死ぬんですね
両胸の飛鱗〈瑞麒〉〈嘉麟〉を現状実現できる最高の速度で飛ばし、自身を中心として公転させつつ徐々に半径を伸ばす。
それらを目で追い、外向きの渦を描かせた刃で濃密な白雲を長々と切開、局所的な晴れ間を作り出した。
間髪入れずレヴィンが無数の足場を展開する。形状は指定通り丸い棒だ。板のような足場より、こういう支えの方が空中では自由が利く。
姉妹と水精霊を疎らに包囲する飛び石の舞台。シルティはそれらの位置を大まかに把握すると即座に踏み込み、躊躇なく跳躍した。
好みの位置にある足場を転々と踏み砕きつつ、嬉々として空中の獲物へと襲いかかる。
水精霊は、動かない。
殺意を露わに跳びかかったシルティに、なんら反応を示していない。
彼らは超常の領域に生息する魔物であるがゆえ、尋常な動物が自らを害することなどできないと確信しているのだろうか。
シルティは止まらない。
言葉が通じるのだ。相対して得物を構え、殺し合いを宣言してもなお無防備を晒すのならば、蛮族の戦士が遠慮する理由など一つもない。
右肩に〈永雪〉を担ぎ、真正面から真っ直ぐに肉薄。
絶好の座標に〈嘉麟〉を置き、前に伸ばした左足で着地。空中での静止を成し遂げ、行き場を失った制動エネルギーを得物に流し込んだ。
右袈裟。
竜すら斬った実績を持つシルティの刃は、主人の確信をそのまま世界に容認させ、水精霊の身体をさぱりと両断した。
豆腐を斬ったような抵抗のなさ。だというのに、なぜだか妙に斬り応えが好い。自らの振るう刃で生物を死に近付けたという甘美な実感に、シルティという蛮族の根源が震えて濡れる。
直後、痛ましく罅割れた絶叫が響き渡った。
「んっ」
異質な痛みがシルティの感覚を刻む。
物質の鼓膜などいくら破れても屁とも思わないシルティであるが、霊覚器を劈く大音声を至近距離から叩き付けられたのは初めての経験だ。
僅かに眩暈を覚えたシルティはすぐさま〈嘉麟〉を蹴り飛ばし、後方へ跳躍。間合いを取り直した。
展開済みの足場の一つに着地、バランスを取りつつ背筋を伸ばしてすらりと立ち、再び〈永雪〉の切先を水精霊に向ける。
眼下では低く構えたレヴィンが被毛をぼわりと逆立たせ、耳介をぺとりと倒していた。霊覚器を持たぬはずの魔物ですらなにかを感じ取れるほどの音量だったのか。
【おま、え】
怨嗟の響き。
シルティの視線の先には青虹色の半球体が二つ浮かんでいた。片方の半球体の方は、シルティが見ている前で徐々に濃度が薄まり、そのまま霧散。もう片方の半球体は太った蛞蝓のようにうぞうぞと蠕動し、形を変え、やがて元のように球を象った。
さすがは精霊種、真っ二つに両断したぐらいでは死なないらしい。
だが、元通りではない。球の体積が七割ほどに減じている。
愛刀〈永雪〉の一撃がなんらかの損害を与えたのは間違いないだろう。
【なんだ、それ、は】
【これですか?】
水精霊の問いかけを受け、シルティは嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。右手首の動きで〈永雪〉を軽やかに回し、左手の指を峰に添えて銀煌の刀身を見せびらかす。
水精霊は自分の身体を初めて物理的に害した形相切断という現象について尋ねていた。だがシルティは、自らが握る真銀の太刀を指した問いだと解釈した。
母語話者の意図するニュアンスが伝わらないことは往々にしてあることである。残念ながら、この場に間違いを訂正できるものはいない。
【これは、えー……ナ、ガ、ユ、キ、と言います】
シルティが名付けた〈永雪〉は、水精言語には当然存在しない固有名詞である。シルティは人類言語を精霊の喉から発し、伝えた。
【ナガユキ……?】
【私たちの言葉で、永遠の雪、というような意味です。綺麗でしょう?】
【雪が、私を害したとほざくか】
【ふふ。そういうこともありますよ。私だって刃物で怪我しますし】
【はあ?】
【そんなことより】
朗らかな笑顔を浮かべ、三度、水精霊へ切先を突き付ける。
【もっと斬り刻めば、あなたも死にますか?】
青虹色の球体の動きが完全に静止した。
【死ぬんですねっ】
自分の太刀ならば精霊種を殺せると確信したシルティの目が、狂喜を帯びてどろりと蕩ける。
直後、シルティの周囲の雲が凝縮を始め、一呼吸ののちに悍ましい速度の水渦と化した。宙に生じた横向きの大渦、その数、四つ。前後左右から襲い来る莫大な質量。あの回転に飲み込まれれば身体が千切れ飛ぶかもしれない。
どうやら真剣になってくれたようだ。やはりこうでなくては。
真正面、水精霊の方へと跳躍しつつ、形相切断。左袈裟に被せるように操作した二つの飛鱗と合わせ、錐状の洪水を六つに分割する。
(おっ)
その切れ目を埋めるように出現した一本の丸棒を見て、シルティは思わず笑ってしまった。欲しい手掛かりが欲しいところに出てきたからだ。我らながら見事な以心伝心。飛鱗を足場にしようと思っていたが、これで不要になった。
左手で丸棒を握り、そこを支点に僅かに回転、手を離す。曲芸のような運動操作により、シルティは全く減速することなく空中で方向転換を決めた。
その動きを追いかけるように響く硬脆な破砕音と暴力的な水音。ちらりと見れば、六つに分かれた渦が塊となってシルティの残影を貫き、珀晶の棒を粉砕していた。
レヴィンの作ってくれた棒はシルティの動きを支え切るだけの硬さがあったはず。だというのに、一瞬で粉々だ。六分割してもあれだけの攻撃力を保持しているのか。もっともっと細切れにしなければ。
ちょうど良いところにあった足場を蹴り、進路を修正。水精霊の下に潜り込む足順を脳裏に描き、飛鱗を先行させる。切り開いた路にレヴィンが足場を追加した。ありがたい。これなら三歩で届く。
だがこれは水精霊に阻止された。シルティの動きを迎え撃つように上空の雲が凝縮。光を一切通さぬ灰色の槌となって生意気な嚼人を飲み込まんとする。
(んん)
遅い。
水精霊がその身に宿す『冷湿掌握』は、認識できる自然的な冷気と水気を超常的に掌握する魔法。雲という水分の塊の中にいる以上、水精霊はシルティをどんな方向からでも殴り付けられるはずだ。だが、さすがにそのままぶつけても大した威力にはならないようで、雲を利用した攻撃の前には凝縮するという工程が挟まる。
そのせいで、なんというか、随分と温い。
生命力の動きで予兆を読むことこそできないが、いくらなんでも起こりが明白すぎる。このままでは千回やっても自分を捉えることはないだろう、とシルティは冷静に判断した。
足場を使って急制動、直角に跳躍。飛鱗を踏み、雲の槌を迂回。獲物を間合いに収めようとしたが、水精霊はより高空へ移動して逃げる。自分を殺し得る〈永雪〉を警戒しているのだろう。
ぎりぎり届きそうだが、そのためには残りの飛鱗を使い切ってしまいそうな、嫌な距離だ。
一度仕切り直すべきと判断したシルティは飛鱗をもう一枚踏み付け、鋭角に降下。レヴィンから適度に離れた位置に両足を揃えてぱちゃりと着地する。
水精霊の攻撃の余波で足場が水浸しになっていた。レヴィンが施す繰り返し模様の浮き彫りが靴底にしっかり食い込んでくれるので、多少水が張っていたところで滑ることはない。
はずだった。
気付いた時には、シルティの視界は傾いていた。
(んな)
驚愕に目を見開く。
側方へ強く弾かれ円運動を開始した両足と、それに伴って落下する頭部。覚えのある感覚。滑ったわけではない。足を払われたのだ。
シルティの顔が瞬間的に朱を帯びた。
千回やっても自分を捉えることはない、などと調子に乗った直後にこれ。あまりに恥ずかしすぎる。
羞恥と怖気により極限まで引き延ばされた主観、止まったように感じられる視界に飛び散る水滴を見て、シルティは己の身に起きた全てを理解した。
(このクソ馬鹿ッ!!)
敵対関係にある水精霊の目前で、呑気に濡れた足場に着地すれば、こうなって当然である。
迂闊な己に激しい殺意を覚えつつ、それでもシルティの手足は即応した。
身体は左へ傾いており、足で体勢を立て直すのは既に難しい重心位置だ。折り曲げた左腕で頭部を庇い、腹斜筋を働かせて身体の接地面に弧を描かせつつ、転倒。下方への慣性を上手く掬い上げ、滑らかに両足へと流して跳び起きようとする。
その瞬間、シルティの体表が渦を巻いた。
(んわっ!?)
不測の力流に重心を乱され、シルティは復帰に失敗して再び転倒する。なんだ。何が起きた。考えている暇はない。今度は慣性に頼らず、足場に左拳を当てて突き殴るように筋力で跳ね起きる。
これは上手くいった。無事に着地。貧弱に接地していると先程のように払われそうだ。体重の軽量化を中止し、両足をいつもより大きく広げて重心を低く。
「う」
どういうわけか、右足が前に押され、左足が右に流れ、尻と腰が逆方向に捩じれ、胸が持ち上がって両腕が重くなり、頭部が抑え付けられている。
(なん、だこれ)
複数人に全身を揉みくちゃに洗われているような不快感だ。意識ははっきりしているというのに、身体がふらつく。
シルティは霊覚器を水精霊に向けたまま、物質眼球で自分の身体を改め、そして。
(あ)
自分が濡れ鼠であることに、ようやく気が付いた。
四肢も腹も背中も頭も、耳の奥まで漏れなくびしょ濡れ。こんな姿を水精霊に晒すということはつまり、いつでも動作に干渉して下さいと言っているようなもの。
連続する迂闊。脳内で自らをボコボコに殴殺しつつ、シルティは自らの不利を悟った。
動けないほどではない。体表に滴る程度の水量では大きな出力を生み出すことはできないようだ。これが父ヤレックならば全く意に介さず普段通りに暴れ回ったことだろう。
だが、シルティは動きのキレを身上とする戦士。精密かつ瞬発の繊細な動作こそが生命線である。動きの最中に意図しない力が加われば、それだけでシルティの四肢は容易く空転してしまう。
同じ不意の動作でも、相手の動きに反応して急停止するのとは訳が違うのだ。最悪の場合、素っ転んでそのまま自滅する。
身体を拭いている暇などない。いや、仮に拭いたとしても、戦場が雲の中である以上、身体はすぐに水気を帯びてしまう。現に、水精霊の水塊を受けていないレヴィンの防寒具もしっとりだ。
どうすべきか。
簡単だ。
シルティは〈永雪〉の鍔元を自らの喉に添え、大きく息を吸うと、躊躇なく真一文字に斬り裂いた。