものよりずっと小さな飛竜の群れが四翼を羽ばたかせて軽やかに飛翔、鎚尾竜の正面に陣取った。かと思えば、四翼竜たちが半瞬のズレもなく一斉に羽ばたきを止め、放物運動に移行。身体を最大限に広げながら鎚尾竜に背を見せる。
鎚尾竜は迷ったように視線を彷徨わせた。
雑魚を一匹を仕留めたと思ったら雑魚が増え、死んだように動きを止める。完全に想定外の展開だったのだろう。
だが、レヴィンとカトレアにとっては予定通り。
焦熱狙撃を考案してからここまでの道中、示し合わせる時間はたっぷりあったのだ。
獲物の頭部を取り囲むように点在する赤橙色の疑似竜。それらを認めた瞬間、レヴィンはその身に宿した魔法を全速で行使した。
空中に設置される巨大なレンズ。数は七対、十四個。位置は四翼竜たちの鉛直上方。古来より世界中で神格化されてきた天の光を傲慢にも歪め、私物化。鋼をも焼き焦がす爪牙として地上へと投下する。
集束された七条の光線は狙い違わず天峰銅を捉えた。
天峰銅は艶やかな光沢を持つ液体金属で、実質的に破損することがなく、岑人が操作すれば変幻自在である。少々色合いが赤いことを除けば鏡としては持ってこいの素材だ。そして、どんな高温に晒しても気化することがない。
竜にすら不快感を与える光量が疑似四翼竜の表層で反射され、赤く色づいた閃光が空間を塗り潰した。
苦痛の色を感じさせる唸り声が響く。鎚尾竜が頭部を俯かせつつ後ずさりをした。
多少拡散されたとはいえ、焦熱狙撃の七倍近い光量を真正面から浴びたのだ。竜の五感は鋭敏である。だからこそよく効くだろう。竜の回復力の前にはほんの一瞬かもしれないが、それでも視覚を殺したはず。
「くふっ」
それを見逃すシルティではない。
体重を軽く。足場は強く。殺意を両脚に溶け込ませる。
今度は寸止めの必要はない。
全身全霊で初見殺す。
シルティは踏み込んだ。