拘り
引き延ばされた視界の中、四肢を羽ばたかせて急速に上昇していく四翼竜の後ろ姿を見送りつつ、シルティは心底感心してしまった。
(ひぇー。喫茶店でも見せて貰ったけど、凄いなあ。全部ほんとに生きてるみたいだ)
三種の疑似竜の内、シルティが出会ったことがあるのは重竜だけで、鎌爪竜と四翼竜は名前や姿形の特徴、そして魔法を知っている程度である。しかしどの竜も、きっと本物もこう動くのだろうな、と思わせる説得力に満ち溢れた挙動を見せていた。開かれた口腔内を見れば、舌や牙はもちろん、咽頭の穴まで再現されているのだ。
特に四翼竜の完成度は目に見えて凄まじい。実際に空中を飛行しているということは、四枚の翼が充分な揚力を生み出しているということ。身体の概形だけでなく、構造を正確に再現した風切羽根を正しく配置し、羽ばたきを高度に模倣していなければあり得ない。しかも、天峰銅という極めて重い身体でだ。
中身を空洞にして限界まで軽量化をしつつ、渦勁を応用して羽ばたきの出力を増しているのだろう。地上を走る二種四匹が発揮している素晴らしい運動能力も同様の理屈だと思われる。
(カトレアさん、頭ん中どうなってんのかなー。ふふ。開けたら脳が八つぐらいあったりして)
鈍間に流れる視界に八匹の竜影を収めながら、シルティは一切の悪意なくカトレアを狂人認定した。
外見を精密に模しつつ内部は空洞化し、生物的形態に則った挙動を再現しながら、運動の出力を担保するために随所で渦勁を練り上げる。
三種、八匹分、個別かつ同時にだ。
一体どんな脳をしていればそんなことが可能なのだろうか。
シルティの感覚では、控えめに言っても完全に狂人である。
しかしこの戦法、合理的に考えれば随分と無駄が多い。
偏執的なまでの生物感は、不定形という強みを持つ天峰銅には明らかに不要な要素だ。むしろ疑似竜たちの猛攻を読み易くしてしまっている。先ほど何度か際どい回避で誘ってみたのだが、カトレアは疑似竜の形を崩して攻撃しようとはしなかった。
なぜ、そんな制限を設けているのか。
シルティにはわかる。
理由は偏にカトレアの拘りだ。
あくまで生物としての竜の動きを模すことに徹しているのだろう。ただ純粋に、竜を愛するがゆえに。
合理性よりも自らの拘りを遥かに優先すべき要素と考える者は決して少なくない。特に狩猟者は己の格好よさに陶酔できるような戦い方を追い求めなければならないので、ロマンを重視する傾向が強かった。シルティもついつい自分の好みを優先しがちである。
(さて、いくか)
約束通り、初手は譲った。次はこちらから。
不銹のナイフ〈銀露〉を鞘に納め、防御のために射出していた二枚の飛鱗を肩甲骨付近の定位置へ。
短く息を吸い、止める。
地面を全力で踏み砕き、真っ直ぐに加速。
足場の強化を考慮しなければほとんど全力のキレだ。しかし、操作者の反射神経を置き去りにはできなかった。一戦目で見せた初見殺しで目が慣れたようだ。先頭に位置していた鎌爪竜が機敏に反応し、突進するシルティに合わせて左の鉤爪で迎え撃つ。
魔術『操鱗聞香』をも併用した、全力の急静止。
瞬き一つの間に速度を零にしたシルティの額を鉤爪が撫でる。赤橙色の切先が薄い皮膚を裂き、前頭骨を引っ掻いていく感触を味わいながら、蛮族の少女は燃え上がる恍惚を相貌で表した。
予定通り。
カトレアの拘りを勝手に信頼し、疑似竜は変形しないという前提のもとに踏み込んだ、紙一重以下の見切りである。鎌爪竜の鉤爪を拳一つでも伸ばされていればシルティの顔面は膾になっていただろう。だが、なっていない。カトレアを信頼したのは間違いではなかった。
おかげで最高の間合い。体勢も完璧だ。
両腕を畳み、伸び切った鎌爪竜の左前腕に〈永雪〉の鍔元を優しく添え、両足を脱力、斜めに滑り込む。
自身の進路に対しほとんど平行に寝かせた刀身の狙いは、刃渡りを漏れなく一点に注ぎ込む撫で斬りの極致。
研ぎ澄まされた真銀の刃が擬似竜の表層を滑り、再現された鱗を斬り裂いて、内部に収められていた金肉へと潜り込んだ。
あとは手の内で粘りを乗せ、斬り込む――
その瞬間、鼓膜を突き破るような衝喊音が轟いた。
「ぎッぃ!」
本能的に食いしばった歯の隙間から苦痛の声が漏れる。斬り付けた力を遥かに超える反作用を受け、〈永雪〉の刀身が勢いよく弾かれた。暴れる〈永雪〉を手首肘肩の可動域を酷使してなんとか制御し、慣性を体幹へと吸収。莫大な衝撃を慣性に変換、体内で整流して左足へと流し、踏み込みを省略した加速を実現する。
鎌爪竜に纏わり付くように身を翻し、尾の動きに注意を払いつつ背後へ。
(痛ぁ!)
常人ならば骨折必至の衝撃。あらゆる関節が脱臼しかけた腕ももちろん痛いが、もっと痛いのは刀身そのものだ。繊細な武具強化が齎す体外感覚が実在しない激痛を生み出し、神経を焼き潰してシルティを大層喜ばせる。
(めちゃくちゃ斬りづらいなッ!)
天峰銅自体の重さ。操作の技量によって生み出される硬度と粘度の共存。遠隔強化による超常の強度。そして、渦勁が生み出した滞留する破壊力。
腕のいい岑人が操る天峰銅は得てして難斬性を示すものだが、カトレアのそれは殊更に極上だ。『六肢動物は世界で最も強い。そして、これは六肢動物である』というカトレアの盲信と拘りが世界に容認され、竜を模して動く偶像に驚異的な防御力を付与させているのかもしれない。
シルティの唇がますます嬉しそうに弧を描いた。
斬り難いものほど斬ってみせたくなるのがシルティという娘である。
心拍数が限度を超えて上昇し、生産された生命力が全身を燃焼させ、世界を侵食していく。
確かに竜は世界で最も強い。
だが、シルティの愛する〈紫月〉はかつて、真の竜尾を見事に輪切りにして見せたのだ。
カトレアの技を下に見るわけではないが、これを斬れなかったらあの重竜に申し訳が立たない。
はッ、ひゅっ。肺腑の中身を素早く入れ替え、喉を絞り、地面を蹴った。
振り回される鎌爪竜の尾を紙一重で回避し、逃げ道を塞ぐように右方から突っ込んできた四翼竜に皮膚を裂かせながら擦れ違う。波状的に喰らい付いてきた二匹の重竜。先走った顎門を右に躱しつつ踏み込み、遠方の個体に狙いを定める。
「ふッ!」
鋭い呼気と共に閃いた銀煌の唐竹割が赤橙色の竜鱗に衝突、甲高い澄んだ金属音を置き去りにし、顎下から刃が飛び出した。
よし。いける。
獲物と刃の逢瀬を長く楽しむ上品な撫で斬りより、単純に速度と力で叩っ斬る乱暴な切断の方が、内包する激烈な渦勁の影響を受けにくいようだ。
縦に二分された頭部はべろんと捲れるように広がり、脳の収まっていない空の頭蓋が露わになった。やはり空洞。臓器類は再現されていないと見ていいだろう。
そう言えば、重竜の脳は本当に美味しかった。
前は生食だったから、次の機会では茹でてみたい。
不意に想起された美食の思い出に食欲を擽られながら、身体を反転させると同時に左逆袈裟。後方から飛び込んでいた四翼竜、その右脇腹に刃が滑り込み、左肩から抜ける。
実に気持ちのいい手応え。先ほどは三度も躱されてしまったが、既に四肢一尾に備わった翼の動かし方を見せて貰った。四度目を許すほど、シルティは生温い戦士ではない。
これで重竜と四翼竜を一匹ずつ仕留めた。
もちろん、天峰銅の塊である疑似竜を殺すのは不可能だ。頭を割られようが身体を真っ二つにされようがそのままの形でキビキビ動けるはずである。
だが、カトレアならばまず負傷箇所を治すだろう。これほどまでに拘りを持って生物としての竜を模倣するならば、致命傷を負った見た目で元気に動くことなど許容するはずもない。
見た目としての致命傷を与えれば、少なくともその負傷が修正されるまで無力化できる。そこに猶予が生まれる。シルティはカトレアを信頼した。
そして、蛮族の娘が到達した斬術の極致は、その猶予をいくらか延長できる。
本物の重竜を斬った私に偽物の竜が斬れないはずがない。斬れるものが殺せないはずがない。殺したものが動くはずがない。
段階的に積み上がる狂信と確信を世界に容認させたことにより、シルティの振るう真銀は天峰銅を殺す剣閃と化した。
生命力の導通により思考通りの変形を行なうというのは天峰銅が持つ物性だ。
固体化した天峰銅を渦勁ごと容易く両断できる技量が伴えば、岑人の手足を殺ぐ手段として形相切断以上のものはないだろう。
物性是正が切れるまで二拍。そこから負傷箇所を修正するのに一拍。殺した疑似竜が復活するまで、足して三拍。
群れの欠員による包囲の綻びを突き、鎌爪竜の側面を取る。振り向きざまに繰り出された薙ぎ払いを立てた〈永雪〉で受けると同時、絶妙な沈身。致命の鉤爪を刀身に沿わせて流し、自らはその内側へと潜り込む。
両足を前後に開脚し、上体は前へ倒す、地面に胸が付きそうなほどの極端な低姿勢。大地を熱烈に踏み締めて莫大な反作用を獲得し、小さく折り畳んだ両腕に注ぎ込むと共に跳躍。肩を中心とする前方宙返りにより脚力と体重を打突力へと変換し、鎌爪竜の背筋に深々と斬り込んだ。
肩甲骨ごと肺腑と心臓を両断している位置、間違いなく致命傷だ。三匹目。
両足で鎌爪竜の死骸を蹴り飛ばし、刀身を引き抜く動きのまま後方へ鋭く宙返り。半瞬の差で、シルティの尻があった空間を八枚の翼が斬り裂いていった。二匹の四翼竜だ。死地をやり過ごしたシルティの両足が地面に付いた瞬間、残る鎌爪竜が入れ替わるように高く跳躍する。
空中に躍り出た鎌爪竜が左右の鉤爪を同時に振り下ろす。障害物が自発的に移動したことで開通した低空の強襲路に飛び込んでくる四翼竜の姿。さらに、右後方からの重竜の噛み付きが逃げ場を塞いでいる。
(容赦ないなッ)
操作しているのが一人なのだから当然と言えば当然なのだが、馬鹿げた精度の連携だ。鷲蜂にも勝るとも劣らない以心伝心。それでいて、群れの構成要素たちの強さは比べ物にならないのだから恐ろしい。
さて、回避か、迎撃か。
ここは迎撃だ。
一閃。
真横に払う水平により鎌爪竜の両腕を斬り飛ばし、瞬時に切り返した〈永雪〉で肩口に深く斬り込む。天峰銅の物性ではなくシルティの確信により固体としての振る舞いを強制。鍔元まで埋まった刀身を強く捻り、骨のない金肉をギュチリと掴んだ。
魔術『操鱗聞香』で鉛直下方の力を生成。さらに自らの体重を可能な限り増加させ、大きく開いた両足で確と支える。
この瞬間に実現できる最強の踏ん張りを生み出しつつ、右手を鍔に押し付けるように滑らせ、左手は柄頭を掌握。
「ふんくッ」
固く食い縛った歯の隙間から気塊が漏れ、皮膚の薄い額や首筋に血管が浮き上がった。全力という言葉を絵に描いたような表情だ。増加させた踏ん張りを骨格に沿わせて丁寧に流し、全身の筋力と練り合わせて体幹筋に蓄積、そして。
「あァッ!!」
雄々しさ溢れる気声と共に、身体ごと叩き付けた。
小柄な肢体には不似合いな剛剣が空中の鎌爪竜を引き摺り下ろし、巨大な金槌と化して飛来する四翼竜を叩き潰す。大鐘楼と大鐘楼を衝突させたような重厚な金属音が鳴り響き、その反動でシルティの身体が跳ね上がった。
「はぁはッ!」
会心の笑声。
かつて真の重竜をぶっ飛ばした時のような極上の手応えだ。
短時間とはいえ八匹中五匹を無力化した。今が勝機。カトレアを仕留める。四対一ならば自分の方が速い。
跳ね上がった身体に逆らわず、空中で小さく転身しながら両腕を脱力、刀身から粘性と摩擦を逃がし、天峰銅の死骸から真っ直ぐに〈永雪〉を引き抜く――その時。
視界の端に、カトレアがぬるりと滑り込んできた。
(んえっ!?)
馬鹿な。なんだそれは。どこから出て来た。油断をしたつもりはない。
先ほどから思っていたが、この少女、気配を殺して不意を衝くのが巧すぎる。視界に映らない瞬間があると言われても信じてしまいそうだ。
その身に備える全ての瞬発力を総動員、死ぬ気の『操鱗聞香』で体勢を制御。〈永雪〉を正中線に――いや。
もう、間に合わない。
カトレアの触手がシルティの腹部に添えられた。
全身が総毛立つ。
咄嗟に腹筋を締める。
直後、それを嘲笑うかのような衝撃が貫いた。
「おぶぇッ!」
シルティの身体がへの字に曲がり、僅かに持ち上がる。四肢がびぐんと痙攣したように伸び、そのまま為す術もなく地面に落下。べしゃりと潰れた。
内臓が丹念に揉み崩された死に体の蛮族に重竜が伸し掛かり、しっかりと体重をかける。身体が万全だとしても逃れられない凄まじい重量。さらに、顎を大きく開いて、後頭部を咥え込まれた。
カトレアが少し力を込めれば、シルティの頭部はぐしゃりと噛み砕かれるだろう。
「ガッふ、ふぐッ、はぁッ、げ、ふッ……ふ、ふふふっ……んふふふふっ……」
シルティは咳き込みながら、重竜の口腔内で笑い出した。
身動きは取れず、急所は掌握され。この状況、誰がどう見ても完全な敗北である。
「参り、ま、ゲッホげほ……。参り、ました」
「よーしよし。なんとか一勝一敗に持ち込めたなっ」
カトレアは満足げに頷き、天峰銅を速やかに操作した。
疑似重竜がシルティの頭部を解放し、身体の上からのしのしと退く。疑似とはいえ、竜のお腹を擦り付けられる貴重な経験に、シルティは少し嬉しくなった。
「……っはあぁ……」
ぶるぶると震えながら寝返りをうち、仰向けで幸せそうに笑うシルティ。その視界に二匹の四翼竜が映る。空高くを帆翔でゆっくりと旋回していた。逆光ということもあり、本当に生きているようにしか見えない。
シルティは妙にのどかな青空を眺めながら呼吸を整え、鼻腔を逆流する自らの血を飲んで生命力を補給し、折れた鼻の再生を促進する。
カトレアはどこかそわそわとした様子でシルティの傍に寄り、空中にしゃがむという奇妙な体勢を取った。
「で、どうだったかな? 僕の必殺は」
「いやっ……めっちゃくちゃ、凄かったですね!!」
シルティは大輪の花が咲いたような満面の笑みを浮かべ、尊敬という概念を絵に描いたようなキラキラとした視線をカトレアに向ける。
独立的に動く大質量の八匹が驚異的な連携を見せるだけでも充分な暴力だというのに、やたらと不意打ちが巧い指揮官が随所随所で殺しにくるのだ。必殺を謳うに相応しい戦法である。最後の一撃、カトレアが素触手ではなく鴛鴦鉞を添えて渦勁をぶっ放していたら、シルティの身体は上下に真っ二つになっていただろう。
「ひへっ」
推しからの惜しみない賞賛を受け、ファンは堪えきれず気持ちの悪い笑みを漏らした。が、すぐに我に返り、咳払いを一つ挟んできりっとした表情を取り繕う。
「……まあ、ちょっと準備に時間がかかるのが難点だけどね。巧く嵌まったらなかなかだろ?」
「はいっ! 鷲蜂を思い出すような以心伝心具合でした! 特に四翼竜がやばいですね。あれが居るだけで上全部が死角になっちゃいます。めちゃくちゃ素早いし……まさか私の剣を空中で避けられるとは思いませんでした」
「はっはっは。あれはまぁ、ぶっちゃけまぐれだったけどね。山を張ったら当たったというか」
頭上を旋回していた二匹の疑似四翼竜が降下してきて、カトレアの左右に着地した。細く尖った口吻で羽繕いを始める。
まさか竜に対してこんな事を思う日が来るとは思わなかったが、普通に可愛らしい。
「ちなみに、やっぱり竜限定なんですか?」
「うん。というか僕、竜以外は遠隔も無理なんだよね」
「え、そうな、あー、なるほどー……」
刃物への愛に飛鱗を操作するという魔術が奇跡的に噛み合い、限定的に遠隔強化に至ったシルティと同じようなものだろう。竜への愛に竜を象って動かせるという種族の特質が奇跡的に噛み合ったのがカトレアという個体なのだ。
「……にしても」
心底感服した表情を浮かべながら、シルティはある一角に視線を向けた。
頭部を割られた重竜。背筋と肩口に深々と斬り込まれた鎌爪竜たち。真っ二つの四翼竜と鎌爪竜の下敷きになった四翼竜。二戦目の模擬戦で致命傷を負ったと判断された五匹の疑似竜たちが横たわっている。
「死骸まで再現するとは、本当にこだわってますねぇ」
この岑人の少女は、物性是正の有無に拘らず、彼らを復活させるつもりがなかったようだ。斬ったあとの疑似竜はピクリとも動かず、それでいて形を崩す様子もない。
竜といえど死んだらそれまで、ということなのだろう。シルティの信頼を上回る拘りっぷりである。
「竜は死骸でもかっこいいからね!!」
カトレアはこの上なく自慢げな表情で胸を張った。




