参考にはできない
三日後。
シルティとレヴィンはマルリルの自宅を再訪問したが、ドアに挟んだメモはそのままになっていた。あれから帰ってきていないようだ。長期の狩猟に出ているのかもしれない。
日付を更新したメモを新しく書いて挟み直し、出直すことにする。
そこからさらに二日後。
ローゼレステと殺し合った日から数えると七日後だ。身体の再生を全力で促進しつつ大人しく過ごした結果、切除したシルティの左前腕は指先までしっかりと生え揃い、機能も万全となった。
ではレヴィンの尻尾はというと、まだ長さは元の四割五分ほどで、毛も疎ら。こちらの完治はもうしばらく後になりそうである。
朝からのんびりと過ごし、昼過ぎ。
定宿の『頬擦亭』の自室で、シルティは床に寝転んだレヴィンの身体に金属製のブラシを走らせていた。
既に季節は夏。とっくの昔に夏毛へ切り替わっているため、冬季に比べると被毛が短く疎らになり、スリムで涼しげな輪郭だ。とはいえ、琥珀豹の毛は人類種とは比較にならないほど強靭かつ緻密である。櫛というより剣山のような頑丈なブラシでやるくらいが気持ちいいらしい。
前肢は前方へ、後肢は後方へ、それぞれを大きく伸ばした細長いシルエットで身体を投げ出し、目を閉じて完全に脱力しているレヴィン。その左前肢を持ち上げ、肩の付け根から肢の先端に向かって丁寧に撫でつける。
すると、レヴィンが身体をくねらせながら寝返りをうち、腹部を曝け出してきた。顎は目いっぱいに上げられて頭頂部が床面にぺたりと付き、柔らかな喉元が完全に露わに。肘と手首は屈曲し、股間をおっぴろげたあられもない姿。グァーゥン。最近では滅多に聞けない、心底甘えたような唸り声を上げる。
「んふ」
ご要望に従い、顎下から喉、胸、腹を通って股間まで、被毛の流れに沿ってゆっくりと梳くと、胸郭の膨縮を伴って喉が遠雷を奏で始めた。
ご、る、る、る、る。
大きくなったレヴィンのブラッシングはそれだけで一仕事であり、どうしても時間がかかる。だからこそ幸せだ。姉妹二人きりの触れ合いの時間をゆっくりと噛み締められる……と、その時。
「シルティー?」
部屋の外から、『頬擦亭』の女主人エキナセア・アストレイリスの声が届いた。
「はーい?」
手を止めて返答するシルティ。
「マルリルさんってヒトが来てるよー」
「んっ!」
どうやら、ドアに挟み込んだメモを読んだマルリルが自室を訪ねてくれたようだ。
「通していい?」
「大丈夫です!」
レヴィンは仰向けから腹這いに体勢を変え、むすっとした表情を浮かべた。マルリルが来たとなれば、残念ながらブラッシングは中断せざるを得ない。レヴィンもそれはわかっているが、わかっていても納得できないことはある。
「また夜にね」
シルティが指先で黒い鼻鏡を突っつくと、レヴィンはその指をあぐりと咥え込んだ。鋭い門歯で姉の皮膚を甘噛みし、文字通り食い下がる。
「こらこら。やめなさいってば」
シルティは拗ね気味の妹を宥めつつ、来客を迎え入れる準備を始めた。
◆
自室のドアを開けると、腕に小さな紙袋を携えたマルリルが微笑みを浮かべて立っていた。
「久しぶりね、シルティ」
「お久しぶりです、先生!」
水精霊の探索を始めて以降も合間合間に精霊言語の学習を進めているが、探索旅行は一回で十日ほどかかるので、かつてと比べれば頻度はガタ落ちだ。前回の授業は二十三日前。マルリルとも二十三日ぶりである。
「呼び付けちゃってすみません」
「気にしないで。これ、お土産」
「えっ。あ、ありがとうございます!」
マルリルが差し出した紙袋を恐縮しながら受け取った。軽量な手応えに、ほんのりと甘いバターの香り。察するに、クッキーのような焼き菓子だろう。
港湾都市アルベニセには喫茶習慣が広く根付いているため、住民たちは基本的にティーセットを所有している。シルティはと言うと、習慣と呼ぶほどの頻度では飲まないのだが、こういう時のために茶葉と茶器はしっかり揃えていた。
マルリルを室内に招き入れ、着席を勧めた後、すぐにお茶の準備に取り掛かる。『頬擦亭』は大型の朋獣も快適に宿泊可能な高級宿屋。その客室はかなり広く、キッチンまでもが備え付けてあるので、湯を沸かすのもそう時間はかからない。
まあ、アルベニセに滞在中のフェリス姉妹は食事をほとんど外で済ませているので、このキッチンを使うのはかなり稀なのだが。
「レヴィンも、久しぶりね。……尻尾、どうしたの?」
火熾しを始めたシルティの背後で、マルリルがレヴィンに挨拶をした。
レヴィンはそっぽを向きつつ、低い唸り声で返事をする。
出会った当初のような素っ気ない態度に、小柄な森人は小首を傾げた。
「あら。なんだかご機嫌斜め?」
尻尾の怪我に言及したのがまずかったのかしら、などと呟くマルリル。
熾した種火を燃料に移しながら、シルティが苦笑を漏らす。
「あー、やー、ちょっと。気にしないでください、本気で不機嫌なわけじゃないですから」
可愛い妹の名誉のために、『ブラッシングが中断させられたので拗ねてるんです』とは言わないでおく。
手土産として持参してくれたお茶請け(一口大のマドレーヌだった)を皿に盛り、ティーカップと一緒にテーブルの上へ。キッチンに戻り、ポットに茶葉を投入。
しばし待つ。
クツポコと細かく沸騰し始めた湯をポットに注いで、蓋を被せて蒸らしながら、こちらもテーブルへ運ぶ。
「レヴィン、ちょっと椅子作ってくれる?」
シルティの自室となっているこの客室、最初から小ぢんまりとしたテーブルと椅子が備え付けられていたのだが、椅子は一脚しかない。マルリルと向かい合って座るために、シルティは妹の魔法を頼った。
鞴のような鼻息と共に、宙に浮かぶ背もたれ付きの座面が生成される。まだ少し拗ねているようだが、それはそれ、これはこれ。レヴィンが敬愛する姉の頼みを無下にすることはない。
「ありがと」
膝を屈め、レヴィンの顎下を掻き撫でる。
抽出の終わったポットを傾け、茶濾しを通してカップに注ぎ、ようやくお茶の準備は完了だ。シルティはマルリルの対面に着席し、そのまま深々と頭を下げた。
「無事に水精霊さんと契約することができました。改めて、本当にありがとうございます」
「どういたしまして」
マルリルはのほほんと微笑みながらカップを手に取り、香りを楽しんでから唇を湿らせる。
「書置きを見たときは跳び上がっちゃったわ。あと数年はかかると思ってたから……霊覚器の構築もそうだったけれど、あなた、いろいろと早過ぎなのよ」
「全部、先生のおかげです」
琥珀豹の魔法ならば高山に登らずとも水精霊に出会えるのではないか、というアイデアを与えてくれた。その上で、良心的にもほどがある条件で精霊術の師となってくれた。水精霊と早期に出会えたのは全てマルリルのおかげだ。
あの日、レヴィンの朋獣認定試験にマルリルが参加していなければ、フェリス姉妹は今も水霊術士を雇うために血眼で金策に奔走していたことだろう。
「私も、何度か精霊種を見たことはあるんだけどね……。初めて会うまでに四年くらいかかったかしら」
「それって、水精霊ですか?」
「ううん。むしろ逆で、四大精霊の中だと水精霊とだけは会ったことがないの」
百六十歳から二百五十一歳の今まで、九十一年間も狩猟者をやっているだけあって、マルリルの経験は大変に豊富だ。精霊種と遭遇したことも少なくない。風精霊は三回。地精霊と火精霊は一回ずつ。それから、四大精霊ではない精霊種、樹精霊と四回。それぞれ遭遇したことがある。
だが、残念ながらどの個体とも契約には至らなかった。
「こんにちは~って挨拶したんだけれど、一言二言しか話して貰えなかったのよね……」
気に入って貰えなかったみたい、とマルリルが苦笑する。
これこそが精霊術習得の最後の壁。霊覚器を構築して精霊言語を習得した上で機会に恵まれたとしても、最終的には精霊種との波長が合わなければ契約に至ることができないのだ。
「ちなみに、シルティはどうやって気に入られたの? まさか、水精霊も刃物好きだった、なんてことはないでしょう?」
マドレーヌを口に運びつつ、マルリルが冗談めかした口調で尋ねる。
最近では精霊術への熱意をほとんど失っているマルリルであるが、今後も機会があるならば契約を申し込みたいとは思っているのだ。成功経験を聞いておくに越したことはない。
「それが、最初は怒らせちゃって……」
「えっ? 怒らせた?」
「水精霊さんたちって、あの、動物のおしっことか、嫌いじゃないですか」
「え、ええ。そう聞くわね」
「レヴィンが、その……空で、ですね。どうしても……出さないわけには、いかず……」
「……あー……」
マルリルがなにもかもを察したような表情を浮かべた。
「そうよね……。ごめんなさい、気が回らなかったわ……」
「いえそんな。私も、ローゼレステさんに言われるまで、全く……」
「ローゼレステ?」
「あ。契約してくれた水精霊さんの名前なんです」
お茶を一口飲み、シルティが続ける。
「それで、怒ったローゼレステさんが襲ってきて、殺し合いになったんですけど」
「殺っ……えっ……そ、そんなに怒ってたの?」
「はい。アルベニセの上は全部ローゼレステさんの縄張りみたいで。それで、春頃からずっと私たちに気付いてたっぽくて……」
「うわ……じゃあ、四か月以上も……?」
「正直、殺されても仕方がないかなって思いました」
マルリルは床で寝転がっているレヴィンのお尻に視線を向けた。
狩猟者や猟獣ならば怪我は日常茶飯事なので、レヴィンの尻尾が短い理由も大したことではないだろう、と思っていたのだが……まさか、精霊種と殺し合いになっていたとは。
「よく無事だったわね……」
マルリルは小さく安堵の溜め息を履いた。
物質的肉体を持たぬ彼らを害せる存在は少ない。自然な状態では、同じ半超常存在である精霊種か、最強生物たる六肢動物くらいのものだろう。
人類種が精霊種と戦おうとするならば、霊覚器を構築していることがまず大前提。そのうえで、霧白鉄や輝黒鉄製の武器、あるいは形相切断といった有効な攻撃手段を用意して、ようやく精霊種との戦いの舞台に立つことができる。
今回は最悪なことに、その舞台が空の上にあった。
同じ状況に陥ったとして、正直、マルリルには生還できる自信がない。
「ふふ。レヴィンに足場を作って貰いながら、無理矢理近付いて斬ったんです。強かったですよ、ローゼレステさん。左腕を絞り潰されちゃいました」
既に再生が終わっている左腕を撫でつつ、シルティがうっとりとした表情で思い出を語る。
「で、二回真っ二つにぶった斬って殺したと思ったんですけど、生きてて。生きてたんですけど、死にかけてて。それを助けたら、お礼に私のことも助けてくれるって話になって」
「なるほどなるほど」
この娘の成功体験はあんまり参考にはできないわね、とマルリルは思った。




